第55話 可能性
目を開けると、ベッドの上の窓から赤く西日が差しこんでいた。
ゆっくりと首をもたげる。
視界はまだぼんやりとしていたけれど、ちょうどこちらに目を上げた様子のナギと、視線が合った。
「目が覚めたか」
ナギが立ち上がり、覗き込んでくる。
「気分はどうだ?」
「うん……」
特に、どうだということもない。
ぼんやりと瞬きをしていると、ナギがひとつ息を落とした。
「もう少し、休んでいろ」
「……うん」
「ああ、水を飲むか? たくさん飲んだほうがいいと、ミッコが言っていた」
「……うん」
たしかに喉の渇きを感じて、重い体を持ち上げる。ナギが助けてくれて、ベッドの上に身を起こして渡されたグラスの水を一杯飲み干した。
「……グンジさんたちは」
気を失う直前まで、彼らがそこにいたような気がして。まだ覚め切らない頭で思い出して、ぼんやりと訊く。
「仮眠を取っているところだ。今はきみを一人にするわけにはいかないからな。交代で見張ることにした。どっちにしても、もう日が暮れる。帰りは明日になるから、まだ寝ていろ」
穏やかな口調で言われて、うん、と素直に頷いたけれど。
ああ、また今日もピアノが弾けないのか――と、気持ちが落ち込む。
だけど。疲れているのは確かで。うつらうつらとしながら、そういえば、殺されそうになったなと思い出した。
ハルがそこに思い至るのを待っていたかのようなタイミングで、ナギが、
「サヤのことは、すまなかった」
床に目を落とし、腕を組んで言う。
「ナギさんが謝ることじゃないよ」
「いや――客とはいえ、彼女はアスカの人間だ。まさかアスカの者がと思ったのだが――」
「……サヤは、どうしてる?」
訊くと、ナギはちらりと目を上げた。
「ミッコが多少、言葉が通じるようでな、彼女がサヤについている。こんなことをしたワケを聞こうとしているのだが、何も喋らん」
大きなため息を落として。
「サヤにコウランの毒薬を手に入れられるとは思えんからな、犯人が別にいることは確かだろうが――ただ、きみをナイフで殺そうとしたのは、どうにも解せん。コウランが脅しや嫌がらせではなく、元からそういう計画できみを殺害しようと企んでいたのか、あるいはサヤが暴走したのか――」
そうしてまた床へと視線を戻し、
「私はてっきり、きみとサヤは思い合っているのだと思っていたのだが」
「そういうことじゃないんだ……」
いや、もしかしたら、そうだったのかもしれないのだけれど。
(厄介なことになったな……)
まだどこかぼんやりとした頭で、そう思っていた。
サヤが自分の意志でハルを殺そうと思ったということが明かされなければ――そしてその理由もはっきりしなければ――、村の代表者のだれかが余計な罪状を押し付けられてしまうのだろうか。
けれどすべてを打ち明ければ、サヤはどうなる――?
この期に及んで、サヤがなんの仕置きもなく放免され、ここでこれまでと変わらず暮らしてくれればいいと思っている自分が可笑しかった。けれど、ハルにはどうしても、彼女を責める気持ちにはなれなくて。彼女もまた、トキタの言うところの「都市の文明に狂わされた人間」なのだから。
二〇六〇年代に囚われ続ける、憐れな少女。いや……憐れむべきなのか? ただ、分かり合えないだけで。利害が一致しないだけで。正しいのはどちらなのか、だれに判断できると言うのだろう。
はあ。重いため息が漏れる。そのうち考えるのも億劫になって、ハルは目を閉じた。
コウランの毒に倒れてから丸一日半も眠って、だいぶすっきりしていた。
朝の冷たい空気にマントをかき合わせながら、ハルは小川のせせらぎにぼんやりと目をやっていた。
もうサヤは来ないだろうな――と思いながら。
背後で砂を踏みしめる音がして、思わずくすっと笑う。彼女の足音とは違うことに、がっかりしているのかホッとしているのか自分でもよく分からなくて。
振り返って、目を見張った。
「サヤちゃんじゃなくて、がっかりしたって顔だね?」
「あぁ殺されなくて済んで良かった、って思ってる顔だよ。――ミッコさん」
「やあ、おはよう。もうすっかり元気?」
「うん。おかげさまで」
「この川は、いいよね」
微笑んで、ミッコはハルの隣の隣の岩に腰を下ろした。
「このもっと東のほうにね、コスゲって村があって。そこにも川があるっていう話を聞いたよ。結局その時は川は見られなかったし、その後そっちのほうには行ってないんだけど。やっぱり荒川だと思う? それとも、こんな小さなせせらぎかな」
「びっくりするなあ」
川面に目を向けて、ハルは笑った。
「スリーパーって、意外と結構いるの? ほとんど死んじゃって、ものすごく少ないって聞いたと思うんだけど」
「多くはないと思うよ。少なくとも、あたしは砂漠に出てきてから相当経つけど、実際にスリーパーに会うのはきみが初めてでサヤちゃんが二人目だ。もしかしたらスリーパーかもって思うような人間の話は、たまに聞くけどね」
「そうなんだ。おれ、まだ目が覚めて一年も経ってないし、砂漠の中をあちこち行くようになってからは半年くらいなんだけど、もう二人も会ったよ」
「引き寄せられるんじゃないの? サヤと会ったのは偶然だとしても、あたしはきみに会いに来たんだよ、シンドウ・チハル」
視線を合わせて、ミッコはいたずらっぽい笑顔を作った。
「……ミッコさんも、新宿にいたの? なんでおれのこと知ってるの? スリーパー全員覚えてるの?」
「ああ」と、質問を並べるハルに、ミッコは軽く笑って、
「ちゃんとした自己紹介がまだだったね。あたしは新宿のシェルターで眠りについた。医師として、自分で決めてね。その頃は、モリオ・ミチコという名前だったね。そうしてトキタさんが目覚めてすぐくらいに起こされて――トキタのおっさんは、元気?」
「元気だよ。もう、じいさんだけど」
「ハハ、そっか、そうだよね。――起きて、一年ちょっとはあのシェルターにいただろうかね。出て、それから何年も旅をしてね。あちこちの村で数日から数か月ずつ、客として滞在させてもらって。だいぶ離れたところまで行ったけれど、やっぱり東京がいいわぁなんて二〇〇〇年代の若い子みたいなことを考えてさ、五、六年前になるかな、戻ってきたらオオイの村にあたしを嫁にしたいっていう酔狂なヤツがいたんで、それから住み着いてるんだ」
「え! 待って」
そこでハタと気づいて、声を上げる。
「二十年前に目が覚めたんだよね?」
「ああ、もうそんなになるか。あまり正確に年を数えていないからねえ」
「その時にすでに医者だったってこと? それじゃ、ミッコさん、よんじゅ――」
「おおっと! 待ちたまえ少年。女性の年齢を話題にしてはいけないのは、全時代共通の社会常識だ」
険しい顔で手を上げストップを掛けられて、慌てる。
「ご、ごめん、びっくりして。だって……どう見ても三十くらいにしか見えなかったから……」
「よろしい。許す」
また笑顔を作り直して、
「職業柄、トキタさんを手伝って冷凍睡眠室に出入りしてね。スリーパーの様子を見たり起こすのに付き合ったりしていたんだ。あたしが都市を出る時点で、スリーパーはあともう五、六人しか残ってなかったからね。覚えているよ、きみのことは特に」
ミッコは膝に頬杖をついて視線だけこちらに向け、ニヤリと片頬を上げる。
「きみの寝顔は、あたしの好みだった」
「はあ?」
また寝顔のことを言われた。イヤな顔をするハルに、ミッコは声を上げて笑った。
「目を覚ましたきみに会いたいと思ってたんだよ。ほらね、想像通り。なかなかいい男になってくれたじゃないの。あたしの目は確かだったね」
「……なに言ってんの」
「ええー? 自覚なし? モテたでしょう、それでピアノが上手かったら」
「そんなこと一度もないよ」
「ハハ、ピアノに夢中で気が付かなかったね? ピアニストになってたら、たぶんアルバム、ジャケット買いの女子続出だったと思うよ」
「ええ? それはなんだかなあ。演奏のほうで選んで欲しいんだけど」
「いいじゃん。見た目がいいほうが気分もいいし。あたしは買ったね。それで、旦那に見せびらかすんだ。『この若いピアニスト、いま人気なんだよ。コンサートのチケットも全然取れないんだから。ね、いい男じゃない?』すると、旦那はちょっと嫌な顔をして『そうかなあ』と言う。けれどどうしてどうして、演奏を聴いて『む、こりゃなかなか……』」
芝居がかったミッコの口調に、思わず笑いが漏れた。
「ミッコさん、結婚してたの?」
「きみが超人気ピアニストになる頃には、もしかしたらって話だよ」
「ええー?」
「そう。コンサートも大人気だ。チケットは入手困難。握手もサインも大変だよ。練習しておいたほうがいい。テレビにもネットにも引っ張りだこだったかもしれない」
くすくすと笑い合う。
ハルがあの時代に夢を叶えてピアニストになっていたら――。そんな想像の相手になってくれる人間は、この時代にはいなかった。
「おれはピアノばっかり弾いてたいから、ほかのことはあんまり……」
「いやいや、分からんよ、人間成功したらどういう心境になるか。人気が出たら気持ちよくなって、あれこれ手を出したくなるかもしれないしね」
「そうかなあ」
そんな状況で強制的に冷凍睡眠なんかさせられたら、本当にトキタを殺していたかもな。
そう思って、ふっと気づく。
(ああ……)
だから、
世間と繋がりがなく、世の中から消えても社会に影響を与えない。
年齢や身体的な条件だけじゃなくて、社会的に、消えてもいい存在だったんだ。
「どうした?」
頬杖のまま、ミッコは腰をかがめて覗き込んでくる。
「……いや。もしもそうなってたら、冷凍睡眠なんかさせられてなかったかなって。おれも……あいつらも」
川面に目を落として呟くように言うと、ミッコは笑顔を小さくして、そうして優し気に微笑んだ。
「きみは……知らない間に強制的に眠らされて、起きて失敗だったという結果しか知らないから、信じられないかもしれないけれど」
どこか遠くを見つめるようにして、
「冷凍睡眠というのが、どこかキラキラした可能性に見えていた時期もあったんだよ」
遠く隔たったところ――それは、距離ではなく時間かもしれない――へと視線をやるようにして目を細め、ミッコは口元に小さな笑みを浮かべていた。
「たぶん、強制的に眠らせる者たちを眠らせてからだから、きみは知らないね。きみたちが眠った後のことだよ。われわれ専門職の者たちに、募集が掛かった。あたしは親も早くに亡くしたし身寄りもなかったから、自分から志願して眠りについた。そういう人間も結構いた。知識や技術を未来に役立てる? カッコいいじゃん」
ミッコはやはり顔に笑みを浮かべて、わずかに目線を上げる。
「一応、冷凍睡眠計画は機密として始められたようだけど、公然の秘密だった。そりゃ、何人も世の中から消えているんだから、バレないわけはないよね。だいぶ世間も混乱していたから、もう機密とかどうでもいい雰囲気になっていたのかも。一般の人たちもね、『いいなあ、おれも冷凍睡眠につきたいなあ』って声は珍しくなかったよ。冷凍睡眠の技術自体は完璧だと言われていたし、実際に医療の分野では新技術として期待され活用されていた。戦争で死ぬのはやっぱりイヤだしさ。まあ人数に限りがあるからね、人間関係を断ち切りたくない人は敬遠したし、何を世迷言をと言う人も少なくはなかったよ。でも、当時はおおむね、冷凍睡眠というのが大きな可能性として認識されていたんだよ」
ミッコの視線が、ハルに戻ってくる。笑顔が苦笑に変わった。
「やっぱり失敗だった。という結果しか知らないきみには、馬鹿みたいに感じられるよね。そりゃそうだ。こんな妄想じみた計画が上手く行くはずなかった。だけど、あの頃はみんな、頭がおかしくなっていたのかもね。わずかな可能性に賭けるしかなかった。フフフ。おかしいよね。やっぱり信じられない?」
「いや……」
ハルは少し考えて、
「それだったら、良かった……かな」
「ん?」
「ずっと気になってたんだ。おれが突然いなくなって、父さんや母さんはどうしたかなって」
ミッコは、笑いをしまってハルの顔を見つめていた。
「冷凍睡眠がむしろ希望で、おれが未来の世界で夢を叶えるって信じていたんだったら、ちょっとは良いかな。たぶん、戦争で死んだんだと思うけど……それまでの間さ」
一度、唇を噛みしめる。そうしてまた少し考えて。
「こんなことになるならピアノなんかやらせなきゃ良かったって、後悔してなければいいなって、ずっと思ってて。おれ、好きだから。ピアノ。やらなきゃ良かったってどうしても思えないし、やらせてもらえたこと……感謝してるんだ」
川面へと視線をやっていたハルの頭に、ポンと、ミッコの手が落ちて来た。
「いい子だな、きみは」
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