第54話 幻覚

 ナイフを大きく振り上げたところで、サヤの手が止まった。


「ちょっとちょっと、お嬢さん?」


 サヤが頭上に振りかぶった手を掴み、ミッコが後ろから、ナイフを握る少女に顔を寄せていた。反対の手で、その左腕も拘束する。

「病人の前で、そんな物騒なものを振り回すのは、感心しないな」


(え……ミッコさん?)


 息を切らしながら、ハルはその言葉を聞いていた。


「はっ、はな、し、て……!」


「待って待って? 会話をしようじゃないの。そこの元気な少年が」

 サヤを見つめながら言って、左腕を押さえている手でおざなりにハルを指さす。

「もっと元気な時にきみに何か酷いことをして、きみがそれで傷ついてやむにやまれず彼を殺そうというのなら、あたしは村の子供たちを取り返すことは諦めてきみを見逃そう」


(ミッコさん……)


 ハルが口もきけないくらいに疲労困憊しているのをいいことに、言いたいことを言って。それに――。


「そうじゃないんだとしたら」

 掴んでいるサヤの腕を捻り上げるようにして、ミッコはさらに少女へと顔を近づけ、のぞき込む。


 ようやく何かに気づき、愕然とした様子のサヤを数秒ほど見つめて。


「隣の部屋のおっさんたちを呼ばないとならないんだけど、いいかな?」


 驚きの表情でしばし目を見開くサヤと視線を合わせていたが、それは数秒ほどのこと。ミッコは大きく息を吸ったかと思うと、


「――ナギ!」


 入り口の外へと首を巡らせ、サヤの腕を掴んだまま大声を上げる。


「グンジ、オキ! ちょっと来て!」


 すぐに足音が聞こえ、はっとして、ハルはわずかに身を起こした。

「サヤ、ナイフを――」


 だが、男たちが駆けつけるのが早い。


「サヤ……これは、一体……どういうことだ?」

 右手にナイフを握りしめミッコに押さえつけられているサヤに、ナギが困惑の声を上げる。


「ハル! ケガはないか?」

 グンジが駆け寄ってきて、辛うじてベッドからほんの少し身を起こしているハルの肩を支えた。


「……大丈夫」


 オキはサヤの手のナイフに目をやりながら、

「おうおう……どうした? こんな可愛い嬢ちゃんに命狙われるって、ハル、おめえさんも大した色男だなあ」


(ええ……オキさんまで、そんなことを……)


「……サヤ。ともかく、こちらへ」

 ナギはサヤの手からナイフを取り上げると、その腕を取って部屋を連れ出そうとする。

 グンジが見送るように立ち上がった。


「ナギ、さん……」

 声を掛けようとするけれど、届かずに。


 と、ミッコがゆっくりと寄ってきて、ベッドの横に膝を付き、

「休んでなさい。きみがあの子と会話が出来ることは、まだ知られないほうがいい。あの子のことは、あたしに任せて」


 片目をつぶって見せて、それから耳元でささやくように、

「大丈夫。悪いようにはしないから。ね、シンドウ・チハル」


「……え?」


 すぐに立ち上がって去っていく女に、

「ミッコさ……」


 呼び止めようとした時だった。


 唐突に、背中がビクッと飛び跳ねた。

 次の瞬間、呼吸が止まる。


(え……? なに……)


 何が起きているのか分からずに、ごくりとひとつ唾を呑み込んで。


「あ……」

 気づけばガタガタと、体が大きく震えだしていた。

「ああ――」


「お、来たな。そろそろだと思ったんだ」

「ああ、ハル……大丈夫だぞ、気を確かに持て」


「な……? あっ……あああああ!」


 絶叫していた。

 体がのたうち回ろうとしてもがくのを、グンジとオキが両側から押さえる。


「コウランの怖いのは、この後なんだよ」

 かすかに憐れむような笑みを浮かべて、オキが言う。

「切れる時が、ヤバいんだ」


「はっ? ……ああぁ」


 震える。

「ううっ、う……ぐ」

 わけの分からない声を上げていた。息ができずに。


(なんだ、これ――ああっ)


 さっきまでの吐き気と胃の痛みとはまったく違う苦しさ。気づけば涙がぼろぼろとこぼれていた。ガタガタと体が震え、身を捩るようにして体が勝手に暴れようとする。


(なんだ)


「ハッ、ハア……あああ……!」


「これで暴れてケガしたり、幻覚を見て苦しすぎて死んだりするヤツがいるんだよ」

「大丈夫だ。少しの我慢だから、な」

「ああ。押さえててやるからよ」


 耳に入ってくる言葉を理解し切れず、自分の体がどうなっているのか把握できず。

 ただ、バタバタと体が勝手にもがこうとする。震え、引きつけを起こしたようにのけ反り喘ぐ。

 苦しさと恐怖で息もつけないまま泣き叫んでいた。

 両側でハルを押さえているグンジもオキも、目に入らない。


 見えているのは――。


(フジタ?)


 ――シンドウ、おまえさあ。


「あああああああ――!」


 ――おれたちのこと、忘れてねえ?


 忘れてないって。いつだって。


 ――いつだって? それにしちゃ、楽しそうにやってるじゃんか。


 えぇ? アスカの楽隊との演奏を楽しいって思ったから、怒ってるの?

 だって、あれは……。

 言い訳をしようとして、向かい合ったフジタ。その体の右半分は、ドロドロに溶けていた。


「うわぁぁぁ!」


 大丈夫だ。ハル。薬のせいで幻覚を見ているんだ。

 幻覚だ。夢だ。


 意識の外側から呼びかけられる。


(幻覚? いや、だって――)


 嘘、こんなにはっきり……。そこに……。


 ――幻覚なんかじゃねえよ。


 反対側から呼ぶ声。

 そちらに目をやると。びくん――と、体が大きくまた跳ねた。

 腕を押さえつけられて、そこが酷く痛んで。


 目の前にいたのは、それはもう、ヒトの体の形を成していない、腐った――


「ああ!」


 だれだよ。分からないよ。


 ――はあ? だれって? ほら見ろ、忘れてんじゃねえか。


 タカハシ? それとも、エモト?


 ――はあ?


 だって、そのかっこじゃ。


 ――おれら、ずっとおまえのこと待ってるのにさ。

 ――何百年も、ずっとだぜ?


 ごめん、ごめん、ごめん――


 涙がぽろぽろとこぼれ落ちているのは、夢か、現実か。


 ごめん――


 ――いいからさ、もう。早く、こっち来いよ。


 行くよ。行くけど……。

 だけど、まだ……やることが……。


 ――おいー、いい加減にしろよぉ。どんだけ待たせるよ。早くピアノ四重奏、やろうよ。


 やりたいよ。けど。


 だって。みんな、期待してるんだ。グンジさんも、オキさんも。ナギさんも。リサさんだって、ルウだって。それに、ニーナさんや、ヤマトの村や、ほかの村のみんなも……。

 子供たちが帰ってくるのを。

 それを、元に戻して。

 そうして、あの都市をどうにかしなくちゃ。狂ってるんだ、だから――


 ――狂ってるって、そりゃおまえだよ。


 おれ?

 おれが、狂ってるのかな。


 ――ほんとだよ。どうかしてるよ。

 ――なんだってそっちでおまえだけ、楽しそうにやってんだよ。


 おれだけ弾いてるから? やっぱり怒ってるの?

 楽しかったから。あの時。


 ――はあ? お前だけ弾いてる?

 ――そんな体で?

 ――弾いてると思ってるの?


 え?


 ――見てみろよ、ちゃんと。

 ――その腕。腐ってるじゃん。

 ――おれたちと一緒で。


 ……え?


 ――それで、どうやって弾くの?


 腕が……?


「あっ――」


 ガタっ――と。体を起こそうとして、身を捩ろうとして、――動けない。


 痛い――

 腕が――腐って――崩れて――

 ないよ。おれの腕が――


 ピアノが、弾けない。


「うあああああ! あああ!」


 ハル。大丈夫だ。

 夢だよ。幻覚だ。

 コウランの幻覚を見てるんだよ。


(幻覚? どっちが?)


 腕があって、まだピアノを弾けるほう?

 楽隊のみんなと演奏したこと?


 ――あの女の子も。


 サヤ?


 ――好きなの? サヤのこと?


 違うよ、違う、違う、違う。


 ――彼女と幸せに暮らすつもり?


 違うよ、だから、


(サヤのこと、許してやって)


 どうしようもないんだよ。おれと同んなじで。

 狂わされちゃったんだ。だれかに。

 その怒りをぶつける相手が違っただけで。


 そうだろ。


(許してくれ)

(お願いだから)


 ――弾きたいんだ。

 ――弾かせて。

 ――何もいらない。それだけでいいから。




 長いことずっと、身悶えしながら泣きじゃくっていたと思う。

 薄っすらと目を開けると、淡い光がまぶたの隙間から差し込む。窓の外がもう明るんでいた。


 酷く、息が切れていた。

 光は視界の中で白く滲んで、目に見えるモノの輪郭をかすませた。


「もう大丈夫だ。ハル。頑張ったな」


 そう言ったのが、だれだか分からないけれど。

 汗ばんだ体を、顔を、その手が撫でている。


 それがなんだか心を落ち着かせるリズムで。

 ハルはゆっくりと、目を閉じた。

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