第49話 温もり
「あんな寒い部屋に何時間もいて、しかもうたた寝なんかしてたら、そりゃカゼも引くでしょうよ?」
呆れ気味に言って、リサはハルの額に載せていた手を離すと代わりに濡れた布を当てた。
「ごめん……」
面目もなくて、ハルは布団を鼻のあたりまでたくし上げる。
「あたしに謝ったって、しょうがないでしょう。とにかく今日は一日寝てなさいよ。あとで温ったかいスープ持ってきてあげるから。どう、食べられそう? 食欲はある?」
「うん。ありがとう」
リサは立ち上がって軽いため息を落とすと、
「ちょっと待ってな」
言って部屋を出ていって、すぐにまた戻ってきた。小さな布団のような、なにかもこもこした布を抱えている。
見ていると、ベッドの脇までやってきて、それを広げて見せた。
「ずっと気になっててさ、こういうの必要なんじゃないかって用意してたんだよ」
両手に持って広げたのは、綿入り半纏のような分厚い上着だった。
「え……」
「あんたがこの寒いのにあの部屋に入り浸ってるから、モトに手伝ってもらって急いで作ってたんだけど。ちょっと遅かったね」
苦笑するように言うリサに、
「いや!」
ハルは慌てて声を上げた。
「ありがとう……。ああぁ……これで、弾ける」
見ているだけで、胸が温かくなる。
柔らかく微笑んで、リサは布団の上にそれを掛けた。
「カゼが治ってからにしなさいよ?」
苦笑含みに言って、リサが部屋から出ていく。
掛けられた半纏を両手で一度持ち上げて広げてみて、しみじみと見て。それからもぞもぞとした動きで折りたたんだそれを布団に入れて。抱きしめて、目を閉じた。
一日寝ていなさい、と言われたけれど。
昼過ぎまで寝たらそこそこ気分も良くなって、ハルはベッドを起きだした。
体温計なんていう無粋なものがない世界は、都合が良い。自分がいいと思ったら、ベッドを抜けることができるから。
早く、この半纏を着てピアノが弾けるのを試してみたくて。
着てみると、それは結構な重みで自由自在に動き回るには少々難があるけれど、とにかく暖かい。厚手のマントでは腕にまとわりついて弾けなかったが、これならちゃんと袖がある。
かつて絵本か何かで見た、昔ばなしに出てくるおじいさんとおばあさんの服装みたいだ、と苦笑して、それから「そうだ!」とひらめいて。
台所へ行くと手ごろな瓶を一本拝借し、ストーブに載せてあったヤカンから湯を注ぐ。蓋をして取り上げて、
「熱ちっ!」
慌ててそこらへんにあった布に包むと、手を温めるのにちょうどいいほんのりとした温もりとなった。
(湯たんぽ……だっけ)
二〇六〇年代には必要なかったから、ハルも実物を見たことがない。それこそ、昔ばなしだとか、昔使われていた道具だとかで見たような記憶があるだけで。
(一周まわって新しいな)
自分の発想に満足し、布に包んだ瓶を両手で大事に抱えて廊下を歩く。
地下室への階段に差し掛かろうとしているところで、外からなにやら賑やかな笑い声が聞こえてくるのが耳に入った。それはどれも、聞き馴染みのある声で。
「おおい、気をつけろよ? 初めての馬なんだからよ」
「ハハ、大丈夫だろう。落ちて起き上がって一人前なんだ」
「いやいやいや、そりゃ厳しいだろよ。男ならともかく、こいつは娘っ子なんだからよ」
「わっ、あああ、うひゃぁ」
「おおい! だから待てって!」
「ハハハ、いいぞ、そのまま一周してこい」
賑やかな声に誘われて建物の入り口から顔を出すと。
目の前の道で、馬にまたがって「わぁぁ」と叫んでいるルウと、それを見ながら話し合っているグンジとオキ。それぞれに別の馬に手を掛けているほかに、繋がれた馬があと二頭。
こちらに体を向けていたオキが、顔を出したハルに気づいた。
「おう、ハル。カゼ引いたんだって? 大事にしろよなあ、まったく」
オキの視線に気づいてグンジも体ごと振り返る。
「起きてていいのか? もう少し休んでいたほうがいいんじゃないか? きっと、ここのところの疲れが溜まっているんだろう」
「大丈夫。もう治った。……と思うよ」
答えると、オキは片頬を歪めるようにして笑顔を作った。
「ほんと、大事にしてくれよ? 次の会合までもうそんなに間がないんだからよ。や、それにしても――いいな、それ。暖ったかそうなの着てるじゃねえか」
言われて嬉しくなって、ハルは両腕を広げて半纏を見せる。
「リサさんが作ってくれたんだ。これで、地下室でもきっと寒くなくなるよ」
「はあ? 地下室?」
オキが首を捻ったところで、
「ハルー! ピアノぉぉぉぉっ、弾くっの?」
跨っている馬に振り回されるようにしながら、そこら辺を一周してきたらしいルウが声を掛けてきた。
「ねえハル、この馬、あたしにくれない?」
目を輝かせて尋ねられる。
「ええ? なんでおれに訊くの?」
あいまいな笑顔で聞くと、グンジが「これは」と全部で五頭の馬を示した。
「オオイの村から、ハル、あんたへの贈り物なんだ。『計画』への礼だそうだ」
「ええぇ?」
困惑を浮かべて、ハルは顔を歪める。
「オオイは馬の調教を商売にしててな」
オキが笑顔で注釈する。
「またこりゃ、立派な馬を送ってくれたじゃねえか。あそこの馬はいいぜ? 砂漠も砂に足を取られず速く駆けるし、夜の暗い道でも挫けねえ」
(困ったなあ)
手にしていた瓶を抱きめるようにして、腕を組んだ。
計画が成功しすべてが上手く行ってからならともかく、まだちゃんと実現できるのかどうかすら定かではないというのに。
オオイの――あの快活そうな女を思いだす。嫌な雰囲気になってしまった会合の場に、助け舟を出してくれた人だ。ミッコ、ってオキは呼んでいたっけ? ヘンな下心のありそうな感じには見えなかった。都市の宝を手に入れようとする者をいさめる発言をしていたくらいだから、オオイの取り分を多くしてくれなどという話ではないのだろうけれど……。
(まあ、そんなヤバそうなのだったら、グンジさんやオキさんが止める……よな?)
そう思って、苦笑を浮かべた。
「おれ、そんなに……馬、五頭も要らないのにね。ヤマトのみんなのにしてよ」
「じゃああたし、もらってもいい? この馬。自分の馬が欲しかったんだー」
「いいんじゃない?」
「やったあ!」
ルウは馬の上で飛び跳ねようとして、振り落とされそうになって慌てて首にしがみつく。
「ハハハ、いい馬を選んだな。嬢ちゃん、見る目があるじゃねえか」
「うん、これが気に入った! 名前はリュウにする。リュウ―、これからあんたはあたしの馬だよ」
それに目を細めるようにして笑っていたグンジが、腕を組んだままハルへと顔を向けた。
「ハル、あんたも、まあ四頭は要らないかもしれんが……どれか一頭自分のにしちゃどうだ?」
「おれはいいよ。空いてる馬を使わせてもらうから」
「リュウを貸してあげるよ! きっといい馬だよ!」
「こら、調子に乗るな」とグンジからいさめられながらも、ルウは嬉しそうに馬を乗り回し、
「ピアノ、後で聞きに行くからね! もうちょっと乗ったら!」
叫ぶ。
「ピアノって?」
二頭の馬の手綱を取って引き寄せながら、オキが首を傾げた。
「楽器だよ。この地下にあるんだ」
足元を指さして答える。
と、別の二頭の手綱を持ったグンジが相好を崩した。
「ハルの隠れた特技なんだ」
「はあ? ハル、おめえさん、なんだってそんなモン隠してやがるんだ。聞かせろ聞かせろ」
「いや、隠してないよ。ピアノが隠れた場所にあるだけで」
「オキさんもっ一緒っに、聴いていきなよ!」
馬上で振り回されるようにしながら、ルウが叫ぶ。
「おうおう、舌を噛むぜ? じゃあよ、馬と商談を片付けたら行くわ。グンジとルウと」
「うん。暖ったかくして来てよ」
笑って、ハルは地下室への階段を駆け下りた。
オキさんは、明るくて勇ましい感じの曲が好きそうだけど、どうかな。
軽く指を慣らしながら。「英雄ポロネーズ」、それとも「軍隊ポロネーズ」? もしかして「子犬のワルツ」とか好きだったりして……いや、あれで結構センチメンタルなところがあるから、「ノクターン」とか「別れの曲」?
(片っ端から弾こう)
綿入り半纏はやはり重くて少々動きにくくはあるが、昨日まで凍えて動けなかったのを思えば快適だ。
そして、ちょっと浮かれている。
グンジが「せっかくだから菓子でも持ち寄って、みんなでハルのピアノを聞きながら茶会にしようか」なんて言い出したから。サロン・コンサートみたいじゃないか。
昨日まで「もう上手くなれない」とメソメソしていたというのに、現金なもんだと我ながら苦笑して。
オキだけでなく、冬場の閑散期で手の空いている村人たちがいつの間にか十数人も集まってきて、底冷えの地下室でもそれほど寒さを感じないくらいになっていた。
オキはハルの弾く「革命のエチュード」に目を白黒させて、
「おい! なんだこりゃ、どうなってるんだハル!」
と叫び続け、ほかの村人たちに迷惑がられ押さえつけられている。
(ああ、気持ちいいな)
みんながハルのピアノを聞いてくれて。嬉しかった。
調子に乗って夜まで弾き続けて、熱がぶり返してリサに説教されながら二、三日寝込んだのは、オキには内緒だ。
――おい、シンドウ。
あ、フジタ。それにタカハシ。
――いつまで待たせるんだよ。何やってんの?
エモト……。ごめん。ちょっといろいろとやることがあってさ……。
――早くやろうぜ、一緒に。来いよ。
そう思って、一生懸命やってるんだけどさ、ちょっと時間がかかるんだよ。生きてるほうも、意外と大変なんだよ?
――シンドウ、あたしの歌の伴奏してくれる約束、ちゃんと覚えてる?
サクライ。もちろんだよ。「歌の翼に」だよな、それと……。
――「私を泣かせてください」だよ。もぉー、ちゃんと練習してくれてる?
うん……あ、だけど、楽譜をなくしちゃったんだよ。眠る時に、たぶん。
――はあぁ? テスト、もう来週だよー。
……ごめん。
――シンドウー。ピアノ四重奏、どうすんの。お前がいないとできないんだけど。
――サイキ先生も困ってるよ。ピアニストがいなくてピアノ協奏曲できないって。
サイキ先生? 知ってんの?
――おう。おれ、オケに入ったんだ。
ええ! そうなの?
――おれたちみんな、もうプロになったんだよ。
え。
――おまえだけだよ? 上手くなれないの。
……そうか。
おれだけ置いていかれちゃったんだ。
――おまえだけ一人で弾いてるのにな。
そうだな。
ごめん。
――なんで下手なまんまなの?
ほんとだな。
――でもさ、そっちでも聴いてくれる人いるみたいじゃん。
うん。喜んでくれるよ。
だけど、みんなとも演奏したいんだ。
――いいよ、おれらこっちでみんなで演奏するからさ。
いいなあ。
――サイキ先生もさ、新しいピアニスト見つけるって。
……え。
ピアニストは、孤独だ。
基本はソロ。一人で演奏する楽器だから。
だから、だれかと一緒に演奏するのに憧れていたんだけど。歌やほかの楽器の伴奏をするの、好きだったし。フジタたちとの四重奏とか、オケとのピアノ協奏曲とか、すごく楽しみにしていたんだけど。
だけど、みんなもうないんだ。
いいけど。
ピアニストは孤独だ。慣れてる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます