第48話 際限

 ピアノに向かい合って、ハルは今、切実な問題に悩まされていた。


(……寒い)


 じっとしていると、震えが止まらない。歯の根が合わないって、このことかと思う。

 必死に手を開いたり握ったり、指を動かしたり、さすったり息を吹きかけたり――ちょっと椅子を立って体を動かしたり。いろいろやってみても、指はかじかんだまま。


 先月は、「寒いなあ」と思う程度で、まだマシだった。先週は、深刻に寒くなってきたとは思ったけれど、ピアノを弾きだせばそのうち体が温まった。

 今は――。

 砂の世界は、今が寒さの底らしい。


 何をやっても指が鍵盤の上を滑り出すほどには解れず、がちがちと奥歯を鳴らしながらカクカクとした動きで鍵盤を押さえて、ひたすら震えていた。


 ハルの記憶にある最後の冬は、地球温暖化が進んでいたとかで、我慢ができないほど寒い日はそんなに多くなかった。そもそも、室内はどこも完全暖房で、寒さを感じることなんて外を歩いているほんの短い時間だけだったし。年に何日かくらいは、室内に入ってヒーターの温風で軽く手を温めてから弾き始めることもあったような気がする……程度である。


 この砂漠の村でも、居室にはストーブがあってそれほどの不自由はないのだが、地下の通気の悪い空間を温められる道具はないようだ。


(火を焚くのは、マズいだろうなあ……)


 穴ぼこだらけに見えるけれど、一応、窓のない地下だし。

 諦め気味に、ぐるりと室内を見回して。やっぱり諦めて、また指をさすりだした。


 震えるのを我慢しながら無理やり弾いているうちに、多少は動けるようになってきて、先日トキタにもらってきた楽譜にある曲を何曲か弾いた。

 けれど――。


 なんだか面白くなくて、また手が止まる。


 ハルは大きなため息を吐きだしていた。鍵盤に手を載せたまま、顔を伏せて蓋に額を載せる。


(なんか、おれ、下手になってる気がする……)


 寒さのほかに、いや、それ以上に、目下の悩みはそれだった。

 成長していないと思う。練習時間が足りなくて指の動きが悪くなっている、とか、そんなレベルじゃない。下手になっている、気がする。


 練習時間ということだったら、たしかにもっと取りたいところではあるが、そもそも昔の生活の中だって高校に通っていたのだから朝から晩までずっとピアノだけ弾いていたわけではない。

 むしろそれは、自分に対する言い訳だった。もっと練習する時間が取れれば、上手くなれる可能性があるんだと――そう思っていられれば、気は楽だった。


 もうこれ以上成長することはできないなんて、考えたくなくて。

 だけど、たぶん認めないわけにはいかないのだ。

 切実に、致命的に。ハルを成長させてくれるためのインプットもフィードバックも、この世界にはないのだということを。


 もっと上手い人の演奏を聴いて。だれかに聴いてもらって。アドバイスをもらって。新しい曲を知って。難曲に挑戦して。コンクールに出て。評価を得て。ほかの音楽も聴いて。刺激を受けて――。


 どんな機会もない。

 ハルは今、ただ、弾いているだけだった。自分の、自分だけのピアノを。


(もっと、上手くなりたいのに……)


 弾ければ、それでいい。もうピアノが弾けないと思った時は、そう思った。


(そりゃ……もうすぐ死んじゃうと思ったからさ)


 自分に未来という時間が残されていないのなら、成長なんて考えなくて良かったのに。

 だけど弾き続けていれば、もっと上手くなりたいと思うのだ。ピアノを始めてからハルは、ひたすらそればかりを考えてきたのだから。


 もっと、もっと、もっと――。


 額を載せている蓋に、手を掛ける。


(おまえだって、もっと上手く弾いて欲しいだろ?)


 ほんとはもっとすごい音が出せるんだもんな、おまえ。

 何百年も待ってやっと現れた弾き手がこんなおれで、がっかりした?


 ――これからもっと手が大きくなるし背も伸びるだろう? それにいろんな経験も増えて。毎年どんどん変わっていくと思うんだ。


 オーケストラの指揮者の言葉を思い出す。


(サイキ先生)


 こめかみのあたりを蓋の先に預けたまま、ハルは手を広げていた。


(たぶん、あの頃より手が大きくなったよ。ちょっとは背も伸びた。経験も、いっぱい積んでると思うんだけどな)


 そう、友達が全員死んで腐っているのを見たり、独りぼっちで変わり果てた世界に放り出されたり、死を決意するほどの絶望があったり、撃たれて死にかけたり、人を殴り殺したり、殴り殺されそうになったり……いろいろしたけど、あと何を経験したら、もっと上手くなれる?


 なんだかもう、感情もマヒしているような気がする。

 もう上手くはなれないのかなぁ……。


 そんなことをグダグダと考えていたら、また寒さが骨身にしみてきた。


 仕方なく体を起こして、弾き始める。

 こんな気分になっていても、「弾かない」ということができない自分が可笑しい。


(寒い……)


 身震いしながら。下手くそな演奏も、寒さのせいにできたらいいのに。


 あぁあ。一生懸命指を動かしながら、ため息が漏れた。


 冬って、ピアノが弾けないくらい寒かったんだな。

 どんな季節だろうが変わらずにピアノを弾いていた時代は、なんだかもう遠いところにあった。


 二〇六〇年代の文明を続けている都市の中で、トキタは寒さなんかまったく感じずに過ごしているのだろうな、と思う。

 サヤも、そんな生活を取り戻したいと思っているんだろうか。アスカの冬も、ここと変わらず寒いんだろう。


(サヤ、どうしてるかな……)


 アスカは豊かな村だから、暖房もちゃんとしているだろうし、こんな地下室でさえなければきっと室内は暖かい。


(そこにいろよ。暖ったかいんだから……)


 そこで……。


 ――起きてから毎日、本を読んで、映画を見て、音楽を聴いて――。


 たしかに、本や映画はないけれど。

 そう思って、知らず知らずのうちにハルはくすりと笑っていた。おれも、ずるいなあ。

 ハルにはヤマトにピアノがあったから良かったけれど、もしも都市の中でしか弾けなかったら、ハルだって都市を守ろうとしたんじゃないだろうか。――生きていくつもりだったなら。

 そう考えると、現実を自分に引き寄せて生きようとしているサヤは、立派だとも思えた。


 ……音楽なら、聴かせてあげられるのにな。

 そうだなあ、サヤには……。


(『花の歌』なんて、どう?)


 もう手が勝手に弾きだしていた。

 彼女の静かな美しさには、きっとこの和音がぴったり。愁いを秘めた、けれど芯の強そうな瞳。


(あ、なんか……)


 弾けている。

 気持ちが良いな、とほんの少しだけ思う。


 あれ? このアルペジオ、今までで最高に良くない?

 軽い装飾音と、強い旋律のコントラストも。それは、彼女の瞳の震え。息遣い。触れてくる、指の滑らかさ。


 花の喜び。笑い。そして花の試練と悲しみ。その後にある、幸せ。

 こんな風に笑ってくれたら、いいのにな。


 もしかして、きみのことを考えながら弾いたら、ちょっとは聴ける演奏ができるんじゃないかなあ。


 聴かせてあげる。何曲だって。あんまり上手くないかもしれないけれどね。

 花は咲くんだろうか。この砂の土地にも、もう少し暖かくなったら。

 そうだったら、それが少しは彼女の慰めになるといいのだが。

 砂丘の稜線の、キレイな夕焼けを見に連れて行ってあげてもいい。馬に乗って、ちょっと遠くまで。


 ハルがいる間だけだけれど。


 でも、そのうち子供たちが村に帰ってきたら、きっと同じ年頃の友達だってできるよ。

 きっと好きな人もできて、家族を持って、バニラの香りのパンを焼いて、食べて、暮らしていく。

 それじゃ、不満か?


 もっと便利に、快適に?

 そうだよなあ。


 もっと、ピアノが弾きたい。もっと違う曲を。もっと上手くなりたい。たくさんの人に聴いてほしい。評価してほしい。認めてほしい。


 ――もっと大きな家に引っ越して、防音室を作ってグランドピアノを買おうか。父さんも母さんも働くから、もっとお金を貯めてさ。


 ――もっと上手くなって海外の国際コンクールで賞をとったら、父さんと母さんを海外旅行に連れて行ってあげる。


 もっと、もっと、もっと――次は――。


 欲求には、際限がない。


 自分の満足のために他人を巻き込んで文明を維持しようとしているヤツも。

 そこから何か利益になるものを奪おうと考えているヤツも。

 サヤも、ハルも。


 みんな同んなじなんだ。


 ヤマトの村の人々は? 彼らも、今よりも良い暮らしを望むだろうか?

 彼らは現状に、それほど不満を持っていないように見える。


 だけど、もっと便利で豊かな生活ができるとしたら、手を伸ばしてでもそれを掴もうとするか?


 便利で、快適に。労働に時間を割かなくても良い。夜も明かりを燈し、生活に必須なことだけでなく趣味や娯楽を享受する。冬は暖かく、夏は涼しく。美味しいものが食べられて、美味しくないものは食べなくてもいい。


 欲しいものをすべて手に入れて。豊かさを追求し、極めたのが二〇六〇年代だった。


 苦労せずに快適に暮らしたいという当然の欲求。生きがいを見つけ、なりたい自分になって、暮らしを充実させたいとう人間らしい尊厳。

 それを極限まで叶えて。


 だが、それだけだ。その源は、たとえば満足した人生を送れるように。あるいは子供を危険に合わせないように。親に苦労をさせないように。そこに、邪念はなかったはずなのに。


 何がそれを崩壊に導いてしまったのか――。

 結局、行きつくところまで行きついたら、あとはもう壊すしかなかったんだろうか。


 あれほどの文明に。けれど、その繁栄を守り続けられなかった文明に、そもそも価値はあったんだろうか。


 手が止まる。


 壊さないと。あれは。

 そうしてあの時代の者であるおれも、消えなくちゃならない。


(さっさと終わればいいのに……)


 また蓋に額を載せて、ぽろんぽろんと適当な和音を鳴らしながら、うとうととしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る