第50話 暗証

 ピアニストは、孤独だ――。


「それに気が付いたのは、小学校の三年か四年の時だ」


 都市の「裏」の狭い通路を歩きながら、二、三歩後ろを歩く老人が「ほう」と軽く相槌を打った。


「学校でさ、合唱コンクールやるじゃん。クラス対抗の。あれでさ、高学年になると、クラスでピアノが弾けるヤツが伴奏するようになるじゃん」


 ハルは初めて「トキタの前を歩く」ということをしながら、後ろを振り返らずに進んでいく。


「そうだったかな。合唱コンクールのようなものはあった気がするが、詳細はあまり記憶にないなあ」


 背後で答えるトキタは、どこか上の空の口調だが、ハルは構わず、


「そう。クラスの全員がみんなで合唱してる時に、おれだけ別の練習してるの。合わせてても、みんなは合唱で、みんなまとめて先生から『ああしろ、こうしろ』って指示されてて。おれは一人でピアノの前で。伴奏の練習は、家に帰って一人でしないとならないし。まあ、ピアノは好きだし、伴奏も好きだから、それはいいんだけどさ。みんな一緒に歌うのもいいなーって思いながら、一人で弾いてるの」


 言いながら、四つ目のドアの暗証番号を入力して開ける。キーを押す手は無意識に、ピアノを弾くみたいな指遣いになっている。

 入っていくハルに、トキタが続く。


 トキタは虹彩認証で自動ドアが開けられるが、それぞれのドアに暗証番号もあり、シェルター内の大概のドアはハルでも開けられると先月来た時に教えてもらった。今回は、その実証実験だ。


「合唱、おれもやってみたかったなあ。歌たぶんそんなに上手くないけど、なんか楽しそうに見えて。でもさ、小学校の頃からピアノのコンクールとか出てるの知られちゃってたから、クラスが変わっても絶対にピアノやらされるんだよなぁ」


「ふうむ」


 エレベータを降りて、トキタの部屋のフロアに入る最後のドアの番号を入力すると、音もなくドアが開いた。


「まあ、じゃあどっちやりたいかって聞かれたら……やっぱりピアノって言っちゃうんだろうけど……」


「ふむ……それはそうと、チハル?」


 どことなくぼんやりと相槌を打ちながら後ろを歩いていた老人が、そこへきて横に並んで真顔でハルの顔を覗き込んだ。


「覚えたのか? きみは、ここまでの暗証番号をすべて? 暗記しているのか?」


「ん?」

 不思議そうな目で凝視されて、一瞬目を見開いて。

「ああ、うん」


 トキタから先月「これが入り口からトキタの部屋のフロアまでのすべてのドアの暗証番号だ」と言って渡されたのは、数字が羅列された紙切れだった。

 ハルはそれを持ち帰って、ピアノの楽譜の中にしまった。


「持ち歩いてうっかり落としたりするとマズいし。っていうか、いちいち紙を見ながら開けるのも面倒だし。何番目のドアだったか忘れちゃうじゃん、こんだけいっぱいあったら」


「その……『こんだけいっぱい』の暗証番号を、一ヶ月で覚えたというのか? 実際に通ってみることもせずに? どうやって?」


「ああ」

 何を不思議がられているのかようやく分かって頷くと、ハルは小さく鼻歌を歌いだした。

 とてつもなく変な曲だ。曲とは思えない。いや、実際それは、曲じゃないのだけれど。


「……なんだい、急に」


 トキタはますます不思議そうな顔をする。


「これ、暗証番号」

「ん?」


 老人の奇妙そうに歪めた顔に、ちょっと笑って、


「一をド、二をレ、三をミってして……ゼロがオクターブ上のミで」

「んんん?」

「だから、一から〇までを、ドの音からミの音にハメるだろ? そうすると、こういう曲になる」


 納得と同時に驚いた顔をするトキタ。

 ハルは最初のドアからまた鼻歌を始める。


 このひと月、暗証番号の紙きれを時々眺めて、「曲」を体に染みこませた。ついでに左手で伴奏をつけた。


「それで、『ピアノソナタ・シンジュク・ハ長調』と名付けた。変な歌。この変な都市にはピッタリだな。あぁ気持ち悪りぃ」


「はあぁ、いろんな暗記方法があるもんだな」

 感心したように頷くトキタ。


「学校の勉強も、暗記物はだいたいそんな感じで覚えてたよ。歴史の年号は、最初は和音にしてみたんだけどさ、低い音から先に言いたくなるじゃん和音だと。それでよく間違えて、最終的には普通に暗記したほうが早いやってなったね」


 言っている間にトキタの部屋の前に着く。ハルはトキタを振り返って、


「だけど、四番目と七番目のドアの音が気持ち悪い。はっきり言って不愉快。どうにかなんない?」

「そう言われても……」

「あとこれ。最後の。あんたの部屋」


 むすっとした顔をして、ドアのプレートを睨む。

 ここは別に暗証番号が必要ではないのだから、曲に組み込む必要はなかったのだが、トキタのメモに記されていたのでつい入れてしまった。


「三〇七ってなんだよ。ミ・ミ・シ、って。気持ち悪くて終われないよ。せめて三〇六に引っ越せよ、短調になっちゃうけどまだマシだよ」


 真面目な顔と口調で言うハルに、トキタは笑い出した。




 先日のアスカでの会合の様子をトキタに報告すると、トキタは難しい顔で首を捻って唸り声を上げた。


「都市に眠る宝、か……なるほど……」

「だからさ、ヤマトがこことあんまり商売をするのも不味いかなと思ったんだ。いろいろ良いモンを持ち帰ると、後々ヤマトばっかり美味しい思いをしやがってって思われるだろ? あー、めんどくさいな」


 ため息をついて、今日はちゃんと熱いうちにミルクと砂糖を溶かしたコーヒーを飲む。


「いろんな問題が出てくるもんなんだなあ。たしかに、村の人間が欲しがるようなものが多いだろうからな」


「ただ、都市のシステムに対しては『商売で来てる』っていうふりをしたほうがいいのかなって。だから、通商量を最小限にして――」


「うむ、そうしようか」

 頷いて、そこで老人は少し残念そうな顔をした。


 事務的な報告に対して彼がそんな表情をするのが不思議で、ハルは目を上げる。


「……ヤマトからの『輸入品』を、楽しみにしていたんだがなあ」


「ええ? こっちから持ってくるもんなんて、野菜とか食べ物とかそんなもんじゃん。別になくたって困ってないだろ?」


 シンジュクから毎度持ち帰るのは、村にはないような特殊なもの――それは、二〇六〇年代の文明の欠片なのだから――だが、村から持ってくるものはヤマトの産物やほかの村から仕入れたものや、砂漠の村の生産品でたかが知れている。

 はっきり言って、それこそここに来る建前であり、村人たちからの「一応、返礼品を」という儀礼的なもので、トキタがそれを楽しみにしているなんて考えていなかった。


「食べ物はあるが、生野菜なんて手に入らないよ。ここにあるのは、長期保存用に加工されたものと、それを調理したものでね。野菜を切って煮るなんて、また経験できるとは思わなかったよ」


「へえ……」

 意外な感想に、目を見張っていた。


「え、待って。都市じゃだれが料理を作ってるの?」


「ロボットたちだよ。冷凍庫に保存されている食材と、一応、数少なくはあるが通商のある村から食料が運ばれてくるので、それを使っててね。けれど生の野菜や肉や魚が入ってきても、食糧管理システムが勝手にいったん保存用の加工をしてしまうんんだよ。野菜が原型の分かる形で入っている料理にお目にかかることはまずないな。ここに来るときは、レトルトや冷凍食品だ」


 思い返すように、トキタはわずかばかり苦笑を浮かべた。


「最初の頃は、通商の日を狙って入り口に行って、ロボットが手を加える前の肉や魚をくすねてきたりしたもんだよ。すぐにそんな元気もなくなったが。冷凍作業室は、作業場に人間がいないから、超低温で処理できるだろう? だから冷凍保存技術はかなり高いんだがねえ」


(そりゃ、人間まで冷凍保存しちゃう文明だもんな……)

 ハルは思わず嫌な顔になる。


「でも加工品はやっぱり味気ないな。都市の料理は、不味くはないんだが、どうもぼんやりしていて刺激が足りんよ」


 まあ、何も持ってこないということになったわけではないのだし。村から野菜をつけ届けるくらいは別にいいだろ。また持ってきてやるか。そんなことを思ってしまった自分に気づいて、ハルは眉を寄せた。


 なにかムッとした顔でコーヒーを飲み干すハルを見て、トキタも一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに思いだした様子で椅子から体を起こした。


「そうだ、そういうことじゃ、あまり村に珍しいものを持ち帰らないほうがいいだろうか? いや、村へではなく、きみ個人にあげようと思って探しているところなんだが――」


 そう言うと、トキタは机の引き出しから四角い薄っぺらいものを取り出す。


「……これ」

「CDだよ。懐かしいだろ」


 差し出されて手にとって、目を丸くしていた。

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