第5話 眠り
ここ、ここが難しい。第三楽章のフーガ。
――新しい曲? 難しそうね。
うん、でも楽しいよ。ずっとやってみたかったんだ。
――今年はもう高校生だしね。国際コンクールに挑戦してみようか。
(痛い……)
テンポ。拍の位置を合わせて。――集中。
オーケストラに。
包み込まれるような興奮と。導いていく情熱と……。
――レッスン、遅くなるんでしょ? 迎えは十時でいいの? 夕食はハンバーグ、用意しとくから。
――シンドウ、すっげえじゃん!
(痛い)
(痛い)
(痛いよ)
オケの演奏を頭に叩き込んでおかないと。
ああ、指がクタクタ。
今日はもう無理。指がつりそうだ。
もっと弾きたい。もっと。
(痛いよぉ)
――コンクール優勝おめでとう。指揮のサイキです。よろしくね。
――高校一年生と演れるなんて、嬉しいなあ。
手が、もっと大きければ上手く弾けるのに。
どうしたら大きくなる?
――どうしてそこが半音上がるのかを考えて。
――ひとつひとつの音の
どうしたらもっと上手くなれる?
――深く、
――重く、
――違う、もっと――
もっと、もっと、もっと。
もういやだ、弾きたくない。
(熱い)
(撃たれんだ?)
(銃で)
(なんで)
――きみと毎年一緒に演奏ができたら楽しいだろうなあ。いや、今の演奏も十分いいよ? でも、これからもっと手が大きくなるし背も伸びるだろう? それにいろんな経験も増えて。毎年どんどん変わっていくと思うんだ。
(熱い)
(苦しい――)
(息が)
(どうして?)
――覚醒に失敗したんだ。
――ほかのみんなは目覚めることができずに死んだ。
(どうしておれは?)
(みんなは? 母さんは? 父さんは?)
――チハルは誰に似て、こんなにピアノが上手くなったんだろうなぁ。
――父さんもバイオリンをちょっとやったけど、下手くそだったよ。
父さんも?
――そうだよ、それで母さんと知り合ったんだ。母さんはフルート。
――アマチュアのオケだけどね。
――全然うまくならないから、辞めちゃったんだ。
――チハルのピアノを聞いてる方が楽しいもんね。
ええ? それならみんなで一緒に演奏しようよ。
――だけど、お父さんもお母さんももう死んじゃったからな。
――家ももうないのよ。ピアノもね。
(どうして?)
(おれは生きてるの?)
――核戦争があったんだよ。
――みんな吹き飛んだ。一瞬だったよ。怖いと感じる暇もなかったさ。
(どうしておれだけ?)
(みんなは?)
――私がきみを『起こした』
(なんで起こした――)
(おれだけ――)
(もういやだよ)
(死ねば良かったのに)
(殺してやる)
――たくさん練習すれば、プロも夢じゃないぞ。
(痛いよ)
(誰か、助けて)
(死んだって、いいじゃないか)
(どうせもう、ピアノも弾けないし)
どうしたら、そんなに綺麗に弾けるの?
――練習するんだよ。何万回だって。
(でも、もう弾けないし)
(ピアノはなくなっちゃったって)
ずっと弾き続ければ。
ああ、楽しいなあ。
(痛いよぅ)
――なあ、
――夏休みのミニ・コンサート、組まねえ? 何やる?
――アイネ・クライネ・ナハト・ムジークは? 一回やってるし、負担少ないんじゃね?
――それじゃシンドウと組めないじゃん。
いいよ、おれはソロで一曲エントリーしてるし。
――はあ? いくつエントリーしてもいいんだからさ、やろうぜ。
――じゃあ、ピアノ四重奏か。
まあ、夏休み中一人で練習してるよか楽しそうだな。
――五重奏もいいぞ。
――バイオリンもう一人探さなきゃなんねーじゃん。
――いいじゃん、女子誘おうぜ。
――何がいいかなあ。
あれ?
フジタ? タカハシ? ……エモト?
どうしたんだ?
――死んだんだよ。
――知らない間に眠らされていてさ。
――何百年も眠ってたんだけど。
――おまえもそうだろ?
――隣に寝てたもんな。
――どうしてお前は生きてんの?
――おれたち、こんなになっちゃったのに。
――腐って、顔が溶けてさ。
……え?
――なんで、おまえだけ?
――どうして?
……え?
――ほら、みんな、これだよ?
――ちゃんと見ろよ。
――おれたち、こんなになっちゃったよ。
(……う、)
「うわあああああああああ!」
目を開けると、白っぽい光が視界いっぱいに広がって。
だれかがのぞき込んでいるのが、ぼんやりと分かった。
自分がひどく荒い息をしていて、実際とても息苦しくて、痛くて熱くて、汗をびっしょりかいていて、それに泣いていることがじわじわと分かってくる。
(どこだ、ここ)
(おれ、生きてるのかな)
瞬きをすると、また涙が落ちるのを感じた。
体のあちこちが、耐えられないくらいに痛い。
口を開けて、体は必死に空気を取り込もうとしているが、息苦しさは全然消えない。
一度目を閉じて、また開ける。
滲んでいた視界が少しずつはっきりしてくると、のぞき込んでいる人間と目が合った。
女の子だった。
赤い髪。やはり色素の薄い大きな瞳をめいっぱいに広げて、びっくりした顔でこちらを見つめている。
だれ?
聞いたつもりだったが、声にはならなかったかもしれない。
彼女は心配するように、不安になったように、わずかに眉根を寄せて、
「――――――――?」
「――――? ――――? ――――――――?」
なんて言っているのか分からない。
耳もおかしくなったのかな。
「―――――!」
すくっと立ち上がって、戸口に向かう少女。戸口――そこにはドアはなかったが――から体を乗り出して大声で誰かを呼んでいる。
すぐに軽い足音が聞こえて、恰幅の良い大柄な女性が姿を現した。
「――――?」
歩み寄りながら彼女もまた何か話しかけてきているようなのだが、やはり聞き取れない。
「あの、ここは……おれは、生きてるんですか?」
苦しい息の下で必死に声を押し出した。今度はちゃんと言葉になったと思うが、女は横に立つ少女と一度顔を見合わせただけでそれには答えず、また聞き取れない言葉を話す。
ふう。と大きく息をついた。苦しかった。
そのまま目を閉じる。とにかく怠くて、眠れないほどの痛みだというのに酷く眠いのだ。
やっぱり、どこもかしこもおかしいんだ、この体が。数百年眠ってたって言ってたっけ。だからすぐには動けないって。
だれだっけ。
あいつ。
そう、トキタ。
(あいつ!)
その顔を思い浮かべた瞬間、また怒りだか悲しみだか困惑だか恐怖だか分からないドロドロとした感情が沸き上がってきて、気づけばまた涙が流れていた。
知らない人たちの前で泣くなんて。情けない。
涙を拭きたかったが、体がまったく動かなかった。
と――。
額とこめかみに、冷たい布が当てられるのを感じた。
それがとても心地よくて、
(ああ。母さん……)
少しだけ、ほっとした気持ちになった。
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