第6話 目覚め

 眠っては、また目を覚ます。数えきれないほどのそれを繰り返して。


 コンクリートの打ちっぱなしのような、装飾のない部屋だった。無論かつての世界であった「無機質」を追求した末の洒落たシンプルさではなく、最初の夜に廃墟で見たような、炎と熱風にあらゆる装飾をすべて引きはがされたかのような。

 ベッドに寝かされていた。

 ベッドの脇に窓があって、そこにはやはりガラスは入っておらず薄いカーテンのような布が時おり風に揺れていた。


 腕を持ち上げてみる。

 右の二の腕に、包帯が巻かれていた。生成り地の布は見たことのある包帯のように真っ白ではないが、清潔そうで、きっちりと巻いてある。どうやら銃弾は、骨や重要な神経までは傷つけなかったらしい。痛むが動かせないこともない。指も。

 良かった。

 そう安心するたび、同時にちくりと胸が痛んだ。


 もう、弾けないのに。


(あそこで死んでも良かったのに)




 目を覚ますたび、あの赤毛の女の子と恰幅の良い女性のどちらかが、または両方がいて、冷たい布で顔や体を拭いたり水を飲ませたり、粥だかスープだか分からない、あまり味のしないドロドロとしたものを口に運ばれたりする。


 二人は母子だろうか。それから体の大きな顎髭の男が、何度か顔を見せたようだった。家族なのかもしれない。


 この人たちが、助けてくれたのだろうか?

 どうしてまったく知らない自分のことをこれだけ親身に介抱してくれるのか、さっぱり分からなかった。


 どうやら自分たちの使っていた言葉と彼らの言葉は違うらしい、ということも、何度かの短い覚醒の間に確信していた。

 もしも――まだ頭のどこかで信じ切れずにいる気持ちがあるが――トキタが語った通りあれから数百年の時が経っているのだとしたら、言葉が通じなくてもおかしくないかもしれない。

 それは眠りにつく前の自分だって、数百年前の日本人とスムーズに意志の疎通をすることはできなかっただろう。できれば古文の試験にあんな苦労をしなくて良かったはずだ。


 それとも。


 本当の本当は全部トキタのウソで、ここはどこか他所の国で、今は実際二〇六五年――それが記憶にある最後の年だった――で、自分は何かの事情で知らない間にそこに移動していた、ということは、あるか?


(そっちの方が、まだ現実的な気がするけどな)


 そう、全校生徒が丸ごと眠りについて、冷凍睡眠で核戦争とその後の汚染の時代を乗り越え数百年後に自分ひとりだけ目を覚ました、などという話よりは、よっぽど。


 けれど、それでは目覚めた直後にあの部屋で見た「あれ」は……。

 ぐずぐずに崩れていて顔なんか判別できやしなかったけれど、「あれ」はフジタやタカハシや、ほかのクラスメイトのみんなに見えて……。


(あ、ダメだ……)


「うぅっ……」

 また吐き気がして、口元に手を当ててあの光景を必死に頭から振り払おうとしているところへ、楽しそうな高い声が聞こえてきた。


 少し前からどこかに行っていたあの女の子が、何やら高い声ではしゃぎながら戻ってくる。

 何を言っているのかは分からないが、言葉が通じていないことも察しているであろうに彼女はよく話す。

 続いて、女性。手に水差しと大きなかごを抱えて、少女に続き入ってくる。


 入るなり、二人はこちらに向かってあれやこれや語りかけてきた。


「――――?」

「――――?」

「――――? ――――?」


 イントネーションから推測するに、何か尋ねられているんだろうか。

 二人とも、やけに嬉しそうな顔をしている。この部屋の外で、何か楽しいことでも起こっているのか――。


 いや――それにしては疑問符が多いようで、報告というよりはやはり問いかけられているようで。自分が目を覚ましていることを喜んでいるんだろうか、と内心で首を捻る。

 そういえば、さっき少女が部屋を出ていった時からずっと起きているし、これまでほどの眠さを感じなくなっていた。


 少女が大きな瞳をきらきらさせながら、前かがみになって見つめてくる。そして、彼女自身の顎のあたりを人差し指でさして、


「ルウ」


 隣に立った女性を指して、


「リサ」


 それから右手を伸ばしてどこか遠くの方を指さして、


「グンジ」


 次に、こちらを指さして、首を傾げる。


 どうやら名前を聞かれているのだと察し、


「チハル」


 小さな声で答えると、「ルウ」の顔がまたパッと嬉しそうに輝いた。


「ハルッ!」


 声が小さすぎたのか、言葉の違いのせいでよく聞き取れなかったのか。


(まあ、いいか)


 訂正するのも面倒だ。

 この世界で、シンドウ・チハルである必要もない。

 何者である必要もない。

 名前がなんだっていいし、なんならなくたっていい。

 行くところも帰るところもない。両親も家も、学校も友達もピアノもコンサートも――夢も。


(もう、なんでもいいや)


 リサは持ってきた荷物を部屋のあちこちに置き終えると、ベッドのところまで歩いてきて優しく何かを言って、笑いかけて、それから部屋を出ていった。




 それから半日かけて、ベッドの上に起き上がれるくらいに体が回復していることに気づいた。

 撃たれた右腕、そして左の太腿と脇腹に痛みはあるものの、やはりどれも深刻な場所を傷つけてまではいないらしかった。


 日の暮れるころになって、ルウはいい匂いのする皿を載せた盆を持って部屋にやってきた。

 さっきまでと同じ、とても嬉しそうな顔をして、それを目の前に差し出す。

 目覚めてからは見たことのなかった、赤いスープのようなもの。トマトスープだろうか。トマトとコンソメの良い香りが部屋に漂う。


「スープ」と彼女は言った。


(え?)

 と目を上げる。発音やイントネーションに違和感はあるものの、「スープ」と聞こえたのだ。


「トマトスープ?」


 聞くと、ルウは満足げにうなずく。そして、食べろ、という仕草をする。


 スプーンを受け取って、口に運ぶ。暖かい。ほのかな酸味と甘み。

 美味しい。


 呑み込むのを待って、「美味しいだろう?」という期待いっぱいの顔でのぞき込んでくるルウ。


「美味しい」

 言うが、たぶん通じていないんだろうと思って、言葉の代わりに小さく笑顔を作ってみる。


 するとルウはそれまでで一番嬉しそうな顔になって、まくしたてるように何かをしゃべりだした。 もっとどんどん食べろ、と仕草で言う。


 もう一口、口に運んで。それは本当に美味しくて。

 久しぶりに「食事」をしたと思った。だって数百年ぶりなんだろ?


 最後に食べたものは何だっただろう。家の食卓を思い出す。


 帰宅してから寝るまでの、できるだけ多くの時間をピアノの練習に費やすために、食事はいつだって学校の宿題をしながらの片手間だった。美味しいものでも、大好きなものでも。

 母さんは、苦笑はしたが、やめろとは言わなかった。息子のために一生懸命作った手料理がなんの感想もなく片手間で腹に詰め込まれていくことに、文句のひとつも言ったって良かったのに。


(おれ、『美味しい』って伝えたことあったかな)


 母親の料理の味の記憶さえあやふやだ。気づいたら、涙が滲んできた。

 なんでおれ、食べ物の味なんて感じてるんだろう。美味しいなんて、思ってるんだ? なんで食べてるんだろう。みんな死んだのに。もう美味いものも、不味いものだって食べられない。

 美味しいって伝える相手もいない。


(言えば良かった。美味しいって。ちゃんと、味わって食べれば良かったのに)


 刹那、また胃のあたりを絞り上げられるような嘔吐感に襲われ、思わずスプーンを取り落して口を押えていた。

 苦しさに、涙があふれる。


「ごめん」


 ルウの顔から笑いが消えて、不安そうに曇っているのに気づいて、


「美味しいんだけど……食べられないんだ、ごめん」


 心配そうに、ルウは首を傾げる。


「ごめん。ごめん」

 もはや誰に謝っているのか分からなかった。

「ごめんなさい……」


 口に手を当てたまましばらく嗚咽する。顔を伏せ、背中を丸めて。

 ルウが皿を脇にのけて、背中をさすってくれているのをぼんやりと感じていた。

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