第10話 目覚めぬ月、探偵の思惑
「千月、全然起きないねぇ」
「疲れたんだろ。あそこで何してたのか知らないけど、俺のために頑張ってくれたみたいだし、休ませてやろう」
「そうだね、とりあえず千月は起きるまでウチで預かるから、二人は帰っていいよ。明日仕事なんじゃないの?」
「あの、行李さん。こういうの初めてでよく分からないんですけど、今回のお祓い?って幾らですか?」
「それは近いうちに領収書送るよ。まぁ安くはないけど…」
「自分で言うのもなんですけど、稼いでるので大丈夫です。どんな金額でもちゃんと支払えますよ」
「あはは、安くはないってだけで、目ん玉飛び出るような額にはならないから」
そんなに真剣な顔しなくてもいいのに。
行李は可笑しそうに笑って、朝陽の肩を叩いた。
会話する二人を尻目に、大型自動車の後部座席で昏昏と眠る千月を黒緒と共に眺めていた唯夜は、その寝顔をじっと見つめて、
「…なんか、死んでるみたい」
と呟く。本当に小さな声だったので、その言葉は朝陽にも行李にも聞こえていなかったが、唯夜に抱かれていた黒緒の耳には届いた。
黒緒は色の違う双眸に千月を映しながら、言いようのない不安に襲われる。毎日目にしている寝顔に普段の生気を感じられず、このまま目覚めないのでは、という考えが脳裏をよぎった。
「さて、千月を中に運ばないと。ついておいで黒緒」
「手伝いましょうか?」
「大丈夫、僕結構力持ちだから、千月一人くらい楽勝だよ。それじゃあ二人とも、気を付けて帰ってね。もうおかしなことは起こらないだろうけど」
「はい、本当にお世話になりました。今日から安心して寝られます」
「よかったね、お兄ちゃん。じゃあね行李さん、千月にもよろしく言っといて!」
「うん。じゃあね」
「失礼します」
律義に一礼して去っていく朝陽と、天真爛漫に手を振る唯夜を見送ってから、行李は千月に寄り添う黒緒と向き合う。黒緒の鋭い瞳孔が行李を正視し、その冷徹さに行李は悪寒を感じて身震いした。
「……僕は千月じゃないから、君が今心で何を思っているか分からないよ。とりあえず千月を中に連れて行って、話はそれからね。黒緒、文字が読めるなら、ローマ字表記も分かるでしょ?」
黒緒の放つ冷ややかな怒気に一瞬気圧された行李だったが、すぐに気を取り直して
千月を丁寧に抱き上げた行李を監視しながら、黒緒は静かにその後を追って事務所の中に入って行った。
前を行く男が己の「大切」を傷つけるのなら、その瞬間命を刈り取ってやろう。そんな仄暗い考えが黒緒の中に在る。隠し事に気付いた時点で、この男に寄せる信頼を捨て置けばよかった。車内で、眠った千月の様子が普段と違うことに気付いた時、黒緒は確かにそう思っていたのである。
**********
「はい黒緒、このパソコン使って話そう。君がどこまで気付いているのか教えてくれる?」
全く起きる気配のない千月は、最上階の行李の書斎に運び込まれた。
大人が四人、余裕で座れそうなソファに千月を寝かせた行李は、テーブルに乗った黒緒の前にノートパソコンを持ってきてそう言った。
黒緒はパソコン画面とキーボードを交互に眺めた後、左の前足を器用に使って文字を打ち込んでいく。その様子を背後から見ていた行李は、
『ほんっと器用な猫……やらせればなんでも出来そう。分かっちゃいたけど、黒緒ほど特異な存在は居ないだろうな……正直千月の通訳が無い黒緒、めっちゃ不気味』
と密かに思った。
ゆっくりと、しかし的確にキーボードを打つ猫。誰がどこからどう見ても、これは異様な光景である。
五分ほど経って黒緒は手を止めた。行李は黒緒が書いた文章に目を通す。
『お前が企んでいるのは、千月を餌にした怪異の討伐。糸結姫の付属的に現れる詳細不明の怪異に目を付けられたから、千月は起きないんだろう。千月は今、朝陽が見た川の夢の中にいる。そして元凶を祓わない限り、千月は起きない』
「その通り。流石黒緒、ほぼ全て分かってるから、僕に対してずっと殺気を向けてるわけね」
『なんで千月なんだ。別に顔が良けりゃ怪異はあっさり釣れるだろ。第一、もしものことが起きて千月が喰われた場合、怪異がより手に負えなくなるっていうデカいリスクがあるのに。わざわざ俺たちを出し抜いて実行する作戦じゃない』
「勝算はあるさ。当たり前じゃん。あのねぇ黒緒、僕だって千月のこと大事に思ってるんだよ?死地に送り込むようなことしたくなかったけど、リスクを負ってでもそれ以上の利益を得たかったんだ」
黒緒は塵を見るような目をして行李を見た。
行李はそれを笑顔で受け止め、話し続ける。
「別に私益じゃないよ。むしろ二人にとって利益になること。……そんな殺気立たないでくれない?喉笛掻き切られそうで怖い…」
『その利益とやらの詳細を話せ。でなければ本当にその首獲ってやる』
「タイピング早くなったねぇ……内容が恐ろしいけど」
『本人に同意なく危ない目に合わせてる時点で、お前の方が恐ろしい奴だよ。それでよく、俺の前でヘラヘラしていられるな。この糞雇い主、訴えて豚箱にブチ込んでやろうか?』
「労災に駆け込むの?雇われてる本人昏睡してるのに」
『昏睡の原因はお前なんだよ。千月が起きたら覚悟しとけ』
艶やかな毛を逆立て、行李を威嚇する黒緒。器用な黒猫は猫の手によるタイピングに慣れたようで、スムーズに行李と会話をしていた。見た目は猫なのに、その言動には人間臭さが含まれる黒緒。行李は目の前の異常を眺める。
『さっさと吐け』
「なんかもう、ヤのつく自由業の人みたいだな……あぁ分かった分かった、全部言うから!ちょ、顔狙って来ないで!?」
己の顔面目掛け、爪を剝き出しにして飛び掛かってくる黒緒を寸で避けながら行李は叫ぶ。黒緒は馬鹿にしたように鼻を鳴らし、行李は苛立ちを落ち着かせ話始めた。
「気付いてるか分かんないけど、近頃千月の魔寄せ体質が強くなってる。今までは黒緒の魔除け効果で追い払えたけど、千月の体質がその効果を上回ったせいで、魔除けが見事に打ち消されちゃってるわけ。このままじゃ黒緒が傍にいても安全じゃない。
じゃあどうすれば千月の安全が確保できるのか。それはつまり、黒緒の魔除け効果が千月の魔寄せ以上に強まれば良いわけ。次に、黒緒の効果を強めるには何をすればいいのか。そう考えた時、黒緒が猫辞めちゃえば解決じゃん、って思いついたのさ」
笑顔でサムズアップする行李と、それに対し「何言ってるんだコイツ」という視線を向ける黒緒。もとより悪かった場の空気が、余計淀んだような気がした。
『俺が猫を辞めることと、千月を危険に晒すことに何の関係があるんだ。ついに頭がおかしくなったのか?可哀そうに』
「至って正常ですけど!?……千月に負けず劣らず口悪いね、君」
『で?』
「対応が冷たい……僕の豆腐メンタルはもうグッチャグチャだよ……」
『面倒くせぇな人間は……話戻すぞ。あいつの体質が強化されつつあることも、俺の性質が効かなくなってることにも気付いてはいた。当人は全くの無自覚だったが、お前や躑躅が過保護にしてたお陰で普段と変わらない生活を送れていたから、怖がりが勘付いて不安にならないように、一番近くにいる俺が見て見ぬふりしてたんだよ。
それに、老い先短い俺が出しゃばるよりも、若人に任せた方がこれからの千月の安全が確固たるものになると思ったんだ』
「……黒緒のそういうところが、千月をしょげさせてるんじゃない?なんていうか、終活してる老人みたい」
『まぁ、似たようなもんだな』
半分茶化したように言った行李へ反論せず、黒緒は静かに肯定する。行李はその諦観に居心地の悪さを感じて、自分の心境を誤魔化すように頬を掻いた。正直な所、行李は黒緒という存在が苦手なのである。
行李は三十を過ぎたばかりだが、黒緒は家猫の平均寿命どころかギネスに載る長寿猫より長く生きている。人間年齢に換算すれば、百七十代――四捨五入すれば二百なのだ。
千月から駄目人間の烙印を押され、雑に扱われがちな行李だが、探偵と名乗っているだけあって頭脳は人並み以上に明晰である。故に「本当の自分」を偽り、その場に応じて人間を演じることが昔から身についていた。
千月の前で「無精探偵」を演じているように、黒緒の前では「千月を護ることに関して信用に値する男」を演じて来た。千月の他心通もどきが覚醒する以前から、魔除け性質を抜きにしても、黒緒が普通の猫ではないと理解していたからこそ、行李は本性を演技力で塗り潰したわけだが。金銀の澄み切った双眸に全てを見抜かれているような気がしてならず、どうにも苦手なのである。
「君が魔除けできるだけの普通の猫だったら、終活しようがどうだってよかったんだけどね?生憎、人語を解し、文字が読めて、キーボードを打って会話できる猫を普通とは言えないわけさ。その賢い頭脳が無くなるのは、結構な損失になる。要するに、君に死なれちゃ困るんだよ。だから普通の猫を辞めて、化け猫になって欲しい。そんで、ずっと千月の傍に居てあげて」
そう言って行李は、ソファで眠る千月を優しい目で見つめる。黒緒もつられて視線を千月に移し、真剣に思考しているようで、ものの数分、そのままじっとしていた。
時間にして五分も経っていないだろうが、黒緒は思考の末に何かに辿り着いたようで、再びキーボードを打つ。
『お前はこんな大掛かりなことをしてまで、俺に化け猫になると選択させたかったのか』
「まぁ、そういうことで間違いないかな」
『俺が化け猫になることで、何が変わるんだ』
「君に寿命っていう概念がなくなって、死期を気にしなくてもよくなる。あとは魔除け効果の強化が期待できるから、千月の魔寄せが強まっても黒緒一人でどうにかなるし、黒緒単体で怪異を祓えるようになる」
『お前と躑躅が居りゃ俺が居なくたっていいだろ』
「千月が寂しがるじゃん。君さ、一番大事な子が自分のせいで悲しむの、嫌じゃないの?っていうかなんでそんなに、生きることに消極的なわけ?」
『俺は千月が生まれる前から、こいつは面倒な人生を歩むことになるって本能的に感じていた。だから俺が守ってやるって決めたんだ。だけど、俺は猫で千月は人間。ずっと一緒には生きられないってことも分かってたから、死ぬ前にあいつを任せられる人間を見つけたかったんだよ。
お前や躑躅っていう奴が千月の前に現れて、これで俺はお役御免だなって思った。だからもう、いつ死んでもいいって、毎日覚悟決めてたはずなんだ。だっていうのに』
黒緒はそこで、タイピングを止めた。そして千月を見つめる。先ほどまで行李に向けていた冷徹な視線とは打って変わり、オッドアイは慈愛に満ちていた。
『ずっと傍で生きていたい。千月を置いて死んでいくのは嫌だ。……そういう思いが消えない』
「…それでいいんじゃない?っていうか、それが一番良いよ。君が傍に居たほうが、千月も色々安定していてくれるだろうし。だからさ、黒緒。化け物になってくれる?君のためにも、千月のためにも」
『ああ、分かった。だが、どうやって化け猫になるんだ?』
「方法があるのさ。黒緒自身に頑張ってもらわないといけないけど」
『まぁ、こういう願いは代償なしに叶えられるもんじゃねぇだろうし。ある程度の覚悟はしてる。で?俺は何をすればいい』
「うわぁ、覚悟の決まった黒緒は男らしいなぁ。別に何か大切なものを奪われるわけじゃないから、そう身構えなくてもいいよ?」
壮年の武士のようにどっしり構える黒緒に、行李は苦笑する。千月のためなら命も簡単に投げ出しそうだな、という危うさと、千月は大丈夫だな、という安堵感を抱いた。
「あのさ、怒んないで聞いて欲しいんだけど」
『内容による』
「でしょうね。……えっとね、千月の他心通のことなんだけど……昨日思い当たるきっかけがあるか聞いたでしょ?あれ、黒緒は分かってたよね?」
『ああ、その上で黙っていた。どうせお前も分かっていたんだろうが』
「やっぱり気付いてたか。でね、実を言うと千月にいずれそういう力が覚醒するって分かってたんだ。遅かれ早かれ、神様は千月に神助を授けるって。そうなることで精神的に負荷がかかることも分かってたし、余計体質が強くなる可能性があることも予想してた。
回避することは出来なくても、事前に教えて心の準備させてあげるっていうのは考えたけど……結局言わずに相当混乱させちゃった。ごめんね」
『そういう謝罪は千月が目ぇ覚ましてから本人に言え。どうせ、言わない方が事を上手く運べるとでも思ってたんだろ。まぁ、悪いと思ってるのは本心だろうが、結局お前が優先したのは千月より効率。千月は許すかもしれないが、俺はしばらく許さん』
「うっ……はい、ごめんなさい」
黒緒から放たれる怒気に、行李は身を竦ませる。黒緒に言われたこと全て図星であり、余計その言葉の棘が深く突き刺さった。
『それで?千月の他心通もどきの話しをしたってことは、つまり俺も神頼みしろってことか?』
「切り替えが早い上に理解するのも早い……ご明察過ぎるよ、黒緒。もう感服するしかないね」
『世辞はいらん』
「あ、はい。お気づきの通り、神頼みで化け猫になろうっていう計画です。あの祠の神様が昔から千月を見守っていたなら、千月とずっと一緒にいた黒緒のことも見ていたはずでしょ。なら、黒緒が千月のために頑張ってきたご褒美に、願いを叶えてくれてもおかしくないだろって思ったわけ」
『嫌な計画だな。神の善意を利用しようって算段か。罰当たり以外の何物でもないだろうに』
「まぁまぁ。神様お気に入りの千月のためだし、きっと大丈夫だって。例え罰が下っても、僕が当たるだけだろうから問題なし!」
『ああいう存在を自分のいいように使うのは気が乗らないが、罰当たりなお前がそれでいいなら仕方ない。やろうか』
黒緒は非常に気が進まなそうだったが、渋々了承した。黒緒の承諾に行李は「そう来なくっちゃ」と言って嬉しそうに笑う。
「じゃあ千月はこのまま僕が預かっておくから、黒緒はさっさと猫を辞めて来てくれる?ここから先は、君が化け猫にならなきゃ何も始められないから」
『そんなコンビニに行くような気軽さで言うことか?俺はこれから、真っ当な生物を辞めるんだぞ』
「重苦しい空気で送り出されたいならそうするけど、嫌じゃない?」
ニヤニヤというオノマトペが似合いそうな笑みを浮かべる行李を引っ掻きたい衝動に駆られたが、黒緒は持ち前の精神力でそれを抑え込んだ。今ここで行李と溝を作っても得しないと冷静に判断したからである。
子供のような大人の行李と、猫でありながら人より人らしい黒緒。
その圧倒的な頭脳ゆえに互いを警戒し合う二者だが、たった一人の存在で、何とか表面上まともな関係を築けているのだった。
まんまと行李の策略に乗せられた感じがして黒緒は気に食わなかったが、己にとって大事なのは千月である。千月を目覚めさせるためには、自分が動かなければならない。
黒緒は開け放たれた窓の縁に飛び乗り、五階分の高さがあるにもかかわらず、ひらりと窓の外へ飛んだ。クルリと回転しながら落下し、重力を感じさせず着地する。自分が飛び降りた窓を見上げたがすぐに視線を戻し、目的地の祠を目指して駆けだしたのだった。
「うーん、この高さから飛び降りて無傷な時点で、すでにちょっと猫辞めてるんだよなぁ。なんで本人に自覚がないんだろ」
黒緒の小さな姿を見送った行李は、そう独り言ちる。疑問を口に出しているが、その表情は不思議そうなものではなく、とても面白いと言いたげなものだった。
「とりあえず、こっちは一山超えたってところかな。あとは千月に持ち堪えてもらうしかないけど、大丈夫そうだね」
行李は大きなあくびを一つ溢す。そして、
「珈琲でも飲もうかな……」
と呟いた。
家事ができない不器用人間も、インスタントコーヒーくらいは淹れられるようだった。
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