第1話 他心
死にたいと思ったことは一度も無いし、母に対して「産んでくれてありがとう」という感謝の気持ちだってしっかり持っている。
それでもやっぱり、自分の体質に心の底からうんざりしていることも、生き辛いと思っていることも否定は出来なかった。
余計なモノが見えて、余計なモノを引き寄せて。普通の人が当たり前に享受している「よくある人生」など、おれは得られたことがない。どこにいようと奴らは――怪異は時を選ばずやって来る。
黒緒がいれば近づいてこないが、それでも遠目で眺めてきたり、ストーキングしたりと、まぁ普通におれの生活に紛れ込んでくる。
実体がない怪異は壁をすり抜けるので、家の中には常に二、三体はいるし、なんならかれこれ五年くらい住み着いている奴が一体いる。黒緒のお陰で襲われることはないし、おれ以外の人間には興味がないようなので、共に暮らす家族にも今のところ障りは無い。
寝る時も、黒緒が添い寝してくれるので安眠できる。毎晩視線を感じるが、そんなものは慣れだ。
一七年もこんな厄介な体質と付き合っていれば、怪異がオンパレードの生活にも適応できてくる。
しかし、相容れることなど一生涯無いし、完全に気を抜くことは出来ない。奴らにとっておれというのは、取り憑いたり、喰ったりすれば、万倍パワーアップが図れる超レア素材なのだ。
黒緒が傍にいない学校生活で奴らが接触してくると、あまりの恐怖に胃に穴が開きそうである。住職からもらったお守りや、「祓える」親友に庇われてなんとか学生の本分をこなせているようなものだった。
時々考える。おれは前世でどれだけ徳を積まなかったのだろうか、と。
余計なモノが見えて、余計なモノを引き寄せる。そんな体質で生きるだけで心身を病みそうだと言うのに。
他者の心の声という、余計なモノまで聞こえるようになってしまったおれは、これからどう生きて行けば良いと言うのか。
見えないフリだけじゃなく、聞こえないフリもしながら生活していかなければならない。
これは前世で犯した罪に対する罰か何かなのだろうか。そうでなきゃこんな仕打ちの意味が分からない。
**********
『おい、起きろ、いい加減一人で起きられるようになれ』
ぷにぷにとした感触と、なかなかに強い衝撃。ついでに今まで聞いたことのない男の声。この感触と衝撃は知っている。毎朝律義におれを起こしてくれる連撃猫パンチだ。目を開けなくても分かる。
『目を開けさせるために毎朝やってんだよ。こら、寝るんじゃない』
「ぅん……?」
幻聴……にしてはやけにハッキリ聞こえる。誰の声だ?夜のうちに霊が部屋に入ってきたのか?こんなにハッキリ言葉を喋る奴、今まで出遭ったことないけど。
『誰が霊だこの馬鹿。お前俺のお陰で無事に生きられてんだぞ、分かってんのか』
「うるさいなぁ、誰だよホント。口悪すぎじゃん。おれが生きてるのは黒緒のお陰だよ。」
『その黒緒だよ、やっと起きたか。つか、なんで俺と会話出来てんだ?千月』
今まで俺の言葉、理解できたこと無かったろ。
そう言って(口は動いていない)首を傾げた黒緒の姿が目に飛び込んできた。黒緒の首輪に着いている鈴の音を聞き、ほんの少し冷静になる。
新種の怪異じゃなくてホッとしたが、ついにイカレて幻聴が聞こえたのかと思ってしまった。幻覚みたいな現実ばかり見てきたストレスのせいで、ついに脳に異常を来したのかと……。
しかし結局幻聴じゃなかった。おれの脳は、今日も正常に異常である。いっそ幻聴であってくれた方がマシだったかもしれない。
我が白乙女家は五人家族である。しかし今、父は海外に単身赴任中で、今年警察官になった長姉は数年前から一人暮らしをしている。つまり家には、現役OLの母と二人目の姉、おれと黒緒が三人と一匹で生活していた。
「あれ、今日はお寝坊さんだね、ちぃくん」
「あー、うん。昨日寝るの遅かったから……黒緒の猫パンチで起きられなくて」
「黒緒も毎朝大変だねー」
起き抜けの大混乱で部屋を出てくるのがいつもより三十分も遅くなった。母はすでに仕事へ出たらしい。リビングでは姉その二こと、
今年受験生だというのに、未だ進路を決めていない楽観主義でズボラな
「ちぃくんは我が家唯一の男の子なんだから、しっかりしてよねー。何かあったらママとお姉ちゃんを助けてよー?黒緒に甘やかされてばっかなんだから」
「飼い猫に甘やかされてる弟に男らしさを期待しないで欲しいんだけど」
腕の中にいた黒緒が尾を揺らし、『まったくだな』と言った。それに少しイラっとしたので、尻尾をギュッと掴んでやれば、仕返しとばかりに腕に爪を立てられた。
ちなみに黒緒の口は動いていないし、羽月姉に黒緒の言葉は聞こえていないようだった。おれは黒緒の言葉を「音」として認識しているが、実際は耳で聞いているのではなく、脳に直接聞こえている。
考えても理解できなかったおれに、いつになく冷静な黒緒が教えてくれた答え。それは、おれに「心の声」を聴く能力が目覚めたというものだった。
ところで、未だに羽月姉心の声は聞こえてこないが、発動するのに条件があるのだろうか。
「それそもそうか。ちぃくんったら黒緒がいないと生きて行けないもんね?彼女いない歴イコール年齢だし」
リア充で不良気質のある馬鹿は、時々余計なことを言う。天然で悪意のない煽リストは本当に質が悪い。馬鹿ゆえにイマイチ語彙力がないので、罵倒合戦の
「おれは彼女がいないんじゃなくて作らないの!」
恋人がいない事実に対してくだらない見栄を張る常套句。それを叫ぶ長男の、なんと惨めなことか。
いないのは事実だが、見たくないモノを見ないように目を隠し続けたおれは、人と目を合わせることが非常に苦手になってしまい、おまけに人との付き合い方も上手くない。だから本当のところ、恋人を「作らない」のではなく、「作れない」、「作り方が分からない」と言った方が正しかった。
「だってさ、彌月姉も浮いた話がないし、パパとママに孫を抱かせてあげられるのあたしだけじゃない?って思って。二人と違ってあたしはモテるからね」
『でもこの前カレシと別れちゃったんだけど』
「あぁ、だから最近無断外泊しないのか」
「え?」
「ん?」
「ちぃちゃん、なんか言った?」
「いや、何も?」
咄嗟に首を傾げて、おれは何も知りませんよ?という顔をする。口に出してから気付いたが、彼氏と別れたという声は心の声だった。
困ったことに、会話の途中で心の声が聞こえると、耳で聞いたのか脳で聞いたのか区別がし辛い。羽月姉の心の声が聞こえてしまったのだから、恐らく誰に対しても発動するだろう。これから人と話すときは気を付けないと。
「んー?聞き間違いかなぁ。ちぃくんの声が聞こえたんだけど」
「え、なにそれ。耳大丈夫?」
「ダイジョブでしょ。それよりちぃくん、ご飯食べなよ。今日は午前中からバイトでしょ」
「うん」
「そろそろどこで何のバイトしてるのか教えてくれても良くない?」
「駄目。別にいいでしょ、法に触れるようなことはしてないし。結構もらえるし」
法に触れる仕事じゃないが、安全な仕事ではないので、家族に心配を掛けないためにもバイト内容は口外できない。おれは腕の中の黒緒を持ち上げて顔を隠し、言う気がないアピールをする。
「ちぃくんってさ、昔から結構変わってて、人とは違う何かを持ってるんだろうなって、なんとなく感じてたんだ」
「うん?」
「兄弟とか、家族とか、恋人とか。どんな関係でも、秘密をすべて共有しなきゃいけない義務はないじゃん?だけどさ、逆に黙ってることを辛く感じたりもする。聞いて欲しいけど言えないことってあると思うんだ。もし、ちぃくんが誰かに聞いて欲しいことがあったら、お姉ちゃんでも良ければ聞くからね」
馬鹿だからアドバイスとかは出来ないと思うけど!
羽月姉は明るく笑ってそう言った。
馬鹿で天然で空気が読めないところがある癖に、この姉は妙に勘が鋭い。
『でも、黒緒がいるからあたしを頼ってはくれないかな~。ちぃくんが生きててくれればそれでいいんだけど』
羽月姉に奴らは見えていない。しかし勘の良さのお陰か、おれと黒緒の秘密に気づいている節がある。そのうえで無闇に踏み込んでこようとせず、少し離れたところから気にかけてくれている。羽月姉のそういうところがおれは好きだ。わざわざ言った
りしないけど。
ところで、我が家にかれこれ五年ほど住み着いている、辛うじて人間の女性だと思われる姿の怪異が、さっきからずっとおれのことを凝視しているのだが、どうすればいいのだろう。
おれから見て右側、二メートルほど離れたところから、こちらをじっと見つめてくる。超怖い。
この怪異の視線を感じることは今までにもあったが、ここまで近づかれるのは初めてだった。黒緒という魔除けの効果範囲は、昔はもう少し広かった気がするが、現在は半径二メートルほど。つまりこの女性型怪異は、ギリギリまで近づいてきているということである。黒緒がいなければどうなっていたのだろうか。
いつまでの怪異の視線を怖がってはいられないので、おれは顔を洗うために洗面所に移動する。おれが動くと、怪異は二メートル後ろについて、一緒に洗面所までやってきた。
おれ以外に興味がないのは、今までの不本意な共同生活で分かっていたことだが、こんなにしつこくストーキングされることはなかったので、いつもと違う事態に恐怖を覚える。もしかして、おれが心の声を聞けるようになったことと、女性怪異の行動はなにか関係があるのだろうか。
「黒緒ぉ……」
『情けない声を出すな。傍にいてやるから早く顔洗って飯を食え。いつまで経ってもお前は怖がりだな』
洗面台の鏡の前に立つと、後からついてきた彼女と目が合ってしまった。それで泣きそうな声を出すおれを、黒緒は呆れたような声音で急かした。
一応女性と判別できる姿をしているだけであって、結局は異形の存在。前髪に隠されたその顔立ちはまさに化け物で、おれを見つめるその目は血走り、濁っていた。
目が合った瞬間に視線を逸らしたが、その一瞬が怖すぎて全身に嫌な汗をかいている。もう、目が合わずとも存在が視界の端に入るだけで恐ろしい。おれは意識を無理やり彼女から引き離し、冷たい水で顔を洗った。
「うぅ、朝から訳わかんないことの連続だぁ」
『過ぎたことも起こってしまったことも嘆いたって仕方ない。それに、困ったことばかりでもないぞ。お前と完全な意思疎通が取れるのは楽で良い』
「いやまぁ、それはそうだけどさぁ」
『これからは噛みつくことも引っかくこともせずに、言葉でお前を叱れるしな』
「あー、それは遠慮します」
『俺が怒るようなことをおしなきゃいいだけの話だろ』
濡れた顔を拭いながら愚痴を溢せば、黒緒が呆れたように返事をくれる。叱られるのは嫌だが、こういう風に会話が出来るのはやっぱり嬉しい。未だ背後からこちらを見る彼女を視界に入れないようにしながら、黒緒を抱き上げた。昔から染みついた習性で、おれは黒緒に触れていると落ち着いていられる。
『とりあえずさっさと飯食って、早めに家出るぞ。こういう時に頼れるのはアイツしかいないからな』
「うん、そうしよう。……あのさ、まさかこの女の人、家の外まではついてきたりしない……?」
『流石にないだろ。ずっと家から出て行かなかった奴だぞ。生粋の引きこもりが家を出るのはそう簡単なことじゃないだろうよ』
「引きこもりの一言で片づけられる存在じゃないと思うけどなぁ」
怪異は、洗面所を出るおれをギョロリとした視線で追い、おれが2メートル離れると静かに後をついてくる。
こんなに見られている状態じゃ朝食を食べた気にならないだろうな、と思いながら、おれは自分より先に黒緒のご飯の用意に取り掛かった。
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