9 各々の猛暑対策 #62
『梅雨明け後の七月中旬は例年とは異なり猛暑日が続く予報です。気象庁は関東へ熱中症の注意を呼びかけています。適度に水分補給をしながら過ごすように――』
「あっつーい、今日ってまだ七月上旬なのに気温が三八度近いってどういうことなの? このままじゃあ八月には溶けてドロドロになっちゃうよ。この扇風機も熱風を出すだけで意味ないし……」
バスを降り校舎へ向かう私と悠喜菜の横で華雲が半袖のブラウス姿に手のひらサイズの扇風機を顔にあてている。
「ドロドロに溶けて涼しくなるなら、ちょっと解けてみてくれないか?」
華雲は拳を握りながら腕全体から力んだ。
「ふんー! ふーーーーん! どう、少し溶けたかな?」
「…………えっと二人とも」
「汗が数滴落ちただけ。ほら見ろよこの愛寿羽のドン引きしている顔」
「ごめん、ちょっと何をやっているか分からないんだけど……」
「はーぁもう授業やる気、集中力ゼロだし、早く夏休みにならならないかなー」
「華雲ちゃんあと一週間ぐらいで夏休みだよ。ただ……」
「ただ?」
「ほとんど毎日が訓練って聞いてる」
「うにゃー。訓練は……うれしい。にゃはは」
「それにしても暑いな。華雲、扇風機とパンを私にもくれー」
「扇風機はいいけど。パンは購買で買ってきてよもうー。ついでにあたしとあずちゃんにつめたーい飲み物を」
「じゃあパンだけ《・・》買ってくるとする」
「ゆきなちゃん、教室の冷房が二八度までしか設定できないから、暖房一八度にして待ってるね」
「そりゃあキンキンに暖かくなるな」
「そうキンッキンッに暖かくなるよー」
「……あーねー」
どうやら二人の脳は溶けてしまっているようだ。『東京の人は四〇度も耐えられる』なんて流ちょうに櫻井さんが話していたのにどうやらそんなことは無い模様。今度会ったらちゃんと教えてあげよう。
購買へ行く悠喜菜と一旦別れる。華雲は何かを思い出した表情でリュックを漁った。
「そうだあずちゃんこれを――」
華雲からカセットテープを受け取った。
「ありがとう、昔のテープだと機器がなかなか手に入らないから変換が大変だったでしょう?」
「パパが会社で昔使っていたテープレコーダー? を持って帰ってくれたから大丈夫だったよ。あと音質が悪かったからパソコンにあるソフトからノイズリダクション機能で雑音を消してから、波形に増幅をかけておいたよ。これはあたしからのサービスってことで」
頬でピースをして可愛げな笑顔を浮かべる華雲。私も鞄から華雲がいつも飲んでいるエナジードリンクを手に取り交換するように渡した。ただかなり温くなっている……。ドリンクが思っていたよりもずっと高くてびっくりしたのは内緒だけれど、それでも足りないぐらいの仕事をしてくれた。
「本当にありがとう、華雲ちゃん」
きっと華雲であれば抱きしめことで感謝を表すだろうけど、私には恥ずかしくてまだできないので、精一杯の笑顔で気持ちを込めながら感謝した。
「またお仕事があれば言ってねー。今度はもっとちゃんとしたイタズラ動画とか」
――ちゃんとしたイタズラ動画って何?
教室に着いてからすぐに華雲は暖房を一八度に設定した。
「お、アホ! 今泉、何してんねん!」
「暖房にした方が涼しくなると思って」
「冷房止まるに決まってるねんな。……それと今日も二稲木はホンマにカワエエなー。にしてもその黒い靴下で暑くないん?」
簡単に質問してくるが、結構この問題には悩んだ。流石にタイツだと夏を乗り切るのは厳しいし、薄手のストッキングだと太ももの傷跡が見えてしまうので意味ないし――、跡がギリギリ隠れてかつ、蒸れにくくなるサイハイソックスを履いて対処することにした。事前に試しにソックスを部屋で一日履いてみて分かったのが、意外とずり落ちることがあって、その都度直すのは行儀が悪いと思った。そこで“ガーターベルトを付け、クリップでソックスを挟むと解決できる”とネットで調べて分かったので、これも試してみる。すると本当に問題が解消された。加えて体育座りや変な姿勢をせず、立って歩くのみであればスカートから垣間見えることはないので、条件的にはかなり良かった。別に校則違反ではないから、その面でも問題はない……はず。
「もっと肌を露出させてもええんやでー。そうそう他の女の子も服を脱いだりコスプレをしたりしてもええんやぞ。せやなメイド服とかええかもな、それとガーターベルトもつけるんや」
今の一言で一瞬だけ背中をくすぐられるような悪寒が走った。やっぱり幡ヶ谷君はもしかして……、いや知らないはず。そうであって欲しい。実践は今日が初めてで学校に来る前も念入りに紐すら見えない事を確認してから来た。まさかと思い即座に目線落とす。……大丈夫、異常は確実にない。あー、お陰で無駄な汗を掻いてしまった。もし来年まで傷が薄くなっていたらもっと涼しい格好をしたい! 今だけ我慢、我慢。
「気持ち悪い、幡ヶ谷君もしかして私達にそんなことをさせたいの」
「それはないわー」
他の話しを聞いていた女子が幡ヶ谷君を蔑んだ目をしながら暴言を飛ばす。
「ヒィッ、キモ! あずちゃんアイツの言っていることを真に受けなくていいからね」
「……うん」
どうやらクラス中の女子を敵に回してしまったようだった。
「そうだぞ幡ヶ谷、キモいぞ」
「は、嘘だろ? お前らもそう願ってないん?」
「願ってないわけではないんだけどな――。でも口に出すのは良くないなぁ」
その男子は両手を組み口元へ寄せ肘を机に立て若干寄りかかって話している。しゃべり終わると静かに目を瞑った。
「そもそもメイドのコスプレは文化祭でやって貰うとしてだな——。今泉とか似合いそう」
「は? あたしを巻き込むなんて、ほんっとあり得ない! ベーッだ!」
目を細めながら華雲はピンク色の舌を少しだけ出した。
「そうだそうだ、マジ意味不明な考えを浮かべている男どもいっぺん死ね!」
「調子に乗ってんじゃねぇ、わっちらが黙っていればいい気になるなよ!」
「消えろゴミ共! お前らがバニーちゃんでもやればいいじゃん」
「いやまって、それはそれで気持ち悪いし……、まったく需要無いよ。誰がブヨブヨのブサメンなんか相手にするんだし。とにかく宇宙人に食べられちゃえ」
どこからか消しゴムや教科書、ペットボトルのゴミなどが幡ヶ谷君とその男子目掛け投げられる。こんな様子では男女が協力するとか、世界平和は多分まだ難しいように思えた。
混乱のさなかしばらくすると柴崎先生、悠喜菜が入って来た。途端に静寂が戻った。
「……皆さん、何をしていたの?」
「スケベな男子達が——」
「そんな滅相もない。先生これは強いて言えば戦争のようなものです。気にしないでください」
頭にシャーペンが刺さっている人物がいれば気にもするだろう。
「違う! そうじゃなくて、さっさと片付けなさぁい! もう一つ、どうして誰も止めなかったの?」
柴崎先生が激怒するのも当然。止めなかった私も含めた人たちも悪い事は十分分かっているものの、内心もう少しやって欲しかったというのもある。
「愛寿羽、華雲、教室でドンパチやるなら私も誘えよなー」
拳を手のひらに当てながら、うずうずとした表情で話す悠喜菜。
「ゆきなちゃんが参戦したら死者が出るところだったかも……」
二人の感性にはいつも心がぽかぽかさせられるが、時々熱しすぎてついて行けなくなる事もある。でもこれ以上はもう暑さに耐えかねない。こんな時は清滝先輩のギャグが役に立つのに、今日に限って二年生は成田空港で校外研修があるのだから、どうにも思うようにならない。
ホームルームは片付けで時間が過ぎ、いつもように始業チャイムが鳴った後にもう一つ四点チャイムが鳴る。しばらくマイクを調整しているのかゴソゴソと雑音だけが響いた。
「本日は猛暑のためどうせ授業に集中できないだろうから、授業を取りやめる代わりに全員校庭に集合するようにー」
校長先生の“やる気無い”がひしひしと伝わっている。
「別にエアコンを全快でかければいいんじゃないのかよ。授業は別にやろうと思えば出来るしな」
クラスの刺すような視線が悠喜菜に集中する。
「まぁそんなこと言わずにみんな校庭に行きなさい。それと高碕さんネクタイが曲がっているわよ」
「柴崎先生、暑いんで多少はいいですか?」
ネクタイの結び目に指を入れ暑苦しさをアピールしている。
「美は細部に宿るって言うでしょ? ボタン一つ違っても、ブレザーの襟が斜めになってもだめ。『これでいいや』という考えがやがてフライトにも影響するものだよ。それに直すのが面倒ならリボンにしておけばいいのに」
「リボンは……。分かりました、直しておきます」
「よろしい、ウフフ。では行ってらっしゃい」
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