8 虚無・焦燥・安定 #61
座学にある程度区切りがつくと、週末にフライトがない人は午後から休みになったり全休になったりする日ができた。先輩曰く『あの学習チートな一年に教えてあげることが少ないし、むしろ教えられるかもしれない』とガッカリされる始末となった。
たまには違ったことをしようとマンションに併設されているスポーツジムやラウンジへ行こうとも考えたが、結局自室でゆっくり過ごすことにした。それに一人で行くより何人かで行った方が落ち着くだろうし。
食卓に教科書とノートを広げ宿題をはじめる。ちゃんと理解をしていたのでそこまで苦戦はしなかった。曖昧なところは参考書を頼りに自分なりに調べながら進めると、あっという間に終えてしまった。正直手応えはないが、逆に難しすぎて時間をとられてしまうのもあまりいいものではない。集中が切れないうちに航空系の勉強もやっておく。AIM-Jのページを適当にめくり、何となく目に止まった項目「航空医学の知識」を勉強してみた。薬がもたらす影響や高高度での飛行時における耳閉塞や低酸素症とその対処方法、他にも飛行中の錯覚も興味深かった。そんな中、今の私にぴったりであろう「感情昂進」という項目。感情を乱すでき事によって安全航行を不可能とすることがあるとのこと。ふと、脳裏に先日の出来事がよぎる。もしあの直後に飛行をしていたら、一体何が起きていたのだろうか? そう思うと背中にゾワゾワする感覚が走った。
ある程度区切りがついたので勉強道具を片付けた。それから電気ケトルを片手に台所の流しで水を入れ、台座にセットしスイッチを入れる。食器棚からマグカップを用意し、アールグレイ紅茶のティーバッグを中に入れた。ものの五分程でお湯が出来上がり注ぐといい香りが広がった。紅茶と小説本を持ってカウチソファで足を伸ばし足首で交差させ、時折啜りながら小説を読み耽る。我ながら“大人の時間”を嗜んでいるような気がした。元々残りのページ数が少なくなっていた本を一時間足らずで読み終えてしまった。
その物語で描かれる理不尽な世界観や自分と似た境遇に共感できる。常に不利な状況下にいる登場人物がどうやって困難を乗り越えるか、意外にも参考となるところが多い。それにいつしか物語に出てくるような、誰もいない風景でのんびりしてみたい。日本の気候では恐らく存在しない澄み切った青空の下で。
どうしても物語の続きが気になったので、一階の書店まで買いに行くことにした。すると書店に探していた続きが、在庫処分としてぞんざいに積み上げられた中にあった。他にもっと色あせている本を見るとどうも心が痛む。今時ほとんどスマホやタブレットで何冊も持ち運べるのに、わざわざかさばる紙媒体を買うの私のような人は、若人の中では珍しいだろう。前に華雲にも不思議がられたのを覚えている。
本を買ってから、ついでにスーパーにていつものように食材の買い物をする。前から買いだめをしようとも思ったが結局食べきれずに捨ててしまうのが勿体ないし、北海道の家のように特別遠くもないので足りなくなった都度買うようにしている。
「あーちゃん今日の晩ごはんは何にする?」
「てんぷらがいい」
「じゃあエビフライも揚げるから、お手伝いしてね」
「うん! おてつだいがんばる」
小学低学年ぐらいの女の子は、無邪気に母親の手を取りながら笑顔で話している。
『将来子どもを授かるのは正直言って厳しいです』
不意に二年半前に医者に言われた言葉が浮かんだ。言われた当時の私はあまり実感が湧かない言葉で、未来はその時になってみないと誰にも何とも分からないとも思った。まだ子を持つという感覚は無いのに、……近頃親子を目にする度、お腹に残っている古傷がズキズキと疼く。東京へ来た頃に比べれば十分に満たされている筈なのに、どうも何かを置き忘れてしまっているような虚無感……。これだけはどうにも慣れない。……むしろ絶対に慣れてはいけない。買い物カゴをぎゅっと握り親子から視界に入らないぐらいの距離をとった。
買い物を終え部屋に戻ってから、しーんと静まり返るキッチンでうどんを煮、誰もいない食卓で
午後はテレビをBGM代わりに掃除をしていると、とある情報番組が始まった。
『あの時機内で何が起こったのか? ——ビジネスジェット機墜落に迫る——』
未だにワイドショーがネタ切れを起こすと、ドキュメンタリー形式で放送される。いつも通り司会者や専門家の意見に対し、スタジオに居るゲストは何も知らずただ相槌を打ちながら適当に口を開いては解決のヒントも提言せず終わるのだから本当に不快。
『それでは当時航空事故の専門家として活動されていた吉之岡(よしのおか)氏にうかがいましょう。テレビには実に数年ぶりの出演ですね——』
『呼んでいただきありがとうございます。あの時にも言ったのですがやはり今でも考えられませんね、まったく。あのパイロットの思考には——』
テレビに映る専門家と肩書きがある男の吐き出すような『まったく』というしゃべり方。……思い出した、事故直後色々な番組でよく目にしていた人物。
気になったのでパソコンを取り出し、吉岡という人物について調べてみた。
『
更に検索にて今の居場所を確かめる。すると飛桜高校に娘が通っているとの情報がヒットした。しかも私と同期ということまでもすぐに分かった。もしかすると先日のあの子……。敷島先生が言っていた『いずれ接触してくるだろうから今は大人しくしていた方がいい。くれぐれも余計な詮索をしないこと』という言葉を思い出した。だけど目前にある手がかりを逃す訳にいかない。それにあれ以上は近づくことも、会話することさえ不可能に近い。
スマホを手に取り二人にあの子の名前を尋ねてみる。
私「休日中にごめんね、前に絡んできたC組の女子の名前って分かったりする?」
悠喜菜「悪い、分からない」
華雲「あたしも、グライダー部以外で交流はしていないし……。ゴメン、これからちょうどチャペの散歩があるからこれでしっつれい」
悠喜菜「え? 猫って散歩するのかよ」
華雲「ほら、これをみて」
会話文の後に一枚写真が送られた。画像には抵抗しながら首輪をつけられているチャペと、一生懸命な表情で押さえながら左手にスマホを持つ華雲が映っていた。文字だけでも伝わるのに何とも華雲らしい行動。
念のために竹柳君にも確認してみる。
竹柳君「そんなヤツが居ること自体は知っているが、名前までは知らない。俺の嫌いなタイプだから」
先生に聞こうにも、電話番号しか持っていなかった。加えて部活では恐らくフライトをしているだろう。こうなると他にあてが……無いこともないが——。仕方無い。
私はいつも会話をしているのとは別に、幡ヶ谷君やその他通知が多そうな人たちを分ける専用のアカウントへ切り替えた。
私「ちょっと相談があるんだけど・・・」
幡ヶ谷君「なんや何でも聞いてええで? もしかしてデートのお誘い?」
私「そうじゃなくて。C組に一番陽キャ? でいつも男子二人を連れている女子を知っている?」
幡ヶ谷君「おるでー、あの『あたい』って喋る子やろ?」
私「そう、その子の名前って分かる?」
幡ヶ谷君「ちょっと待っとってな」
返信を待っている間、心臓の鼓動が早くなっているのが分かる。気がつくと私はぎゅっとスマホを握りしめていた。
幡ヶ谷君「名前は“吉之岡”やと聞いてんねんけど、それって何か関係はあるん?」
私「何でもないわ。だだ気になっただけ」
机にスマホを置こうとするが手を滑らせ、びっくりした拍子にコップを倒してしまった。手が無意識に震えている。その手を胸に当て鼓動を確認する……。
薄々分かっていたのかも……、でもそうあって欲しくなかった。そういえばお父さんが「航空人は以外と近くで繋がっている」と言っていたけど、まさかここまでとは。良くも悪くもその通りだと痛感させられる。それは勝ち目がないと言われる訳だ。テーブルから水が滴り落ちる様子を目にしながら思考を巡らす。情報を知った今、これからどうしようかを深くため息をつきながら考える。
――それでもやっぱりここで止まりたくない、この程度では止まってなどいられない。それが私の本心。例えどんなに不利な状況になろうとも。
ポーンと一つ鳴ったスマホの通知音。
華雲「そうだ、散歩に行く前にあずちゃん。この間のテープ、音声編集ソフトでデジタル化できたよ。データはフォルダに送っておいたから、あと原本は明日学校で渡すね」
先日華雲が『国土交通省航空局安全保持部門事故調査委員会』とある段ボール箱を整理してくれたときに『証拠のカセットテープが劣化したら大変、もし良かったらデジタルデータ化してあげるよ』と預けていたテープの吸い出しをやってくれた。データをスマホに落とし確認のため適当な部分を再生してみると、びっくりするほど音声が鮮明になっていた。思わず「え?」っと声が出た。再生されるお父さんとお母さんの声が……懐かしい。
靴下に冷たく湿るような感覚がした。気がつくと水がかなりの面積を濡らしていたよう。二つの意味で華雲に救われた。多分彼女には今の私の気持ち――知らないだろう。
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