5 敷島先生とのドライブ #58

 体操着に着替え、先生の指示された駐車場へとやって来た。しばらくするとサスペンダー姿の人物が視界に映った。やっぱり改めて思うと胡散臭さは感じられるが、かえって目立つのでいいのかもしれない。


「お待たせ、航空用ガソリン(AVGAS)100LLの請求計算をしていたら遅くなっちゃった」


「いえ、そんなに待っていませんよ。先生も大変ですね」


「鉛入りで純度が高いものだからどうしても高くなるけど、リッター三二〇円はやっぱり高いよね。実はTFUNは最悪車用ハイオクガソリンでも動かせるけど、でもやっぱ純度的にエンジンには良くないから――」


 鉛は確か体内に入ると抜けなくなるし猛毒だと聞いたことがある。前に桜ヶ丘先輩が清滝先輩にガソリンを飲ますって言っていたけど恐ろしい……。

 先生は車のカギをポケットから取り出すと、キーホルダーの輪っかに指を入れ振り回しはじめた。


「さて、行こうか! 初ソロフライトをした人への恒例行事……。ご褒美というか、特典というか、なんでもいいか、ハッハッハッ」


 先生はいつものように高らかに笑う。私も笑うべきなのかどうかよく分からない。



 先生が鍵のボタンを押すと青色のスポーツカーのハザードランプが二回点灯した。前から気になっていたスポーツカーの持ち主がまさか敷島先生だったなんて……。スポーツカーの象徴であるトランク部分に位置する羽根のような部品がいっそう速さを際立たせているようだ。


「昔ナンパしようとして乗り始めたのはいいんだけど仕事が忙しくて、気がつくとこの年だよ。それに先生には一途な人がいたんだけど、彼女はもうこの世にはいなくてね。今でもこうして亡霊に取り憑かれている気分だよ。さ、搭乗……じゃなくて乗って、乗って」


「……失礼します」


 車高が低いのでまるで地面へ座るようにして腰を下ろした。車内は華雲の家に行った時に座ったパソコンデスクの椅子に似ていて、全身がすっぽりとシートに収まる。

先生は自慢げにエンジンをかけた。それはグライダーのエンジンをかけるよりも嬉しそうに見える。私は特に反応はせずに静かに口元を緩めた。


「じゃあタキシング開始」


「先生、車だとTaxing forever(永遠に地上滑走)でしょうか?」


「ハッハッハッ、それもそうだな。むしろその通りか」


 学校の坂を下り交差点を左折し、片側二車線で信号が少ない大通り新滝山街道しんたきやまかいどうをバスと同じように北へと向かった。


「家は八王子駅でいいんだよね? なんなら家の前まで送ってあげるよ」


「ありがとうございます、でも大丈夫です。本当に駅前ですから」


「了解」


 しばらく先生と学業のこと、華雲や悠喜菜の仲について話した。


「あと一時間ぐらい大丈夫?」


「はい、大丈夫です。むしろ有り余っていますから」


「了解。ではフロント・クリアー」


 いつもならば国道方面を左折するところを直進方向へ進路をとった。これからどこへ向かうのかが分からずワクワク感が募る。



「そういえば美幌びほろの櫻井さん……教官、師匠は元気にやってる?」


 私は一瞬聞き間違えたのかと思った。私が住んでいた場所からは遠かったが、北海道北見きたみ市の隣、美幌町の社会人グライダー倶楽部で教官を務めている櫻井さん。その人が言っていた人物が改めて敷島先生だったということが分かったので安心した。


「はい元気みたいです」


「まあ、あの人にはお世話になっていたからね。いわゆる先生はリストラされ、精神的に参っていた時期があってね」


「以前から気になっていたのですが、先生と櫻井さんはどういった繋がりがあるのですか?」


「あぁ、先生の師匠だよ。グライダーと人生のね」


 私は『驚き』と『やっぱりそうか』の半々の気持ちになった。何となく先生の苦労が理解できる気がする。


「私も櫻井さんに空を飛ぶ愉しさを教えて貰いました」


「そうか、そうだね……」


 先生はニッコリと微笑んだ。知らないうちに国道二〇号へ出ていて目前に高尾駅を見つけた。車はさらに山の方へと向かい徐々に勾配もきつくなっていった。不思議と通っている車の数は減っていて車間に余裕がある。左右に広がる緑色の風景が北海道の峠道を連想させる。北海道を離れ三ヶ月近いが、すごく懐かしく思える。


「ところで話しが変わるけどスリルは好き?」


「割と平気なほうですが、一体どうしてですか?」


 先生がこれから何をするのか少し意図を組み取れた。


「よし。いま後ろから煽られているのが分かる?」


 ふと横のミラーを見てみると、近づいては離れるというのを繰り返す軽自動車がいた。


「確かに車間が近いかもです」


「もう少し行ったこの先のカーブを超えたら——直線、フルパワー」


 エンジン回転計の針が一気に八前後に往復し始めた。道路の減速帯に差し掛かるが先生は逆に加速させる。カーブで一気にお腹と肩に力が掛かる。心臓の鼓動が早まるが怖いという感情よりも楽しいに近いだろうか、そんな気分。


「甲州の大垂水峠は割と走り屋が多いんだよね、夜中はすごいよ」


 カーブで加速する先生も十分凄いですよ、と言いたかったが、カーブごとに襲われる横Gに耐えるのに精一杯だった。


「……これも初ソロフライトした人の特典ですか?」


「いや、君だけだよ。流石に生徒を乗せてこんなことばっかりやったら、校長にドヤされるからね。も、もちろんこれも二人だけの内緒だぞ」


「分かり……ました。頑張って、秘密にしてお、きます」


 それから車はあっという間に峠道を駆け上がってしまった。


「さて、そろそろ神奈川県との県境だからここで引き返すね。ごめんね、先生のクールダウンタイムに付き合わせちゃって。言い訳になるかも知れないけど、ほら時々考えが煮詰まる時ってあるでしょう? そういうときに緑を見て心を落ち着かせながら気分を入れ替えたいと思って。空を自由に飛ぶのもいいんだけれど、それだと現実味がなくてな。おっと、現実逃避したいのに現実に沿おうとする点はツッコまないで欲しい」


「気持ちが分かるような気がします。いくら航空人で航空機や空が好きだとしても、時々地上に足を着いたままがいいと思う瞬間がありますから」


 頂上付近で元来た道を引き返した。個人的にはもう少しスリルを味わいたかったが、仕方ない。


 指に葉巻を挟み、ハンドルを支えながら器用にライターを取り出した。


「先生ごめんなさい。タバコは苦手で」


「あ、ごめんそうだった。君のお母さんに同じ事で怒られたっけか」


「ごめんなさい」


「どうして君が謝るの? 別に悪いことをしているわけでもないのに」


 時々先生がお母さんのことを思い出しているのは知っていた。フライト中もそうだった。本当は会わせてあげたい——。会わせたらきっと思い出話をするだろう。そんな様子を傍らで見てみたい。でもどうしても叶えられないのが申し訳なく思えた。


「もっと自分を主張してもいいんだぞ、例えば嫌なことがあったら嫌って言えるように。自分から貧乏くじを引きに行くことはないからね」


「頑張って精進します先生」


 再び高尾駅を越える頃には、国道二〇号の交通量は相変わらず、すさまじいものになっていた。一体どこからこんなに車がやってくるのか、見当もつかない。八王子でこんなに多ければきっと都心の方ではもっと混んでいるだろう。


「くー、上空だったらどんなに早く着くことか……」


 私は口角をあげ、笑みを浮かべた。さっきまで『地上に足をつけていたい』と語っていたのに次の刹那がこうなのだから……。確かに空だと到着は早いが、一体どこに着陸できるスペースがあるだろう。まさかこの道を封鎖するわけにもいかない。

 ようやく踏切がある道路へ抜け、目の前にお馴染みの建物が視界に入った。それからいくつかの信号を超える。


「さて、目的地に着いたぞ。到着タイムは一時間三〇分ってところかな」


「ここで大丈夫です。ありがとうございました」


「ほー噂通り、本当にここに一人で住んでいるの?」


 驚く先生に言葉を続ける。


「そうですねー、みんなによく驚かれます」


 考えるとタワーマンションってそんなに凄いのかな? 確かに高いところが好きな私たち航空人なら憧れるだろう。


 ……ふと先生と目が合った。多分出会って以来これが初めて――。先生とは普段目を合わせようとするといつも逸らされてしまうから。それも私だけ……。だから先生の笑いの壺も分からず困っていた。


「本当に君はお母さんと目元がそっくりだ。それに瞳は綺麗な碧色だ。……あ、別にナンパとかじゃなくてだな」


 ネクタイを締めるような仕草をしながら、慌ただしく目線を泳がせる。


「これ以上は“一途な人”に嫉妬されますよ」


 荷物を手に取りながら静かに私は言った。


「これは一本取られたな。ハッハッハ」


「ところでその『噂』を流したのは誰ですか?」


「え、今泉さんが言っていた気がする……あ、でも『広げちゃダメ』って言われたっけ」


「あーよく分かりました。華雲ちゃんには追って処遇を言い渡しておきます」


 あの子は本当にもう。でもしょうがない、いずれ広がってしまうもの。ただ如何せん広がるペースが速いというか…………。


「さて、また明日元気に登校するように!」


「送っていただき、ありがとうございました」


「そうだ愛寿羽ちゃん。最後にだけど、飛桜高校には例の事故に関わった人間がいる」


 私は耳を疑った。手がかりを持っているのが敷島先生だけだとばかり思い込んでいたから。それにそろそろ個人的に聞き込みもしてみようかと考えていた。


「えっとー、それは誰ですか?」


「正確に誰かまでは特定出来ていなんだけど必ずいる。ただしそいつが味方であるとは限らないから、十分気をつけるように。いずれ接触してくるだろうから今は大人しくしていた方がいい。くれぐれも余計な詮索をしないこと、分かったね。ではお疲れさま」


 何だか釘を刺されるような言い方だった。ひとまず何もしないことが得策だろうか。


「了解しました。また分かったことがあれば教えてください。先生もお気をつけて」

先生は手を振りながら車を走らせた。




 部屋に戻り料理をしながら思い当たる人物を連想していった。グライダー部顧問の敷島先生はまず大丈夫。次に飛行部の舟堀先生、あまり話したことがないど敷島先生といるあたりきっと大丈夫だろう。担任の柴崎先生、数学の前田先生はどうかな? 理事長先生や校長先生……だめだ、接点が無いせいで誰もが怪しく思えて仕方ない。


 ふと指先に鋭い痛みを感じた。あれ血が……包丁で指先をちょっと切ってしまったようだ。

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