4 すべてのスタートライン・初ソロフライト #57

 無線機を所定の場所に戻し、ふと右席側のポケットに白い紙切れがはみ出ている目に入った。手に取ってみると、最近居酒屋で酒盛りしたであろうレシートだった。きっとこれは先生の忘れた物だろう。私は部活動見学のときに先生がレシート一つに慌てていた事を思い出した。その風景を思い出しクスッと笑ってしまった。フライトが終わったら先生に渡しておこう。



 離陸の操作手順は体が覚えているのでいつも通り操縦桿を中立にし、スロットルに手を添え赤いノブを押しながらパワーを上げていった。離陸滑走を始めた機体はやがてタイヤから伝わる接地の感触をなくし空中に浮いた。ふと右席を見ると先生がいないという現実を思い出す。だが、思っているほど自分が冷静だということを知る。それも恐ろしいぐらいに。



 程なくして離陸後の無線が入る。内容はいつものように、ダウンウィンドにて無線通報するように指示を受けそれを復唱した。離陸後の最初の旋回、その後滑走路を横に見ながら針路をとり二回目の旋回を行う。普段よりも飛んでいる時間が長く感じられた。いつも受けている追い風が無い分、多少遅くはなるものだろうか。機内の時計は何も変わらずコンスタントに時を刻んでいるが、それすらも嘘に感じられるほど、とにかくゆっくりとした飛行。



 窓から見える滑走路の半分を表す三本ラインを越えたぐらいで無線を入れる。そのまま着陸の指示を受けたので内容を復唱する。その発声はいつもより高い口調で返事をしてしまった様に思える。……でもしょうがないし、万が一地上で録音しているものなら耳を塞ぎ込むとしよう。これ以上余計なことを妄想しないように、降下手順のチェックリストをいつもよりも大きな声を出しながらこなした。



 旋回を二回終え滑走路の正面、延長線上に機体を合わせる。さらに降下しながら滑走路までのコースを合わせた。正しい速度、正しいコース、正しい位置、正しい操作……すべて完璧。


 あとは接地までこのまま――。

 急に機体が揺れたかと思うとお尻からグワっと持ち上げられる。機内に流れ込む風の音が変わり、同時に昇降計の針も跳ね上がった。どうやらサーマル(強い上昇気流)へと入ったらしい。グライダーは翼が長いのでどうしても風の影響をもろに受けてしまう。冷静にダイブブレーキ(通常のスピードブレーキよりも効きが良い)を開き様子をうかがった。幸いすぐにサーマルから抜け出し、通常の進入コースへ機体を戻す。吹き流しへ目を向けると弱く正対風が吹いている。接地寸前にフレアの姿勢をとると機体は後輪から接地し、間もなく前輪も地面に着いた。ブレーキを調整しながら減速を行い、タキシングの速度へと戻ってきた。


 よし、やってやったわ!


 機内で小さくガッツポーズを決め、滑走路をあとにした。

 一通りの過程を終えてエプロンまでタキシングを続ける。着陸した直後から感じた汗が噴き出るような暑さ。小窓を開けると機内の空気が循環するので、一気にゴム臭さが広まった。開けても閉じても臭いのはどうにかして欲しいところ……、暑さか、臭気で気絶する前にエプロンまでにたどり着かないと……。


 やがてツナギを着て帽子を被っている力君が視界に入った。その姿はまるでガソリンスタンドにいる店員さんのような格好。彼は前に立ち手を上下に動かしながら誘導してくれている。

 所定の場所で停止しチェックリスト後、エンジンを切った。


「あずちゃんお帰り! どうだった?」


 誰よりも先に華雲が操縦席まで駆けつけてくれた。キャノピーを開け外から入り込む新鮮な空気を鼻からいっぱいに吸う。


「ただいま華雲ちゃん、結構緊張しちゃったわ。序盤は普通に飛べたんだけど、したっけね最後に急にサーマルがあったからびっくり、でもちゃんと戻って来れたよ」


 息継ぎを忘れるほどに口を動かし緊張を和らげていった。それでもまだドクドクと身体全体が脈を打っている。


 桜ヶ丘先輩が手を二回叩き、皆を注目させた。


「ではソロフライト恒例行事、あずはっちにはバケツいっぱいの水をかぶってもらうよ!」


「えっ、今度は水をかぶるの?」


 いったい何の冗談だろうかバケツの水をかぶるなんて……。


「船でも処女航海でその人をみんなで海に投げ込むの。それの航空バージョンだと思えばいいよ。実際、楓も水を被っているからね」


 そう言っている桜ヶ丘先輩の背後で部員たちが大量のバケツを持ってニコニコしながら待機している。前に櫻井さんから航空業界に密かにそんな文化があると聞いたことがあるものの、今ここでやるなんて聞いていない!


 桜ヶ丘先輩も親指を立てると「幸運を」みたいなウインクをされ、私をエプロンの広いところに送り出す。


「え、あの、その、あれですか?」


自分でも動揺しすぎて何を言いたいのかわからないが、ただひとつ判っていることは逃げられないということ。青いバケツが五つで一同の中に悠喜菜は完全に三白眼で今か今と待ちわびている。



「初ソロフライト、おめでとう!」



 桜ヶ丘先輩のかけ声で、バッシャーンという大きな音とともに水を被った。その瞬間は思っていたより悪くはない。過去にいじめられた過程で水をかぶったことがあるが、こんな嬉しさとともに被ることになるなんて……。おまけにさっきまで硬直していた心がきれいに洗い流された。ただ、それは同時に制服がみるみる水を吸ってしまい、今にも下着が透けてしまいそうになった。今日は白に近い水色の下着で周りからは分からないとは思うけど……。


「うへー、あずちゃんびっしょびっしょ」


 私はその場から動かず少しでも水を地面へと流そうと身震いする。頭のてっぺんからつま先まで冷たい水の感触がする。加えてさっきと似たような広がりで、水道水独特の鉄臭さが鼻に刺さる。せっかく雨のせいで濡れた制服が昨日乾いたばかりなのに、またびしょびしょにしてしまうとは……。少しは服を明日までに乾かす労力を考えて欲しいもの――でもすごく嬉しい。



「水もしたたるいい女とはこのことさ」


「それ楓のときも言って欲しかったな、このっ!」


 桜ヶ丘先輩は余った水を全て清滝先輩に浴びせた。


「おいバカなのさ。明日は企業説明があるから、制服で行かないとダメなのさ」


「ふんだ! 自分をアピール出来るいい機会じゃん。……でも乾かなかったら楓も手伝うから。ちょっとやり過ぎちゃった」


 二人は機体へ向かい竹柳君と一緒に給油をはじめた。


「二稲木さん、濡れた制服を持って帰るの大変でしょ、今日は特別・・に送ってあげるよー」


「敷島先生ありがとうございます。でもまずは着替えないと……」


 あ、よく考えたら今日は体育がなかったからジャージ持って来なかった……、どうしよう。


「もしかしてだけど、二人とも体操着持っていないよね?」


 ニッコリと華雲が答えた。


「だって今日は体育なかったじゃん」


「……」



 ですよねー。



「悠喜菜ちゃんも持っていないでしょ?」


「残念だけど私も持ってない。仮に持ってたとしても愛寿羽にはこの部分が窮屈だと思うよ」


 そう口にしながら悠喜菜は自分の胸元を持ち上げる仕草をした。うん、分かった、分かったからいい加減そのネタで弄るのはやめて欲しいかなー。


 給油ホースを格納している竹柳君が声を出した。


「よかったら俺の体操着使うか?」


「でも、明日体育とかはないの?」


「まあね。とにかく細かい事は気にしなくて大丈夫」


「…………ありがとう竹柳君」


 複雑な気持ちになったが、ひとまず借りられることに対しお礼を言う。


「そもそも体操着で水を被ればよかったのにね」


「ハハハなのさ。今泉さんよく気がついたのさ。服装も含めて初ソロフライトだからさ。極論に体操着で飛んでもいいんだけれど、万が一のとき制服の方がより守られるってことでこの学校独自のルールなのさ」


「なるほどです。あたしの時も制服で水を被ることになっちゃうんだね」


「華雲、その時は好きな飲み物も入れておくから。コーラとかいいんじゃないか」


「ゆきなちゃんの時は塩と氷を入れてやるー!」


 華雲と悠喜菜のやり取りを横目に、私は竹柳君から体操着を受け取った。それはとても丁寧に畳んである。多分普段から道具に対し敬意を払い、きちんと管理しているのだろう。


「それじゃあ、あずちゃんまた明日!」


「また明日、風邪引くなよ」


「二人もありがとうまた明日ね」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る