4 将来航空業界を追う理由 #23

 それから一〇分ぐらい経っただろうか、インターホンが鳴った。ところがエントランス側ではなく、直接部屋の玄関からだった。おかしいと思いながら、ひょっとすると宅配の人かと思いモニターを覗くと、なんとそこには華雲がいた。悠喜菜は飲んでいたジュースを吹き出した。

「どうやって入って来たんだよ? 普通エントランスでチャイムを鳴らして、解錠してもらってから中に入るだろ。それで部屋の玄関に来てから、もう一度玄関の呼び鈴を鳴らす筈なんだが……」

「なんかよく分からなかったから、宅配のお兄さんと一緒に入ってきて、あとはあずちゃんに教えてもらっていた、部屋番号をたどったら着いちゃった」

「華雲さん……、やることがユニークだね。今夜私もやってみようかな。『突撃! 愛寿羽の部屋』みたいな」

 悪巧みを考えているようなニュアンスに聞こえてならない。

「二人ともちゃんと正規ルートで来てください。じゃなきゃ次からオートロックで門前払いするよ」

「冗談、冗談」

「今開けるね」とインターホン越しに伝え玄関へ向かった。


「おじゃましまーす。あれ、いい香りがする」

「これ北海道に住んでいるおじいちゃんから貰ったラベンダーのアロマを置いてるの。どうかな?」

「あずちゃんらしくていいと思う! あと、大きい靴があるってことは、ゆきなちゃん先に来ていたんだ」

「ほんの二〇分ぐらい前にきていたわ」

 リビングまで通すと華雲は悠喜菜と目を合わせ挨拶を交わす。

「どうも華雲。ご機嫌いかが?」

「どうもゆきなちゃん。あたしは絶好調バッチグーだよ」

「そうか……なるほど」

 華雲はにこりと親指を上げ悠喜菜同じ返しを期待しているようだが、悠喜菜が察しなかったために下ろすタイミングを逃してしまい、なんとも独特な空気が流れた。私にはお互いの気持ちが分かる。華雲はペースを作り和やかに溶け込ませようとしている。対して悠喜菜は多分慣れていないので、どうしたら良いのか分からないと思う。そんな歯車がかみ合っていない様子をただ見ているだけの薄情なことはしたくない。多分繋げるのは私の役目なのかも知れない。思考錯誤しながら少しずつ試していこう。


「で、愛寿羽の物件の間取りは3LDKだっけ?」

「うん。でも一部屋だけ余っていて……。窓がないから実質物置になっている部屋があるよ」

「そしたら試験期間になったらここで合宿しようか。電車遅延して追試とかになったら面倒だしー、なんてな」

 もしかしたら、悠喜菜と勉強したら成績が上がるのかもと一瞬考えた。

「別にいいわよ。一人じゃ空きスペースが勿体ないからおいでよ。ただしヘンなものを連れて来なければだけれど」

「本当かよ。……って、それりゃそうか。例えば幡ヶ谷みたいなの呼んだら何が起こるか分からないしな」

 どうして悠喜菜の口からピンポイントで幡ヶ谷君の名前が出てきたのか理由がすぐに分かった。飲みながらコップ越しに顔をニヤつかせているのが見えたからだ。

「あ、ずるい! あたしもいい、あずちゃん?」

「じゃあ私たちだけの秘密ね」

 私は人差し指を口に当てながら笑みを添えた。

「でもなんだろう、この守られている感じの安心感。あたしの場合、玄関のドアを開けたらすぐ外だよ。ここだと見晴らしがよくって、それにフルセキュリティーとかあこがれるなー」

「華雲ちゃん、実際はいったん部屋に戻ってしまうと、またエレベーターに乗って外へ出るのが億劫になってしまうよ。それに朝なんて下へ行くまで結構時間かかるし」

「まさに一長一短だな。私みたいに七階の高さだったら問題ないんじゃないか」

 悠喜菜はお菓子を鷲掴みするとそのままボリボリと頬張った。皿にたくさん用意しておいたお菓子がすでに、欠片しか残っていなかった。

「ゆきなちゃん、ひょっとしてお菓子全部食べちゃったの? あたしも食べたかったのに!」

 顔をしかめながら頬を膨らませ可愛らしく怒った。

「まだ棚にあるから持ってきてあげるよ」

「でもいいや、これ以上食べちゃうと太りかねないからね、ゆきなちゃん」

「あいにくどんなに食べても太らない体質だから私は」

「そっか、だから男の子みたいな体つきなんだね」

「かーうーん!」

 両腕を広げながら悠喜菜が華雲の元へと向かう。この一見何気ないように思える瞬間も私にとって、かけがえのない思い出になっていく気がする。そうだね、ゆっくりと“本来”を取り戻そう。

 悠喜菜の接近を回避するように華雲が立ち上がり窓辺から外を眺め始めた。確か華雲が『あたしの家からもあの建物は見えるけど、反対から家は見えるのかな?』と言っていたっけ。

「人と車がこんなに小さく見えるね」

 華雲が知っている場所を指でなぞっていく。まるで街の支配者にでもなったかのように顔をニヤつかせながら。

「どう、見えた? 華雲ちゃんの家」

「あれが西八の駅でその奥が高尾駅、あそこから左……と、多分あれかな? いやでも違うかな」

「部活で空を飛んだ方がよく見えるんじゃないかな?」

「……そうだね。飛んだときにまた探すことにする」

 普通にしていても華雲の表情には癒やされるというより、心地いいとすら思える。

「そういえば、結局ゆきなちゃんは部活どこに入るの?」

「今のところ決まっていないんだよな。飛行部かグライダー部、それとも他ので迷っている。二人は?」

「とりあえずあたしたちはグライダー部で決まりだよ」

「悠喜菜ちゃんも一緒に入って飛ばない?」

「グライダー部か、よかった」

 悠喜菜はマンゴージュースをコップに注ぎゴクゴクと飲んだ。程なくして飲み終えたコップを「コン」と音を立て机に置いた。

「じゃ、私もグライダー部に申請しておく」

「本当?」

「ああ、私も一緒に飛びたいと思ってな」

「やったー! これでゆきなちゃんともっと仲良くなれる!」

 嬉しそうに華雲は悠喜菜に抱きついた。

「暑苦しいからくっ付くなって。ほら、頭でも撫でればいいか」

「にゃっハー」

「ま、元々飛行部に入ろうと思ったけど、やっぱあの陣場とかいう先輩が気に入らなくて、それに……」

「確かに先輩達ちょっと偉そうにしていたよね。それに周りの人なんてもっと印象が悪かったわ」

「愛寿羽な、あれはきっと自分の居場所がそこしかなく、単独になるとその軟弱さが露わになる類いだろ。それでしまいには『俺らは先輩なんだから』と傲慢じみた発言をするんだよな」

「IQ(頭の良さ)はあっても、EQ(人間性)が低い典型的な人間って、そういうのに限って面倒だからね」

 私は話をしながら昔いじめられていた記憶を思い出した。ふとした瞬間にぶり返してくる。足を擦りむいて怪我をしたことに気づいた瞬間、傷口が痛むのとよく似た感覚がする。


『友達がいないうえ、親も亡くして生きている意味ってあるの?』

『かわいそう、でもウチらじゃあ何もできないし』

『いつになったら諦めて、学校に来なくなるかなー』


 小学生高学年と中学生の前半の頃はよく作為的に仲間はずれにされたり、放課後に殴られたり、ときに水をかけられたり、教科書や靴を隠されたりと数え切れないほど陰湿な行為をやられた。それらの大半は時間が経てば色あせ、肉体的な傷も癒え、具体的な状況は記憶から多少欠落するだろうが、それでも内容は脳裏にこびりついて離れることは決してない。主犯もそうだが周りの傍観者も同じように許せない。自分の心の傷は他者には分かりがたいので、例え納得がいかないことでも飲み込んで堪えるしかない。

「愛寿羽、おーい愛寿羽」

「あ、ごめん。でも結局どんなことがあっても、気が遠くなるような青空が全てを小さなものにしてくれるから、ここまでやってこられたんだよ」

「……そうか、その思考ができるからあんな度胸があるんだ」

「どうかした?」

「いや、別に」

「二人もそんな難しい話をしないでさ——。そういえば二人は彼氏とかいるの?」

 ニコニコしながら華雲が迫り聞いてくる。目の前であどけない表情を見せられると思わず言わなくてもいいことまでポロッとこぼしてしまいそうだ。

 はっ、これはもしかして一種の誘導尋問では? 落ち着こう、落ち着こう。

 ふと華雲の頬がどうなっているのかを確かめるべく、指先でぷにっとしてみた。小顔なのに饅頭のように弾力があるその部分に憧れる。いっそパクッと食べてしまいたいぐらいだ。

「で、どうなの?」

「基本的に彼氏はつくらないことにしているよ」

「え〜もったいない!」

「だって仮に恋人ができたら周りの目線とかで恥ずかしいんだもん。それに色々と面倒くさそうだし」

「私も愛寿羽と同感……。でも愛寿羽はおとなしくて美人だから、ワンチャンありじゃね?」

「それは……、私はあくまでの乙女だから。そしたら今度から男子に素っ気なくした方がいいかなー」

 あえて“普通”の部分を強調して言った。

「ゆきなちゃんは強くて頭もいいし、クールな感じもいいからモテると思うよ。ただ胸が寂しいのがねー」

 うわー、せっかく褒めていたのに最後の一言で地雷を踏み抜いたようだ。

「確かに勉強では学年一番だし、誰も寄せ付けないクールな印象……って華雲さーん、お外で今の最後の発言についてお話しましょうか」

 悠喜菜は笑顔で声を発し、華雲の肩に手を乗せた。

 ほら始まった。でもなんだか自然と笑顔になれた。

「隙ヤリ! コチョ、コチョ、コチョ」

「ひゃははは、くすぐったい!」

 この前胸をこれみよがしに揉まれたことを思い出し、ここぞとばかりに私も彼女の脇腹を突っついてみた。

「あ、おい! 愛寿羽まで、あははは」

 数分後悠喜菜は「フー、フー」と荒く息を吐きながら、横臥し身をよじる。その表情は若干嬉しそうに見える。

「参った、参ったから許してくれ」

 悠喜菜の息が落ち着いたタイミングで私は素朴な質問を二人にした。

「そういえば二人はどうして航空業界の道に進んだの? 元々空が好きだったとかそういうこと?」

「うーんそうだね、小さい頃から飛行機が好きだ! なんて言えばそれまでだけれど、実際みんなが協力し合うことで、あの大きな鉄の塊が大空を飛べるって考えたらすごくロマンがあるじゃん。だからこそみんなの期待が込められた飛行機を飛ばしたいと思うの。でもパイロットになろうか整備士になろうかまだ具体的に決まってない感じ」

「いいな、華雲らしくて。それもこの学校で探せばいいんじゃね?」

「そういうゆきなちゃんは?」

「私は進学率が東京都内でも高いってことで受験してみただけ。そしたら受かった。だから二年はアルファ―特進科にでも進もうと思っている。その後は適当に大学入って就職予定」

「愛寿羽は? その、例の目的を果たしたらどうするのか?」

「そのまま旅客パイロットになろうかと思っているわ。いつか全部が解決したら、お父さんが言っていた『モーンガータ』を見てみたいかな」

「いいじゃんステキな夢だね」


 遠くの空から「夕焼け小焼け」のメロディーが聞こえる。陽が山の尾根に沈み、雲にその色を焼きつける。楽しい時間はいつだってあっという間に過ぎ去っていく。

「時間的にそろそろパソコン買いに行かないといけないわ。また明日話そうよ。二人も朝早いんだから」

「そうだね、それじゃあ行こう! みんなあたしから離れないでね」

「次回は華雲の家でミーティングな」

「この流れであたしの家へ来るアポ入れるの? うーん、今度誰かが来てもいいようにママ、花奈はなに話しておくね」

 その後近くの家電量販店へ向かい、華雲とパソコン担当の店員のお兄さんが勧められるがまま、折り畳むことでタブレットにも変形できる、紺色のノートパソコンを購入した。これで今週は合計三〇万という出費はちょっと痛い。口座にはまだ二〇〇〇万以上はあるかな。悠喜菜は私と違うメーカーで黒色のパソコンを買っていた。


 部屋に戻ってからは、スマホでグループ通話にしながら華雲の指示通り真新しいパソコンを起動させ初期設定をした。華雲の説明が良かったのか、そもそもパソコン自体が進化したのか、小学生のプログラミング授業で味わった煩わしさは一切なかった。おかげでスマホの操作を覚える感覚で簡単に設定できた。

 華雲の説明の途中幡ヶ谷君からのメッセージの通知が鬱陶しいぐらいに入ってきたので、強引ではあるが個別にミュート状態にしておいた。

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