10 ジュースを賭けた腕相撲 #29
提出期限が三日後に迫った授業の休み時間、華雲は険しい顔つきで自分の課題ノートを確認していた。
「ヤバイかも、このままじゃあ、あたし提出期限まで絶対に終わらない。今日はここまでやるとして、それから……」としばらく一人でぶつぶつと話していた。
「ねーあずちゃん、宿題の飛行規程の写し終わった? あたしは、まだ五章あるうちの二章目まで終わったところ」
「それはまずくない? 私はあと五章だけだよ。それに、もしかして三章の揚力のグラフもやっていないでしょ? 正直あの部分が一番大変だったわ」
「二人ともまだ終わっていないのか? 私なんてあんなのとうに終わらせたよ」
「ゆきなちゃんまたまた冗談を、どうせあたしより数ページ進んでいるだけでしょ」
「ほれ、見れば分かる」
悠喜菜は課題のノートを机に出した。氏名欄には主張するように大きく、太く、しっかり『高碕 悠喜菜』と油性ペンで書かれていた。
両目を見開き驚きながら華雲は何回も悠喜菜のノートを見返す。
「ほんとうに終わっている!」
「早く終わらせないと航空人は時間に厳しいぞっ、てな」
「でも基礎知識は全部終わっているからー、とりあえず今後の予定を確認しよっと」
華雲は素早く指を動かし、スマホの手帳アプリを確認し始める。
「……この先の予定は空いている」
「空いているって華雲ちゃん、その手帳何も書き込まれていないよ」
「まさに両方の意味でノープランだな」
「でもここほら、二人ともよく見て!」
きりっとした顔で八月の予定を指さした。
ほぼ空白の年間予定には『八月は弟の誕生日♪』とだけ書いてあった。
「結局四月の入学式から八月の夏休みまで真っ白なのか……」
「うん!」
笑顔で親指を立てている華雲に悠喜菜が苦笑いした。
「マジで計画を立てないと終わらないよ」
「今夜のライブ配信は早めに切り上げよう。とにかく頑張らなきゃ」
「とにかく頑張って華雲ちゃん」
私も気休め程度に励ましてあげる。
「それにしても窓辺は暑いね。あたし喉が渇いたなー、ちょっと飲み物を買ってくる。喉が渇いては戦ができん! って言うじゃん」
「戦って、計画さえ立てていれば戦ほどにはならないんじゃ……」
彼女は鞄をガサガサ漁り、ピンクのがま口財布を取り出した。
「華雲、私はマンゴージュースでいいや。愛寿羽はどうする?」
「えっと、私はウーロン茶がいいかな」
「え、ちょっとまって? この流れは、あたしが買いに行かなきゃダメな流れ?」
虎視眈々とタイミングを狙っていて、ここぞとばかりに一撃をためらいなく撃てる才能には感服させられる。私が真似しようものなら、きっとどこかでボロが出てしまいそう。
「財布を出していたからもしかして、チャンスあるかなって思って。……違った?」
「ゆきなちゃんが景気づけで買ってきてくれるならまだしも……」
「そしたら何かこう、賭けでもしようか」
「それじゃあ、平等にくじ引きか、じゃんけんはどう?」
「そうだな、腕相撲なんかはどうだ?」
華雲は少し引きつったような顔をした。
「えーそれだけはちょっと、あたし非力だし……。せめてじゃんけんじゃ、ダメ?」
悠喜菜はブラウスの袖をめくり始める。ちょうど腕の中心よりやや高いところに切り傷のような跡が一瞬見えた。見ているのがバレないようするに視線を斜めにそらす。一体過去に何をしてきた人なのだろう。
「もちろん手加減するからさ」
雰囲気作りも流れの持って行き方も、すべて悠喜菜の手のひらなのだろうか。
「その勝負、俺も混ぜてや」
一体いつから話を聞いていたのだろうか、タイミング良く幡ヶ谷君とその仲間達が数人やってきた。
「ジュースを賭けているんやろ?」
「男子相手だと私、負けちゃうなー」
若干色気を出しているような甘い声で悠喜菜は言う。
「女子だし、勝てたらあともう二人分のジュースもおごったる。反対に負けたら俺の分だけということでええか?」
「ということだ華雲、大丈夫か?」
「え? これもあたし持ち? 絶対に負けないでゆきなちゃん」
「悠喜菜ちゃんくれぐれもうっかり手を折らないように手加減してあげて」
「もちろん、分かっている」と鼻で笑いながら反応した。
「何言うてんねん、俺がヘシ折られるわけないやん。見ろやこの腕を。小学校からやっておった野球と筋トレの成果――」
威勢のいい声を出しながら、幡ヶ谷君は自慢げに袖をまくり鍛えられた腕を周囲に見せびらかした。同時に何故か私へチラチラと視線を送るっているのに気がついた。まるで「カッコええところを見せたるから、俺をみとってな」と思わすメッセージを秘めているようだった。
「二人も準備はいい? ゆきなちゃんお願いね、じゃあヨーイ、ドン!」
華雲の掛け声とともに一人腕相撲……、もとい腕相撲が始まった。
開始早々悠喜菜側にちょっと傾いたが、それ以上は傾かなくなった。
「なかなかやるやんけ、お前」
「内心私に勝負挑んだの後悔しているでしょ」
「そんなことは無いに決まっとるやん。今さら引き下がるわけないやろうが」
幡ヶ谷君の額から一粒の汗が流れ、だんだんと表情にも余裕がなくなっていった。大して悠喜菜は涼しいそうな顔をしている。
いきなり悠喜菜のベストの胸ポケットにあるスマホから着信音が流れ始めた。
「こんなタイミングに電話が――ちょっといいか?」
「おいおい、ええところで試合放棄するん?」
余裕いっぱいの表情で悠喜菜は電話口に出た。きっと相手側もまさか悠喜菜が腕相撲をしているだなんて、想像もつかないだろう。
「その件はー、はい、また今度でいいですか?」
彼も確かに強いのだろうが、悠喜菜はその上をいくので、通話しながらでもピクリとも動かない。それに対し徐々に幡ヶ谷君の表情は強張ってきた。
「オカシイやろ、こいつ電話しながらなのに!」
もうその土俵には「手加減」という言葉は既に、忘却の彼方へと消えてしまった。正確には「彼」にとっては。
「スゲーな高碕、あの幡ヶ谷とまともにやり合っているぞ」
「では失礼します」
悠喜菜が電話を終えると全く声のトーンを変えることなく、幡ヶ谷君に言う。
「そろそろ本気出していいよ」
「クソ、ホンマに動かせへんって。お前ズルしとるんとちゃうか?」
「は? あんまりふざけけたこと喋っていると――」
「うわ、アカン!」
『パキパキ』
無理に力を入れた幡ヶ谷君の腕から良からぬ音が周囲に響き渡った。
「あれは、さすがにマズいだろ」
「もうこれ以上はやめとけって幡ヶ谷、折れた後の世話なんかしたくないぞ」
笑い声を上げながら、止めに入る外野。
「いやもっといけ!」
「そうだ限界なんか突破しろ。漢をみせろ!」
面白がって場を盛り上げる人まで出て来る始末となった。
「それじゃあ休み時間も残り少ないから一気に決めるね」
「まだ力でるねんか?」
あれよあれよと言っている間に勝負がついた。もちろん悠喜菜を知っている私たちは、最初から勝負の行方は分かっていた。
「こんな筈じゃ……、でもバリ楽しかった。久しぶりに本気だせたわ」
「じゃあ約束通りジュースよろしく。ここにリストまとめてあるから」
「はぁー地味に高いヤツやん……」
幡ヶ谷君は財布を取り出してジャラジャラと中身をかき回しながら、小銭を確認し始めた。
「お前もバカだな。勝負を仕掛けて見事に負けるんだもんな」
敗北した幡ヶ谷君へ仲間達が追い打ちをかけるように言い放った。
「いや幡ヶ谷も十分強かったが、私を倒すのには不十分だな。腕相撲は腕だけじゃなくて、全身を使わなくちゃ」
フォローしているのかバカにしているのか、分からない具合の口調で話しているが、彼は納得した様子だった。
「そしたら、ちょっと買ってくる。いつかお前を倒したるからな」
「倒せるといいね……。待ってるから」
結局私と華雲はただ見物しているだけで、ジュースを貰うことができた。果たして良いのだろうか? 今度悠喜菜ちゃんにお礼をしてあげよう。
その後三日間、華雲は休み時間に授業中以上に必死な形相をしながら取り組み、なんとか期限ギリギリで課題を出せた。そもそも切羽詰まってから本気を出すものじゃないのだけれども……。
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