PM 11:42
「ってことは、」
ふいに落とされた短い言葉に顔を上げる。
立石はAさんのレシートの上に、自分のボールペンの先をコツンと付けてから言った。
「この『珈琲は月の下で』っていうのは、とある男性が、恋人のために考えたサプライズ案だったってことか?」
「まあ、まとめるとそうなるね。といっても推論の上に推論を重ねた憶測でしかないから、そこは注意してもらわないとだけど」
いろいろこねくり回して、適当に理屈を付けただけで、まさか事実ではないだろう。立石もそこは分かっているだろうが、一応言っておく。
Aさんのレシートを手の中で弄びながら立石が感慨深げに呟いた。
「まさかあの一文から、ここにたどり着くとはな……。
高橋も、サプライズされたら嬉しい?」
立石はカウンターに両肘で頬杖を付き、私を見上げる。
急に話題が変わったな。それでも答えないという意地悪をするつもりはない。
「まあ、そこそこ? されたことないから分かんないけど、嬉しいんじゃないかな」
「すっごい他人事だな」
立石は、小さい子供を相手にする時のように笑った。
と、その時。店の奥から一人の女性が出てきた。明るい色の髪を後ろでまとめており、歳は私たちより少し年上だろうか。立石と同じく青い制服を着ていた。
その女性は立石に詰め寄り、声を張り上げた。
「ちょっと立石君! サボってるでしょ!」
「うげ、久世さん」
「うげ、って何よ! ……って、あ、お客様。すみません、お騒がせして!」
「いえいえ、私もつい喋っちゃって」
顔の前で両手をぶんぶん振ると、久世さんとやらは、素っ頓狂な声を上げた。
「え、知り合いなんですか?」
「あ、高校の同級生です。ね、立石?」
へえ、と頷いた久世さんは、カウンターの上に置かれた例のレシートを摘み上げた。
「何このレシート」
「あっ、それは……」
立石が弁解しようとすると、久世さんはほい、と投げるように言った。
「これ、康介のだ」
「「え?」」
「立石君には話したでしょ? 彼氏に8月に誕生日祝ってもらったって。その彼氏のやつだと思う。いっつも紅茶と、紅茶味の蒸しパン買ってるから」
立石が久世さんに恐る恐る問いかける。
「もしかして久世さんの下の名前って……」
「葉月だけど」
思わず立石と顔を見合わせる。
「まさか立石君、私の下の名前知らなかったの?」
「いや、だって、苗字でしか呼ばれてないじゃないですか!」
「人の下の名前覚えてないとか、ほんと失礼!」
久世さんは怒ったまま退場していった。
大丈夫なのだろうか、と店の奥を覗き込んでいると、立石が「あのさ」と切り出した。
「葉月って名前から、すぐ8月生まれかもって発想にたどり着いたのって、高橋もそうだから?」
「え?」
「だってほら。高橋の下の名前って『かんな』だったよな?
思わず立石の顔をまじまじと見てしまった。まさか私の下の名前を覚えているとは思っていなかった。
確かに、私の名前は『高橋かんな』だ。今後とも、どうぞよろしく。
驚きが引かず、つい肯定が鈍る。
「あーうん。確かにそういう話だった、うん。流石に名前に『神』って入るのはどうなんだ? ってなったらしくて、音だけだけど」
「じゃあさ、今月誕生日ってことだよな。いつ?」
そう言われて、ふと考えた。
「立石。今日って何日?」
「10月16日」
「……今日だ」
すっかり忘れていた。
自分の誕生日が10月16日なのも、今日が10月16日なのも知ってはいた。しかし、頭の中で上手く結びついていなかったようだ。
「え、まじで?」
「まじまじ」
ぶんぶんと頷いた時、店の時計が目に入った。時刻は11時51分……って、ちょっと待て。
「もう12時手前じゃん!」
思わず叫んでしまった。課題のことをすっかり忘れていた!
「じゃあ、私帰るね!」
「あ、高橋!」
コーヒーをひっつかんで、慌てて駆け出そうとすると、急に右手首を掴まれた。振り返ると、カウンター越しに立石が手を伸ばしている。
「何?」
その場でたたらを踏みながら問うと、立石は手を離した。カウンターから出てきて、真っ直ぐスイーツコーナーへ向かっていく。
そして。
「これ」
立石は、私の空いた方の手にカスタードプリンを一つ握らせた。底にカラメルが入っていないタイプのようだ。
「レシートの謎解いてくれたお礼と、あと誕生日プレゼント。俺の奢り」
なんと。プリンをじっと見つめていると、微かな呟きが耳朶に掠る。
「場所もへったくれもないけど」
「え、なんて?」
「いや、何でも」
立石は、へらっと笑った。
「ありがとう」
きちんと目を見てお礼を言った私は、コンビニの外に駆け出した。
やはり夜空に月はない。
その代わり、私はさっき貰ったプリンを空に掲げてみた。
底から見えるまん丸な黄色は、絢爛で優美な月の黄色に比べると、随分間抜けな色だった。けれど、とても綺麗だった。
あくびが口を突きそうになって、私は缶コーヒーのプルタブを引き起こし、口を付ける。
舌にじわりと広がる苦さに思わず顔をしかめるが、後味は何となく甘いような気がした。
珈琲は月の下で 久米坂律 @iscream
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