PM 11:31

 もう一度、二人でじっとレシートを見つめる。すると、不思議なことが見えてきた。

「ねえ」

「ん?」

「普通、ここで改行するかな」

「え?」


 私は例の文を指で軽くなぞる。



 珈琲

  は月の下で



「『は』は『珈琲』の後に付けそうなものじゃない?」

 文章として区切りがいいのは、『珈琲・は月の下で』よりも『珈琲は・月の下で』の方な気がする。

 確かにレシートの横幅は狭いが、わざわざ『は』以降を改行しなければいけないほど、『珈琲』の横に余白がないわけでもない。

「まあ、区切る位置が中途半端だよな。でも、それが?」


 どうしてここで改行したのか。じっと動きを止めて、考えてみる。……もしや。

「……この『は』は助詞じゃないのかも」

「へ? それってつまり」

「この『は月』は『ワツキ』って発音するんじゃなくて、『ハヅキ』って発音するのが正しいのかも」

「え」

 立石が固まった。立ち尽くす様子は、さながら石の如く。ちょっと上手いこと言えた。


 どうでもいいことに一人満足していると、くわっと立石が叫んだ。

「そんなことあり得る⁉︎」

「理屈はどんなものでもいいって言ったじゃん。それに、世の中絶対あり得ないことなんて、そうそうないよ」


 とは言えど、私もついさっき、レシートの持ち主は高校生ではないと言い切っている。一限や二限をサボる高校生だって、一定数いるだろうに。


 自分の棚上げを一人笑っていると、立石が訝しげな顔をして言った。

「でも、仮に『ハヅキ』と読むとして、何で『は』だけ平仮名?」

「この人は急いでるんだったよね?」

 立石ががくりと首を縦に振る。私の説に釈然としていないようだ。


 私は上手い言葉を探そうと、体の前で手をわちゃわちゃ動かしながら話す。

「『ハヅキ』の『ハ』の漢字は分かんないけど、葉っぱの『葉』って書くなら、ありえるんじゃないかな。

 『葉』は平仮名の『は』に比べて、かなり画数が多い。反対に『月』は画数が少ないから、漢字で書こうが、ひらがなで書こうが、負担はそれほど変わらない。むしろ漢字で書く方が画数が少ない。

 急いでるなら、画数の多い『葉』だけ平仮名にして、『月』は漢字で書くって、あり得ないことではないと思うよ」


 私もやったことがある。中学生の頃、同級生に『響子』という名の子がいたのだが、『響』の字を書くのが面倒で、私はしばしば『きょう子』と書いていた。

 Aさんも私と同じように思ったのなら、考えられなくはない。


 立石は未だ釈然としないようだが、一旦私の推論を受け入れた。

「はあー、まあ……あり得なくはないか。この『葉月』って人名かな」

「どうだろ、そこまでは分かんないけど。でも、この辺りに『葉月』って店があるって聞いたことないし、あえて8月を『葉月』って書くとも思えないし、人名の可能性が高いかもね。性別はどっちでもいけるかな」


 言うと、立石が説を追加する。

「ってことは、この『下』も『シタ』って読むんじゃなくて、『モト』って読むんかな」

「そうかも」

 『葉月のしたで』より『葉月のもとで』の方が文脈的には自然だ。



 自分のことを名前で書くのは不自然だ。つまりこの『葉月』なる人物とAさんは別人だろう。

 もう一人登場人物が出てきたのなら、話は変わってくる。


 私はすっと息を吸い込んで、言った。

「Aさんは、この葉月さんのために、駅前の和菓子屋さんでコーヒー味のお菓子を買おうとしてたのかも。それなら、Aさんがコーヒーを好きかどうかは関係ない」


 すると、立石が眉根を寄せた。

「洋菓子屋じゃなくて、わざわざ和菓子屋でコーヒー味のお菓子を買おうとしてるってことは、葉月さんがAさんに『駅前の和菓子屋の、コーヒー味のお菓子が食べたい』って言ったってことか?」

「そうかもね」


 この辺りには普通に洋菓子屋もある。洋菓子の方が多くコーヒー味の商品を取り扱っているはずだし、組み合わせとしても自然だ。それなのに、あえてコーヒー×かける和菓子の組み合わせで買おうとしていたということは、そうなのかもしれない。

 この辺りで、和菓子にコーヒーを使う店なんて他にないし、葉月さんは、駅前の和菓子屋にあるコーヒー味のお菓子を食べたいと言ったのだろう。


「でもさ。例えば葉月さんがAさんに向かって『駅前の和菓子屋にある、コーヒー味のお菓子が食べたい』って言ったとするだろ。Aさんはその場で素直に頷くかな」

「それはどういう?」

「俺なら、絶対『餅菓子か焼き菓子か、せめてジャンルぐらい希望はないのか?』って訊くと思うけど。

 ジャンルの希望を聞けたんだったら、メモは『珈琲 大福 は月の下で』みたいな感じなるはずだろ? でも、実際は違う」


 そういうことなら。

「Aさんは葉月さんに直接聞けなかったとしたら?」

「聞けなかった?」


 私は大きく頷いた。

「そう。Aさんは葉月さんにサプライズをしたかったんじゃないかな」

「サプライズ?」


「例えばだけど、ある日Aさんは、たまたま葉月さんが誰かと、こんな話をしているのを耳にした。『駅前の和菓子屋さんにある、コーヒー味のお菓子が食べたい』

 何らかの理由から、葉月さんにサプライズを考えていたAさんは、サプライズに使えると考えて、忘れないように近くにあったレシートにメモ。これなら、Aさんは葉月さんに直接どんなお菓子がいいか聞けないよね」


 少し目を見開いた立石に向けて、私は続ける。

「それに、これならAさんが急いでメモをすることになった理由も分かる」

「え、どゆこと?」

 立石がぽかんと口を開ける。


「話が聞こえるほどの距離にいるってことは、Aさんと葉月さんの物理的距離はかなり近いと思う。だから、葉月さんに自分の姿が見つかるかもしれなくて、急がざるを得なかったんだと思う。メモしてるところを葉月さんに見られたら、サプライズは台無しだし」


「そのまま、その場を離れてゆっくりメモって訳にはいかなかったのか?」

 立石の的確な指摘に一度は止まる。Aさんがゆっくりメモできないような状況とは何だろう……。


 私は続けた。

「じゃあ、こうだとしたら?

 その後、Aさんと葉月さんは合流しなければならなかったから」

「合流?」


「例えば……Aさんと葉月さんが一緒にいた時に、葉月さんに電話がかかってきて少し席を外した、とか。通話が終われば、葉月さんは真っ直ぐAさんのもとに戻ってくるよね?

 考えれば、他にもシチュエーションは出てくると思う」


 立石が気の抜けた感嘆の溜息を零す。

「はあー、なるほど……いや、でもさ。わざわざ『葉月のもとで』って場所指定する意味ある?」

「うっ……」

 思わず、ぬぬぬ……と唸ってしまう。場所を指定する意味ときたか。


 行き詰まって、店の外に目をやる。

 すると、そこには一組の老夫婦と思しき男女がいた。二人の間に流れる空気はとてもしずかで穏やかそうなのに、随分とコンビニの光が邪魔しているように見える。……もしや、ではないだろうか。


「葉月さんとAさんの関係性は分かんないけど、葉月さんをAさんの恋人だと仮定するなら書く理由はあるかも」

 唐突な私の言葉に、明らかに納得のいっていない様子で、立石が鈍く肯定する。

「サプライズするぐらいの間柄なら、恋人の可能性は高いと思うけど……」


「駅前の和菓子屋さんって、イートインスペースがあるんだよね」

 急な話題の転換に怪訝な顔をしながらも、立石は丁寧に答えてくれた。

「ああ。飲み物とか出してくれるらしい。ステンドグラスとかもあって、レトロで映えるって」


 私は勢い込んで、続けた。

「イートインスペースで食べれば、雰囲気もレトロだし、映えるし、葉月さんが喜ぶかもしれない。でも、二人っきりになるには、葉月さんの家の方が好ましい。

 要するに、恋人である葉月さんと、よりロマンチックな時間を過ごすために、Aさんは場所も重要だと考えていた。で、Aさんは最終的に葉月さんの家に決めて、どの場所に決めたか忘れないようにメモした」


「忘れるか?」

 立石の問いに、今度はノータイムで答えられた。

「サプライズを実行するまでに時間が空いてたのかも。ほら、サプライズは誕生日に行われることが多いでしょ? で、葉月さんは名前からして8月生まれっぽい」

「おう」


「日々レシートは増えていくのに、6月末のレシートにメモしたってことは、このメモ自体、6月末付近に書かれたものって考えるのが自然だよね。

 もし本当にそうだとするなら、メモした日から葉月さんの誕生日まで1ヶ月以上空いてる。だから、1ヶ月以上後のサプライズ決行日に見ても、意味が分かるように書いた」

 こう考えると、わざわざ『珈琲』を漢字で書いた意味の裏付けも厚くなるはずだ。


 私が言い切った後、立石は何も言わなかった。そこそこ筋の通った理屈に辿り着けたのではないだろうか。

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