コペルニクスは二度笑う






「子供ん頃、おかんのことが嫌いでなぁ」


 姿見の前に俺を立たせ、持ってきた風呂敷から着物や帯を取り出しながら、芳乃はそう語り出した。


「朝から稽古場行って、俺のことは見もせえへんくせに妹舞妓の世話焼いて、夜は宴会行ってしもてろくに飯も一緒に食えへんし。帰ってくんのなんか日付け跨いでからやろ」

「しかもべろんべろんに酔うて帰って来る」

「ほんま。酒臭いおかんが頭撫でくり回してくんのが恥ずかしくって、嫌やった」

「どこも似たようなもんなんやな」


 思えば、芳乃と互いの母親の話をするのは初めてだった。


 俺の肩に襦袢を着せ掛け、腰を落としながら肌襦袢と合わせて紐で結んでいく芳乃は、すっかり男衆の顔をしている。

 この街の昼と夜をつなぐ、男の顔。


「でも俺、着物畳むのだけは好きやってん」


 そう言って芳乃は着物を取り出す。濃紫の、色紋付。豪勢な刺繍の施されたそれは、普段の宴会で着るようなものではない。

 首を傾げる俺に、芳乃は「おかんが舞妓の時に着てたやつ。置屋から借りてきた」と言う。写真見たとき、これ、街で一番よう似合うんはおまえやろなて思っててん、と。


「酔うて床で寝てるおかんから帯と着物引っぺがして、一晩干して。次の日、稽古場行くおかん見送ってから、畳むねん。ゆっくり、ひと折りずつ」

「折り紙好きやもんなぁ、おまえ」

「折り紙はそんなでもないな。着物畳むんが特別好きやったんや。そんで、そうやって何年も畳んでるうちに、おとんに言われたんよな。いっぺん着せる方もやってみいひんかて」

「うん」

「そんで、初めてわかったんや。俺、着せる方が好きやなあって」


 畳の上を引きずる、花街独特の着付け。この街の女の、夜の姿。つけ襟に沿って襟を合わせて、息が詰まるほどに紐を結んで。真っ赤な帯揚げを腰から胸にかけて巻く。


 舞妓のだらりの帯は5メートル以上ある。それを着付けるべく、芳乃はたとう紙の上で金色の織り帯を丁寧に折っていく。一見無骨に見える指先で、丁寧に、丁寧に。


「こうやってきっちり一つずつ折って行ったら着崩れしにくく仕上がる。帯だけやない。襦袢も、着物も、帯揚げも。一つずつこなしてったら全部がかみ合って、より綺麗に頑丈になる。この街の女そのものやて思ったんや。俺、着物が好きや。宵の口に、綺麗にべべ着た姉さんたちが仕事行くん見るんが好きや」

「うん」

「せやけど、それは俺の話やろ」


 せーのっ、そんな掛け声に合わせて、帯を結ぶ。

 後ろでだらりの形を作る芳乃の額にはうっすらと汗が滲み始めていた。


「おまえが俺と同じになる必要あらへん」

「なれへんわ。こんな仕事、俺には務まらん」

「向き不向きはあるからな」

「……昔からな、梅雨の時期は夢見んねん」


 俺の言葉に芳乃は帯を形作りながら、「どんな」と抑揚のない声で言う。平坦なそれがなんだか心地よかった。


「大富屋の内娘、豆斗満が一人娘を生む夢や」


 六月の半ば、降りしきる雨の中でひと月はやく生まれたせっかちな娘。「気の早い、祇園の女やなあ」そう言って母や祖母や姉さんたちが、跡取りの誕生を喜ぶ、甘い甘い夢。


「俺はぼうっと空からそれ眺めてんねん。幸せそうやなあ、良かったなあって」

「それ、豆斗満姉さんに言うてみいや。しばき回されんで」

「……やめて。タマヒュンする」

「男衆になれへん事も、女に生まれへんかった事も、おまえが気に病むこととちゃうやろ」


 はい、出来た。そう言って芳乃は後ろで帯締めを締めて、俺の隣に並んだ。


 髪をひっつめて、顔を首まで白く塗って。

 目尻を跳ね上げる赤と、涼しげに描かれた同じ色の眉。薄い唇を形どる紅。姉さんたちとは似ても似つかない、着物のシルエット。


 どんなに母に似ていようとも、やはり到底女には見えない滑稽な姿に少し笑ってしまった。隣で芳乃も同じように、握った拳を口元に寄せて肩を震わせている。


「華奢や華奢や思ってたけど、おまえ、やっぱ男やな」

「肩幅ヤバない? 袖の長さ合わへんし」

「腰紐結ぶとき、どうしよか思ったわ。腰骨出てへんし、股間アホほど目立つし」

「股間膨らんどる舞妓は呼びたないなぁ!」


 そう、肩をぶつけ合ってゲラゲラ笑う。

 おかしくて仕方ないのに何故だか涙が出てきて、鼻をすする。そうやって鼻をすすっているうちに涙が止まらなくなって、今度はしゃくりあげた。


「女になった気分はどうや」

「最悪や。一刻も早く男に戻りたいわ」

「そうか。よかった」

「それ自覚さすために着物借りて来たん?」

「いっぺんやってみんとわからへんやろ。あとひとつ教えといたるけどな、男の反対は女やないで。『女』の反対側は『悪い女』や」

「よう分からへんけど、おまえも苦労してるんやな……」


 ハンカチを差し出してくれる芳乃からそれを受け取ろうとしたら、襟のところに挟まれた。なんやねん。


「おまえの顔なんかどうでもええねん。着物が汚れる」

「この冷血漢が。芳乃おまえ、俺がそれでも女になりたいって言い出したらどうするつもりやったん?」

「どうもせえへんわ。嫁に貰たってもええかなとは思うけど。おまえ、俺に抱かれたいんやろ?」

「アホ抜かせ! おまえみたいな男こっちから願い下げや!」


 そう叫んだところで、小夜姉さんが着付け部屋へと顔を出す。


「青春したはりますなあ、小童ども」


 姉さんの言葉に二人して、もう一度笑った。







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宵闇コペルニクス よもぎパン @notlook4279

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