六月の甘い夢




「俺らってやっぱり変なんかな」


 ぼんやりと、薄汚れた窓を見上げながらそう呟く。雨の降りしきる空は鈍色で、気分まで滅入って来そうだった。


 屋上へと繋がる階段の踊り場。濃い雨のにおいが立ち込めるそこで、俺と芳乃は昼飯を食っていた。教室で顔を突き合わせているだけで、草間や川辺かわべといった一部のクラスメイトからの野次が酷くて落ち着いて飯も食えやしなくなってきたからである。


「やっぱりってなんやねん」

「やっぱりはやっぱりや」


 買ってきたパンを腹に収め、あぐらをかいた芳乃の硬い太ももを枕に横たわる。

 そんな俺に幼馴染みは顔をしかめこそすれど、止めはしない。律儀に同じポーズのまま、真剣な顔をして、食べ終えたおにぎりの空き袋に折り目をつけている。一本一本、丁寧に。


「おまえって、女抱かせてもそんな職人みたいな顔するんやろな。おもんな」

「なんやおまえ。俺に抱かれたいんか」

「寝言はベッドの中で言えや」

「なんでちょっと意味深やねん」

「やかましいわ」


 そう吐き捨てて、俺はそっと目をつむる。

 このまま眠ればまたあの夢が見られるだろうか。淡い雨の降る六月の、甘い甘い、俺の夢。


「また寝れてへんのんか」


 なんでもないように紡がれた言葉。芳乃の低い声は相変わらず抑揚がなくて、冷たささえ感じさせるのに。言葉の端々に滲んだ優しい音に胸の奥を掻き毟りたくなる。


「昨日もおかんが遅うまで働いてたし、」

「先寝ろや。しょうもない嘘つくな」

「……ええ夢見んねん。最近」

「どんなん。巨乳?」

「そらもう見渡す限りの巨乳よ。ヌーの大群」

「悪夢やんけ」


 おまえ最近、酷い顔してんで。

 その声に俺を責める色はない。それでも何故か咎められたような気分になって、ごろりと寝返りを打つ。

 見上げた先で、芳乃がじっと俺を見下ろしていた。その向こうに見える窓の外と同じくらい、晴れない顔で。


「なぁ、芳乃」

「なんや」

「おまえ、なんで男衆なんかなりたい思ったん」

「なんでって、なにが」

「もし仮に、女に生まれてたとして……それでもおまえ、父親に弟子入りしてたか」

「したやろな。女に生まれてても」

「街を出たいとは思わへんの」

「……おまえは出たいんか。祇園」

「わからへん」


 昔は出て行きたいと思っていた気がする。でも、最近わからない。

 母が好きだ。懸命に働いて、お客を楽しませて。酔っ払って帰ってきては、怒る俺にも構わず頭を撫でくり回してくる無邪気な女が。


 厳しい祖母も、街の女将たちも、時には涙を噛み殺しながら芸に打ち込む女たちも、みんな好きだ。強くて、美しくて。


 街が嫌いなわけではなかった。だけど、どうしても俺の居場所はここじゃないと感じてしまう。同じ空気を吸って、同じものを食べているのに。俺だけが昼と夜の狭間に取り残されている気がして、うまく息が出来ない。


「出たいんやったら、出たらええやん」


 なんでも無いような声で言う幼馴染みに、思わず笑う。息を漏らすような笑い方がまるで大人みたいで、自分でも少し驚いた。


「この冷血漢め」

「なんでやねん。今生の別れでもあるまいし」

「いっぺんここ出た男が帰ってくるかいな」

「それやったらそれでもええやん。おまえの人生や」

「冷たいなあ、芳乃くんは」

「それともなんや。俺に止めて欲しいんか?」


 なあ、古満。そう、皮の厚い大きな手に頬を掴まれる。

 伏せた瞼の美しさは母親譲りか。精悍さを増した男が真剣に自分を見つめてくるのに、ゆるく口を開きかけたその時だった。


「ぅ、わあ!」


 高くも低くもない、凪いだ声。聞き慣れた素っ頓狂な悲鳴に視線を向ける。

 屋上へと続く階段の、踊り場までの道で。廊下の壁に背をつけた瀬名が、盛大に目を泳がせながら足をバタつかせていた。


 進んだものか、引き返したものか。クラスメイトの迷いが手に取るようにわかる。


「瀬名? なんやねんその動き」

「み、なっ……俺! なんも見てへんし!」

「なんも見てへんでその動きやったらおまえ色々まずいやろ。尿検査待ったなしやぞ」


 寝心地最悪の芳乃の膝枕から身体を起こす。そこで更に奇声を上げた瀬名を見て、芳乃は「瀬名おまえ奥ゆかしいてええなぁ。癒されるわ」などと呟いている。


「あっ、の! 女子が、合唱コンのことで、アンケート取りたい言うてて!」

「ああ。もうそんな時期か」

「それで、杉浦と藤間以外は全員教室おんねん。悪いけど来てくれへんかって、女子が」

「それで呼びに来てくれたんや?」


 いつもありがとうなあ。そう、瀬名の肩に腕をかける。びく、と瀬名の肩が揺れた。

 見つめた先で、瀬名がどこか気まずそうに目を伏せている。喘ぐように薄い唇が開いて、消え入りそうな声で男は言葉を紡いだ。


「やっぱ、杉浦、……藤間と、仲ええんやな」

「うん、まあ。幼馴染みやしな?」


 俺の言葉に瀬名は何故かぎゅっと唇を噛みしめる。

「俺、なんか悪いこと言うた?」視線だけで芳乃にそう尋ねるも、「おまえはもう喋んな」と低い声で制されてしまう。なんやねん。


 教室の中は瀬名の言った通り、クラスメイトが出揃っていた。昼休みだというのに授業中みたいだ。ご苦労なことである。


「藤間くん、コマちゃんごめんな! 今日のうちに曲のアンケート結果だけ出してしまわなあかんのやけど、すっかり忘れてて!」

「おお、ええよええよ。気にせんで」

「気にするわ。オウセの邪魔すんねんもん」


 教室に響いた下卑た笑い声。嘲笑の音が強く残るそれに、部屋がしんと静まり返る。

 目をやった先、窓際の席で草間や川辺のグループがニヤニヤしながら俺たちを見つめていた。


「女子がどこ探してもおらん言うてたけど、どこおったん、おまえら」

「べつに。階段のとこ普通におったけど」

「頼むから学校では変なことせんでくれよ」

「ほんま。家帰ったらナンボでも好きなようにしてくれはったらええけどなあ」

「……なんやねん。ハッキリ言えや」


 ジリジリ、頭に熱が昇っていく。「古満、やめとけ」そう、足を踏み出しかけた俺の腕を掴む芳乃の声に、草間たちは「ほら。旦那はんがここではやめとけ言うてはるで、コマちゃん」と更に笑い声を上げた。


「ほんま。きっしょいわ。花街の男ってホモ多いんやろ」

「……あ、」


 偏見だらけの草間の言葉に息を飲んだのは俺じゃない。もちろん芳乃でもない。

 隣で泣き出しそうな顔をして唇を噛みしめる瀬名の姿に、カッと目の前が赤く染まるような感覚に襲われた。鼻の奥で、なにかとんでもない熱量の感情が膨らんで、頭の奥へと突き抜ける。


「古満! やめろ!」


 珍しく声を荒げた芳乃の制止すら聞こえなかった。

 きゃあ、と教室に響いた女子の悲鳴。気付けば俺は、草間の胸ぐらを掴んで窓へと押し付けていた。雨で滲んだ景色を背に、草間は呆然と俺を見上げている。


「な、なんやねん!」

「俺の台詞や。何が気に入らへんの、おまえ」

「なにがて、」

「祇園の女でももうちょいマシにイケズしはるわ。女々しいことばっかしよって、おまえの方が気色悪いねん。男同士やなんやて性別気にするんやったらな、まずはおまえがその女々しさ直せや!」

「だ……っれが、女々しいねん!」


 草間が、俺の胸ぐらを掴み返す。さらに上がった甲高い悲鳴が教室を包んだ。


「だれか先生呼んできて!」そんな声に教室から数人の女子が飛び出していくのが見えた。一瞬の隙を突かれて、ガン、と壁へと押し付けられる。強かに打ち付けた後頭部の痛みで、更に怒りが膨れ上がった。


「おまえや! なんぼでも言うたるわ、しょうもない嫌がらせばっかしよって!」

「おまえらがキモいからやろが! 目障りやねん、視界の端で、ベタベタベタベタ!」

「男だの女だの、うっさいわ! くだらん価値観引っさげんのは勝手やけどな、他人にまでそれ押し付けてくんなや!」

「普通やろ! おまえらがおかしいねん!」

「普通てなんや! 一歩足踏み入れたら全部が逆転する世界もあんねんぞ! おまえかて祇園で生まれてたらただの穀潰しや!」

「なに、言うて……、」

「人前でベタベタした覚えもないわ! おまえらが俺らのことばっか見とるからやろが!」


 俺の言葉に、草間が息を詰める。え、と思う間も無く、腹に太い腕が回った。そのまま芳乃によって身体を引き離されながら、俺は呆然と、己を見上げてくる草間を見下ろした。


 なんや、その顔。なんでそんな怯えた顔すんの。キレろや。なんやねん。


「ごめんな、草間。俺らにも非はあるんかもしれへん」


 俺と草間の荒い息遣いの間に響いた、静かな声。クラスメイトが固唾を飲んで見守るそこで、芳乃はゆっくりと草間たちに近づく。

 そうして、怯えたように身をすくめていた二人へと低く囁くように言った。


「せやけどな、俺らもう高三やで。色々自分でも認められへんのかもしれんけど、好きな子いじめて喜ぶん、そろそろ卒業しいや」


 そう、小さく笑うように言い残して。芳乃は俺の手を引いて、教室を後にした。






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