宵闇コペルニクス

よもぎパン

さかさまのまち





 その昔、女の赤ん坊を産んだ嫁は裏口からしか家に戻れなかったという。

 この街は、全てが逆さまだ。










 どこかでチャイムの鳴る音がする。窓の外の淡い雨の音。穏やかなそれをかき消すように、辺りは休日の新京極しんきょうごくかと思うほどに騒がしい。


 ああ、うるさい。俺の眠りを邪魔するな。せっかく良い夢見てるのに。


杉浦すぎうら、起きんでええの? 藤間ふじま、先帰らはったで」


 低すぎず、高すぎない凪いだ声が、俺を眠りの淵から引き上げる。突然目を開けた俺に、声の主は「うわっ」と声を上げて退いた。


芳乃よしのは?」

「せやから、先帰ったんやって」

「はあ? 相変わらず冷たい男やな」


 そう、顔を歪めて吐き捨てた俺に瀬名せながぎゅっと唇を噛むのが見えた。

 瀬名せな信綱のぶつな。高校に入学してから二年と少し、ずっと俺の隣の席になり続けている哀れな男である。


「ご、ごめん……」

「なんで瀬名が謝るん。すまん、起こしてくれてありがとうな」


 傷ついた乙女のごときしおらしさで胸に手を寄せる瀬名にそう言って、机の横にかけていたリュックを引っ掴む。そのまま教室を飛び出した俺に瀬名が何か言いかけていたような気がするが、まぁ明日でもいいだろう。


 今の俺はコンマ1秒でも早く、あの冷血漢に追いつかねばならない。


「杉浦くん、また藤間くん追ってるん?」

「藤間やったら靴箱んとこおったで」

「コマちゃん、雨降ってきたで!」

「杉浦! 廊下走んなて何遍言わせんねん!」


 姉さんたちに折れそうだと言われる足で廊下を駆ける俺に、同級生や先生たちが口々に声をかける。それに返事をしながらも足は止めない。階段を飛び下りて、靴箱で上履きとスニーカーを履き替えたところで、校門の近くに見慣れた背中を見つけた。


 面白みのない黒のリュックに、面白みのない黒い傘。周りより頭一つ分高い身長。ぴんと伸びた背筋が余計にその長身を際立たせている。


 同じ年の同じ月に生まれて、同じ街で育ったとは到底思えへんな。そんなことを思いながら、傘もささずにその背中を追った。


「芳乃! 待てや!」

「……おお。古満こまか」

「コマかちゃうわ!」


 俺の声に、振り返って。焦るでも笑うでもなく、おお、と低い声を上げる幼馴染みに心底腹が立った。


「古満、傘は? 午後から雨や言うてたやろ」

「朝降ってへんのに傘持ってくほど腑抜けた男ちゃうねん、俺は」

「なんやそれ」


 呆れたようにそう言いながらも、芳乃は隣を歩く俺へと傘を傾けてくれる。

 いくら俺が華奢な女顔のチビとはいえ、高三の男二人に相合傘はきつい。物理的にも精神的にも。しかし、下校ラッシュの通学路で肩を寄せ合う俺たちを訝しむ人間は居なさそうだった。


「狭いわ。もうちょいそっち寄れや」

「古満さん、これ俺の傘なんやけど」

「この傘、おまえの身体には小さない?」

「そら折り畳みの置き傘やもん」

「午後から降るんとちゃうんかったんかい」

「雨降るんは覚えとった。傘を忘れただけや」

「なんやねん」


 肩をぶつけながら雨の中を歩く。途中、コンビニの前でクラスメイトの草間くさまたちに会った。「おまえら今日もドウハンかいな」ニヤつくクラスメイトを適当にあしらう。芳乃は何も言わなかった。

 わかっている。入学した頃はもう少しマシにからかわれていたのが、最近、言葉尻に嫌悪感が滲むようになっていた。


「同伴て。なんぼかかるかも知らんくせに」


 何か喋らずにはいられなくて、鼻で笑って吐き捨てる。そんな俺に芳乃はちらりと視線を向けて、そうしてゆっくりと口を開いた。


「おまえ、昨日、夜遅かったんか」

「うん。おかんが座敷出てたし」

「えらい熟睡してたから起こしにくうてな」

「起こせや。瀬名が可哀想やろが」

「なんで瀬名?」

「あいつが起こしてくれんねん。いつも」

「……いつも、なあ」


 どこか含みのある音を滲ませて、芳乃は呟く。

 続く言葉を待てど、幼馴染みは前を見据えたまま口を開く様子もない。雨で滲んだ景色と整った顔立ちがまるで絵画のようだった。

 じっと男の横顔を見つめたまま、花見小路はなみこうじの柱を抜ける。コンクリートから石畳に変わった道路。空気の匂いすら変わった気がした。


 元No.1芸妓から生まれた俺と、元No.2から生まれた芳乃。俺たちは同じ年の同じ月に生まれ、同じ祇園ぎおんという街で育った。

 京都府は京都市、その東山区に存在する花街の一つである。


 今は昔――……いや、京都という古い街では今でもそうかもしれない。女の赤ん坊を生んだ嫁は、裏口からしか家に戻れなかったという。正面玄関の暖簾をドヤ顔でくぐれるのは、跡取りの嫡男を生んだ嫁だけだったというのだ。

 まあこれも、生きた化石と名高い地方じかたのお姉さまから聞いた話なので、もしかしたら三百年ほど前の話かもしれないが。


 俺と芳乃の母親は、祇園で売れっ子の芸妓だった。花――捌いた宴会数のことだ――、の売り上げの一位と二位を行ったり来たりしていた二人は、ある協定を結んだ。同時期に妊娠し、同時期に子供を産もうというのである。


 抜け駆けは許さしまへんえ。そう誓い合った二人は、六月の半ばに俺と芳乃を生んだ。


 俺も芳乃も戸籍上の父親は居ない。それが花街のルール、しきたりってやつだ。芸妓の結婚は、イコール引退を意味する。

 そうやって街を出て行く女も多い中で、俺と芳乃の母親は結婚よりも芸の道を選んだ。それでも子供を諦めきれなかったのは、それほどまでに好いた男が居たのか、女としての本能がそうさせたのか。俺にはわからない。


 俺は予定日よりひと月ほど早く、芳乃より五日先に生まれた。雨が降りしきる、特別蒸した日だったという。


 外の世界がそうであるように、この街でも命の価値は平等ではない。女が支配する祇園という街で男の赤ん坊を生んだ女は、裏口からしか家に戻ってくることができない……というのは昔の話である。今や時代は21世紀、花街業界も衰退の一途を辿るこのご時世だ。母は大手を振って家に帰って来たし、俺は街のお姉さま方から大層可愛がられて育った。


 そもそも、父親の居ない子供が大半の街だ。女たちは協力して子供を育てる。女将に芸妓に舞妓に仕込みにお手伝いさん。女に囲まれて育つ男は、まれに……というか、結構な頻度で、衆道――現代的に言や、ゲイってやつだ――に育つという言い伝えが街にはある。


 それでなくとも男が地位を築きにくい世界だ。穀潰しと裏で囁かれ、女嫌いになる男も少なくはない。それを避けるため、男が生まれた場合、人によっては養子に出されたり寺に預けられたりするのである。

 そう思えば、生まれてからの十七年間と少しをきっちりと街中で過ごした俺と芳乃は、稀有な存在なのかもしれない。


「古満、おまえんとこ寄るわ」


 ぼんやりしながら歩いていた俺の意識を、芳乃の低い声が引き戻す。

 いつの間にスマホを取り出していたのだろう。芳乃は傘をさしたまま、器用に片手でスマホの画面をスワイプしている。


豆千夜まめちよさんと豆小夜まめさよさん、宵の宴会入ったんやって」

「マジか。小夜さん姉さんの罵声が聞こえてきそうやな」

「親父ももう出てるみたいやし、このまま一緒に回るわ。すまんけど荷物置かせてな」

「おお。明日の朝そのまま行ったらええやん」

「課題出たやろ。着付け終わったら取りに寄るわ」

「真面目やねえ、芳乃くんは」

「おまえがええかげんなだけやろ」


 俺と芳乃に戸籍上の父親はいない。しかし、芳乃は俺と違って父親の顔を知っているし、なんだったら家に帰れば父親が居る。祇園ってのはそういう街だ。

 芸妓の結婚はイコール引退である。だから、街の女たちは籍を入れずに男と暮らし、子をもうけるのだ。ルールの目をかいくぐるというか、屁理屈をこねまわすというか。


 芳乃の父親は男衆おとこしである。

 芸舞妓に『引きずり』と呼ばれる宴会用の着物を着せることを生業とする、祇園唯一といってもいい男の仕事だ。この街の昼と夜をつなぐ、男たち。

 俺は出来ればこの街から出て行きたいと思っているタイプの街の子だったが、藤間芳乃ふじまよしのは違ったわけだ。


 今でも覚えている。中学一年の夏。

 まだ俺と同じくらいの背丈しかなかった当時の芳乃は言ったのだ。「古満、おれ、男衆になる」と。今と変わらない強い瞳で。


 その日のうちに、芳乃は父親に弟子入りしてしまった。


 あの時から、なぜか芳乃が遠い存在になってしまったような気がして。胸にぽっかりと空いた隙間を、俺は未だ、埋められずにいる。


「ただいまぁ」

「芳乃です!」


 明かりの灯っていない、つなぎ団子の赤提灯。所属している芸妓や舞妓の看板が並ぶ玄関を抜けて、引き戸を開ける。ガララ、と、手に振動を十二分に与えながら開いた扉の向こうへと芳乃は癖のように声を張り上げた。


 上の階から「お兄ちゃん来た!」と、姉さんたちの慌てる声が聞こえる。


「姉さん、大丈夫! まだ芳乃だけやねん! 着付けは克哉かつやさん来てからや!」

「もぉ! 紛らわしいんやめて! ひやっとしたやん!」

「すんまへん。親父ももうすぐ来る思います」

「嬉しない知らせやわー!」


 ばたばたと二階で姉さんたちが走り回っている。突然入った宴会だ。化粧どころか着物の準備もまだだったのだろう。


 ここ、大富屋おおとみやは、お茶屋ちゃや置屋おきやを兼ね揃えたそれなりに大きな家である。

 お茶屋は芸舞妓を呼んで宴会をする場所であり、お茶屋はそんな芸舞妓が住まう寮のような場所だ。昔は、母のような内娘うちむすめ――祇園で生まれ、祇園で育って舞妓になる女のことだ――、ばかりだったようだが、今の時代、そうもいかない。

 どこも高齢化は進む一方で、今の祇園に内娘は一人も居ない。


 つまり、中学を卒業したばかりの女の子をよそから貰ってきて舞妓として育て上げるしかないのだ。それが置屋の仕事であり、今の大富屋には四人の舞妓が所属している。


「あら、お帰り小童ども。青春してきたか」

「ただいま、小夜さよさん姉さん。乳隠して」

「隠れてるやろ」


 玄関で濡れた制服を脱いでいたら、中堅舞妓の豆小夜さんが台所から顔を出した。

 こちらは既にしっかりと白粉おしろいを塗り、紅をさしている。真っ赤な肌襦袢姿でうろついていたら女将――俺の祖母だ、に叱られるだろうに、ほとんど半裸に近い女は気にもしていないようだった。年齢だって、俺たちと二つくらいしか違わないのに。


「こんばんは豆小夜姉さん。おたの申します」

「芳乃くん、今日も男前やな」

「姉さん、俺は。一つ屋根の下の俺は」

「古満ちゃんはべっぴん過ぎて腹立つねん」


 そんなことよりアンタのオトコ、さっきから何してはるん?

 姉さんの言葉に振り返る。玄関に腰掛けた芳乃が何やら真剣に折り畳み傘を畳んでいた。一筋一筋、寸分たりとも折り目を違えてなるものかという真剣さでビニール地の布を折っている。て言うか誰が誰のオトコだって?


「姉さん、こいつ昔からそうやねん。折り紙とか好きなん」

「はあー、やっぱ祇園で老婆に囲まれて育ったらそうなるもんか」

「そうでもないんちゃう? お手玉とかヘッタクソやったで、こいつ」

「玉扱うんはアンタの方がうまそうやもんな」

「姉さん何言うてはるんどす?」


 そうこうしているうちに、玄関の扉が大きな音を立てて開く。雷でも落ちたのかと身をすくめたところで「克哉です!」と響いた怒声にも近い声に、二階が騒がしくなった。


「さあて、仕事やな」


 宵闇が迫る。つなぎ団子の赤提灯に灯がともる頃、この街は目を覚ます。


「行こか」


 そう、静かに呟いた小夜姉さんに芳乃が深く頷くのを、俺は黙って見ていた。




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