第8話 現実

 子爵が決死の覚悟で門を出たその頃、帝都の一室では数刻前の子爵と同じように、グーシュが床についていた。

 その隣ではグーシュに腕枕されたミルシャが寝息をたてている。

 どうやら少し前までしていた運動と、グーシュがしていた星辰の話が眠気を誘ったようだ。


「そんなに星辰の話はつまらんか……こやつめ」


 そう言ってミルシャの頬を軽く摘む。

 出会った頃に比べ、騎士の鍛錬ですっかり筋肉質になってしまったミルシャだが、頬の柔らかさは七つの頃のままだった。


「剣の腕前だけいっちょ前に上手くなったが、夜伽はからっきしうまくならん……」


 グーシュリャリャポスティはこういう女だった。

 色を好み、好き勝手に動き、相手を区別しなかった。

 思いついた事をすぐ話し、実行する。

 興味深いことには専門家並に詳しく、現場をよく見ていたため現実に即した助言を遊び歩くついでにあちこちに行う。

 そのせいか、豪放磊落な人柄を好む現皇帝である父親や、民衆や商人に近い官司や下級兵士には好かれた。

 

 だがその分、兄や縄張りを荒らされることを嫌う高官、伝統を重視する将軍達には嫌われていた。

 特に兄であるルイガリャリャカスティとその取り巻きとは、一触即発の事態になったことすらある。


 三年前。

 ルイガが父から聞かれた問に答えた際、家臣が集う朝礼の場であるにもかかわらずグーシュは間違いを指摘し、ルイガを完全にやり込めてしまった。

 当時二十歳のルイガを十五歳のグーシュがやり込めた。長男のルイガの面子が潰れたのは明らかだった。

 そしてその日の夕刻、近衛騎士団に混じって鍛錬をしていたミルシャが大怪我をして、意識不明となった。


 組手の最中に投げられ、後頭部を強く打った。

 これだけ聞けば不運な事故にも見えたが、相手は近衛騎士団の皇太子派の男だった。

 目撃した兵士があれは明らかにワザとだった、とグーシュに訴えたことで、グーシュに普段から懐いていた下級兵士を中心に騒ぎが大きくなった。

 あの苛烈なポスティ殿下がどう対応するのか。

 いざとなれば駆けつけよう。

 そんな声さえ出た。


 しかしグーシュは何もしなかった。

 いきり立つ兵士たちを静め、ミルシャを投げた護衛隊の兵士に騒ぎになってすまないと逆に謝罪した。

 その上で皇帝と兄に、皇太子である兄を侮辱した事、自らの日頃の行いが原因で単なる事故が騒動になったことを謝罪し、自ら謹慎を申し出た。


 皇帝と皇太子は、その時心底ホッとした表情を浮かべていた。


 謹慎を終えた頃、グーシュは今のようになった。

 性格や言動はあまり変わらなかったが、講義をサボり、好きな説話や本を読み漁り、街に繰り出しては遊び歩いた。

 これによって臣民からの親しみの声は変わらなかったが、助言や口出しがなくなったことで、官司や兵士からの支持は減少した。

 その後、ルイガは名実ともに皇太子としての地位を確立していった。

 グーシュは以前は調子に乗っていたが、今では遊び歩く放蕩皇族になった、という評価に落ち着いた。


 正直な所、グーシュとしてはあの時ルイガと、とことんやりあっても良かったのだ。

 兵を扇動してルイガの所に殴り込ませた上で、適当な檄文を飛ばして周辺諸侯や諸国に皇太子謀反の情報を流す。

 どうせ殆どの者は信じないだろうが、混乱とその対応で騎士団の動員が遅れればいい。

 あとはルイガの取り巻きをグーシュ派の兵士をまとめ上げて各個撃破していけば、ルイガの首は取れた。

 その後グーシュは謀反の罪に問われただろうが、口八丁で何とか出来た自信はある。

 

 だが、グーシュはあの時。

 優秀な筈の兄と、偉大だと思っていた父の怯えた顔をと安堵した顔を見た時に、気がついたのだ。

 世界は自分が思っていたよりも現実的で、自分が思っていたよりもずっと小さなものだったのだ。


 この世界には自分が思いもよらぬ素晴らしいものがある。

 そして未知を探求し続ける事で、それを見つける事が出来る。


 偉大な父に従い、優秀な兄と切磋琢磨し支えていれば、いつかは素晴らしい世界の一端を自分も見ることが出来る。

 無限に広がる未知へと至れる。


 それが全て、幻に過ぎないという事に。


 世界はどんなに探究しても常識の範囲内だった。

 説話のような物も人もいなかった。

 偉大な父は官吏達がいなければ何も出来ない、普通の人間だった。

 優秀は兄は、切磋琢磨していたつもりのグーシュの気持ちを何もわかってくれてはいなかった。

 

 そうなると、グーシュの心に制動が掛かった。

 自分の欲しい物を求め、迷いなく歩んできたのに、自分の欲しいものが本当にあるのか自身を持てなくなったのだ。


 兄を殺し、内乱を勝ち抜き帝国皇太子になって、何を得られる?

 あるかどうかも分からない未知のために、ミルシャを犠牲にするのか?


 そんな考えが、頭を打って眠り続けるミルシャを見た時、グーシュを支配した。


 ミルシャが死んだら自分はどうなるのか?

 七つの頃からずっと一緒に居た。この娘がいなくなったら、この先自分は何をすればいいのか?


 幼い頃からの夢に自身が持てなくなった今、グーシュはミルシャを失う事を恐れるようになった。


 その考えに至ったグーシュは、兄や官司や頑固な将軍とやり合うのを止めた。

 結局の所、それらを正すことなどミルシャの存在と比べるまでもない。


 未知に思いをはせる事は止めないが、心から以前のような焼けつくような渇望は失われていた。

 

 ただ、ミルシャとゆっくり好奇心に任せて気ままに暮らす。

 色褪せた世界に、たった一つ残った価値ある事に、グーシュは飛びついた。

 皇族として国を正すのは兄に任せて、自分は誰とも争わずに好きなことをして行くことにしたのだ。

 ミルシャのために。


「書類の処理や新兵の訓練より、説話や星辰、海の事を考えたほうが楽しいからな」


そうしてグーシャはコツリ、とミルシャの額に自分の額をぶつけた。


「もう国政に首を突っ込むことはなかろう……」


 そう。

 グーシュももう十八歳だ。

 いずれは姉同様どこかに嫁ぎ、子を生して、大人になっていく。


 未知への渇望を抑え、最後に残ったミルシャとの関係すら薄くなり、普通の皇族として人生を終えていく。


 グーシュは、そんな人生を覚悟していた。


だが数日後、そんなグーシュの考えはすっかり覆ってしまった。

子爵領からの早馬が届き、海向こうからの使者が来たことが帝都に知れ渡ったのだ。

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