糸杉賛(いとすぎ さん)

 中学に上がる前だろうか。小学生の頃から少しずつ、私と姉との仲は悪くなっていった。




 姉のせいではない。姉を可愛がる両親のせいだと、私は思っていた。だが、時を経て正直に打ち明ければ(そうはいっても、未だにこれを言葉にすると恥ずかしいのだが)私の嫉妬のせいだ。



 姉は美人ではなかった。だが、とても頭がよく、幼少期はずっと私の憧れの人であった。子供特有の、お得意の想像力で偶像化し、現実の姉をより美化していたと思う。そんな妹である私の眼差しを、姉は眼鏡の奥で照れ臭そうな目を度々伏せることがあったからだ。それぐらい私の視線はあからさまであり、本当に姉とは仲が良かった。


 姉はずっと成績優秀であり、卒業生代表になり、私学の受験に成功し、恵まれた環境で姉が更に勉学に目覚め始めると空想力だけの頭の悪い私は取り残されていった。いや、自分では、取り残されていたとは少しも思っていなかった。それに気づく頭もないのだから。ただ、両親の態度によって、姉を崇拝するのを止めたのだ。



「国文科に行きたいの?それで、就職先はどうするの」



 姉は私の大学の志望を聞いて、そんな事を口にした。ただ、何となくであろう。二つ上の姉は誰もが知る有名大学に進学しており、そしてまた、誰もが知る大学への留学を目の前にしていた。理数系で、私にはさっぱり理解出来ない場所にいた。


 頭の悪い私は、それをそのときすぐさま侮辱と受け止めた。姉はそのことに気付いたようだが、私を慰めることも、説明して誤解を解こうともしなかった。(誤解もなにも、私が勝手に侮辱と受け止めたので、姉が釈明する必要はないのだが)


 姉との距離はますます広がった。母はそれを私の嫉妬としていた。父は出来のいい姉に鼻高々で私の存在など忘れたかのようだった。あれほど幼い頃は私を可愛がり、姉を嫉妬させたというのに。


 姉は留学し、三か月足らずで帰国した。早い帰国を不思議に思ったが、私は大学生活と当時の恋人に夢中で、特に気にもかけなかった。


 姉は癌だった。親が私に説明したのは、病気が発覚して三週間もしてからだった。発覚に気付いた時は、手の施しようも、妹へ隠していたが進行が速すぎてどうしようもなく、姉自身もみるみる痩せて、残酷にもすぐに自身の病気と余命を知ることとなった。


 だが姉はすぐに脳に転移して、自分を悲観し、涙を流すことはなくなった。ひたすら同じ言葉を繰り返し、手足を意味もなく動かすのだった。中途半端な抗がん剤治療を私は恨み、病魔に冒された彼女が嫌がるのを分かっていたが、少しでも姉を美しく見せたいがために不可解な言動を繰り返す寝たきりの姉の体を清潔にしてウィッグまで付けようとした。


 それを看護婦が見て、「誤飲するといけないので」と言って外させた。私はその時だけ泣いた。




 両親のように私は毎日泣かなかった。私は、姉ではない。泣くのは姉であり、私ではないのだ。だから、私は決して姉に涙を見せないようにした。もしも、姉が私の涙をみて、自分の今の現状を、立場を知ったらと(気づいたら)思うと、悲しみを見せることは罪だと思ったからだ。




「もう何も、わからないと思いますよ」



 と、普段であったら好感を持てそうな白髪の医師がそう私達家族の前で言った。私は姉の前でその言葉を口にした医師を殺したかった。


 彼氏もそうだ。私を心配して、毎日電話をくれて、家にも来た。だが、私はそれが鬱陶しかった。素気ない私にしびれをきらしたのか、病院にまで来た。私は彼と別れた。もう、病室は、私と姉の聖域なのだ。誰も来てほしくなかった。


 姉の病気を教えてくれなかった両親も、私の敵であった。だが、私は両親を攻撃はしなかった。気力がなかった。


 ひたすら神を憎んだ。姉がずっと右手を振り回すのを止めたかった。姉の友人が見舞いに来るのを私は拒んだ。姉の姿を誰にも見せないようにしたかった。


 なぜなら、私が姉の立場なら、そうして欲しいからだ。姉は食事がとれないのでやせ衰えて口が匂った。私は姉の口を清潔にしようとした。また、指を噛み切られるといけないと看護婦が止めた。


 だが、私は姉の口の中を湿ったガーゼで拭いた。姉にずっと話しかけた。姉の横で寝泊まりしたかったが、病室が代わってできなくなると、嫌々家に帰った。


 夢をみた。姉が退院したのだ。あの体で退院できただなんて、と夢の中で私は愚かにもそう考えてしまい、その途端、夢の中で姉の首がかくんと横になり、

「こんな首だとちょっと、不便よね」 と、姉が笑い私はどう答えていいのかわからず、作り笑いをした。





 姉は私の全てとなった。ベッドに横たわる姉をずっと眺めていた。消えてなくなることは、例え姉でも許したくはなかった。姉が死んだら、私も死ぬ。


 姉の骨ばった腕をさすった。感触を忘れてしまわないようにひたすら撫でた。姉の体に始終触れた。姉の、病人特有の匂いが私を包んだ。


 同じ病室の人が、健康そうな顔で(だが闘病中なのだ。今思うと、彼女は姉の姿を見るのに忍びなかっただろう)私に同情を示した。「あんたのお姉ちゃん、幸せよ」と言った。

 何が、と思った。だがこのときは、私は人の好さそうなその中年女性に素直に頷いた。反発する力はない。


 姉と私は一つとなるのだ。私は、姉の手であり、足であるために。それだけに全てを捧げるのだ。




 残酷な神は姉の肉体の限界がくると、さっさと連れて行った。魂が抜けた肉体がそこに残った。私は泣き、世の中を恨んだ。病院を恨んだ。病魔を恨んだ。太陽が昇ることさえ恨んだ。人の笑い声を憎んだ。姉のために全て、皆一緒に苦しんで神の元へ行くべきなのだ。


 やせ衰えた姉は、頬がこけ、目が大きくなり、不思議と私とうり二つの顔となった。同じ顔の彼女が亡くなり、私の世界の色は消えた。


 病室に、姉の残したノートがあった。とても読む気にはなれなかった。葬儀後、それでも自分の中の醜い好奇心か、ただ、ぼんやりと手を動かして目を美しい文字に目を落とすことにした。若者の葬式は、静かで思い出話をすることもない。悲しみが葬儀屋の部屋中に落ちているだけであった。




 姉の字は、美しかった。




 形の美しさで、思わず読み入ってしまった。彼女の、自分の運命を嘆き、病気を恨み、辛さをぶちまけた感情を、私は泣きながら読んだ。


 だが、暫くすると、一転して、両親への愛と人生への感謝が綴られていた。人は、あんな状態になっても愛と感謝を感じられるのかと私は驚いた。姉は、自分の脳が機能している時、すぐさま混乱から落ち着きを取り戻し、人への感謝で心を満たしていたのだ。


 私のことは、短文でまとめられていた。そのとき、私は、姉は学業に必要でなければ本を読まず、芸術にも疎いのををよくからかっていた事を思い出していた。

 だがそれは、私の若さ故の傲慢で、私に芸術が分かっているかは怪しいものだ。




 言ったもの勝ちだとも思って堂々、姉の芸術を楽しめない様子を残念だとからかうと、姉は、

「私には分からない領域ね。あなたは芸術家なのよ」

 と言い、私の心を満たしてくれた。姉よりも、私は文才にしろ画力にしろ長けていると信じていたのに、姉は文字だけでなく、文章さえ美しかった。








「私は数字に美しさを見出したが、妹は文字にそれを見出したようだ。


 中略。


 病室へ来る彼女の震える様は見ていてこちらも辛くなる。見せないようにしているが、誰よりも私を失うことを恐れている。私は天国でどんなに長い時間がかかっても、いつまでも、あの子を待っていよう。あの子は五月の緑のような輝きがあるから老婆の姿でもすぐに見つけられるだろう。そして、昔のように、手をつないで天国の案内をしてやろう」






 私はあれから結局、絵本作家となり、椅子に毎日座るような不健康な生活をして、自立し、両親を支えている。


 両親の悲しみを癒すことはできない。姉の代わりにはなれない。だが姉の役割を担うべく、そう務めるべきだと思っている。日々、皆、心臓を動かし時として笑うことさえある日々だ。だが毎年、母が私の検診の結果をいつも食い入るように見る。そして、

「その病院は信頼できるの?」 と悲しみをたたえた目で毎年聞く。父の髪は、真っ白だ。




 私は、私も含め、姉のように美しい文章を書く人に出会ったことがない。

 あのノートには、三週間で書かれた彼女の遺言が長く綴られていた。人に見せられないのが残念であり、世にでることはない。姉は私の知らない世界を知ったのだ。そこに立って書く人と、何も知らないで書く人の差は大きいと、今は思う。



 私の描く小さな魔女の話は、シリーズ化し、主人公はいつも冒険をしている。親は教職の免許など、大学でとれるもの全て取らずにひたすら小説家を目指し、結局は絵本作家に落ち着いた私を心配したように、そして失わないようにびくびくして見守ってくれている。そして赤い髪の眼鏡をかけた魔女を「お姉ちゃん」と呼んでいる。


 ここ数日、私は、たまに姉のような症状を感じることが度々ある。怖くてたまらない。だが、必ず私を姉が見つけてくれると思うと、また、手を繋いで暖かな日差しの元、二人で歩けるのを知っている。



 私は、幸運なのだ。


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