22:新しい書き込み

 幕開けは唐突だった。あまりにも素早かったため、観客たちは何が起こったのかわからなかった。気づいたときにはもうそうなっていたのだ。


 空が見えていた。テントの天井のあたりがいつの間にか消失していて、宇宙の星が光り輝く夜空が直接上に広がっていた。



 誰もが上を向いたままあっけにとられていた。なぜ夜なのか? 今は真っ昼間もいいところであるはずなのに?


 ほんものにしか思えぬ空を見ていると、彼方からなにかが近づいてくる。白く輝いていた。それは天使だった。


 無量の聖なるものたちが、純白であり一切の穢れを寄せ付けない翼をはためかせ、教会の壁に掛けられた絵画から抜け出したような姿そのままで夜空から降りてきた。


 老齢者のなかには気絶するものもいた。自分が死んだと勘違いして悲鳴を上げる声があちこちから聞こえてきた。


 天使たちは舞い降りると観客の頬に口づけし、そうしてから両手を引っ張っていってさらった。会場にいた三分の一はそうして夜空に飛んで消えた。


 夢か現実かわからぬまま観客たちがお互いに顔を見合わすと、そのうちの片方の顔が不意に歪み、ふたつに割れ、その内側からケーキやドーナツが飛び出した。あちこちで起こる製菓の爆発で会場は甘い匂いに満たされた。


 天使に出遅れた死神が席を昇ってきた。大鎌をふるって人間の慣れ果てのデザートを回収するのだ。大ざっぱな動作なので勢い余って人間に当てるものもいた。


 するとその人間は背中に翼が生え、天界に昇らなければならないという使命を唐突に感じ、人知の及ばぬ高みへと飛翔するのだった。


 大量の牛がどこからともなく現れ、まだ天使にも連れ去られず菓子にもならず翼も生えていない人間へ突進しては背中にかち上げて乗せ、客席をそのまま何十周も驀進した。

 

 他の出場者も墓石をあしらった帽子を被り、前後不覚の観客たちを丘の上の寺院にまで連れて行った。


 そのなかでは古い肉体の殻を捨て、ヤドカリの殻をその代わりにあてがう儀式が執り行われているのだった。


 死んだものたちが蘇って地上を徘徊し、白々しい空を見上げては生前の心残りであった遺族たちが自分より先に天国へ向かっているのを発見して憤慨した。


 自分たちも天国へ昇るためこの世で最も高い塔を目指して砂漠を一列で行進した。その列は海を挟んで離ればなれの大陸どうしをつなぐほど長かった。


 内側から膨れ上がるように会場のテントが破裂すると、なかからは種々雑多の動物や魔物が溢れだし、街中を駆け巡って建物を破壊したり住民を踏んづけたりした。


 夜空がめくれ上がって裏側を地表に向けさらしたが、昼の青空を画家がまだ塗り終えていなかったため、世界の半分の住人は真っ白な空の下で一日を過ごすはめになった。


 夜には三日月と満月と新月と上弦と下弦の半月とが同時に並び、ワーウルフを混乱させ、世界中の日付がめちゃくちゃになり、一日で三歳若返ったものや、逆に十歳年をとったために、たちまち顔がしわだらけになり腰は曲がりそのまま自分でカンオケに入って眠るものも現れた。


 いつまでも出番が来ないことにいらだった太陽が無理やり東の地平線に姿を現したため、夜啼鳥やふくろうは混乱して朝の平原を飛びまわり、海は荒れるべきか凪ぐべきかを決めかね両方を同時にやろうとして失敗し、全水量の半分も陸地にこぼしてしまい、今生きているうちの半分しか生き残れないことをいち早く察知した魚たちは壮絶に殺し合うか、飛び級で進化して陸上に上がり人々にまじってパンを買うかした。


 長らく放置されていた古城や神殿や寺院は退屈のあまり動き出し、勝手に棲み着いていたならず者は寝ているうちにみんなすべり落ちてしまった。


 一度も動かしたことのなかったその体はもろくぼろぼろと崩れ、あちこちの畑や湖に苔むした瓦礫を残していった。


 そこには絶滅したはずの人魚が住まい、わずか三日でその数を五十倍に増やした。


 終わりなき昼と夜のめぐりに疲れ果てた星は空から落下し、十万の家屋がその墜落を受けて破損したり半壊したり全壊したりした。


 星の大半はまだ熱を持っていたため、極圏の雪男や遭難者はありがたくそのまわりに集まって暖をとった。


 あまりにもたくさんの星が落ちた雪山は体をおおっていた雪がすべて溶けて丸裸になってしまい、恥ずかしさのあまり轟音をたてて地中に沈み隠れた。


 あとに残された雪解け水は激流となって地上を飲み込み、住人たちが互いに協力して水をかき出すのには百年もかかった。


 光と闇がひっくり返り、宇宙はのたうち、時間は窒息した。


 あらゆる垣根が取り払われ、すべてがひとつになったかと思えば、家族で夕食を囲むさなかにも、おのおのが自分の孤独は真に理解されることはなく死ぬまで決して誰かと一緒にわかりあいわかちあえるはずはないのだと悟り、三日分の野菜と肉を突っ込んだシチューが冷めるのも構わず号泣することもあった。


 殺された神の死体があちこちに横たっているかと思いきや、夜になると墓場に帰るのに朝になれば何事もなく起き出してくる死体もいた。


 犬や猫は畑にうずくまって卵を生み、それは地中深くに根を張って、二年に一度わんわんにゃあにゃあ鳴く果実を実らせた。


 空の色に文句をつける人々が多くなりすぎたため嫌気がさした画家は職を放棄し、今ではおのおのが勝手な色に塗りたくるため、澄み渡った青空の夜や、真っ黒に塗りつぶされた暗闇の朝が何日も続いた。


 とうとう誰も自分がなにをしているのかわからなくなり、自分の目の前にいて友人として喋っているこの相手も、本当はもっとべつの誰かではなかったか、いやそもそもこの自分だって、本当はなにか、べつの場所、べつの時間に、なにか他のことをしていたのではないかと思い始めた時に観客は目を覚ました。


 彼らは誰一人消えてはいなかった。天使に連れ去られたものも空まで飛んでいったものもいなかった。


 会場に動物は一匹もいなかった。上を見るとテントはしっかり閉じられていて、おそるおそる外を見るとちゃんと昼だし、住人は何事もなく生活していた。


 誰も、なにも言わなかった。そのかわり、舞台の真ん中に立ったロハノを見ていた。いつの間にかまた上着を着て、深々と一礼をしている彼を。


 いかなる感嘆も、称賛も、賛美も、悪罵も、罵倒も、蔑みも、そしりも、拍手も、口笛も、なにひとつ起こることはなく、彼は頭を上げると、観客に背を向け、自分の控室に戻っていった。


「え。もう終わったの?」パンドクラが目を丸くした。


「まだ十秒しか経ってないじゃないの」


「終わったおわったおわりました。はー。疲れた」ロハノは控室の長椅子に倒れ込んだ。


「いやはやここまで真剣にやってみたのは何年ぶりでありましょうか。ま。でも。ちょっと思ってたのとちがうようにやっちまったかも」


「ちがうってなに?」


「もっとわかりやすく行こう、ってな具合に最初は思っていたのだけれど、それだけだと君の二番煎じになっちまうから、やっぱり魔法独特の業を見せようと思って、それはなにかと言ったら、やっぱり別世界創造」


「……なにそれ?」


「あのね。たぶん観客の皆さんは今からしばらくすれば正気に戻って、ああたぶん今のは幻術を見せられたのだろうなあって思うんだろうけど、実のところ、ぜんぜん幻術じゃないわけね。ありゃ全部本当にわたしが起こしたことで、ただそれを数秒に圧縮して、で、最後には全部元の通りに戻したってわけで。でもま。そんなに大したことじゃないんだよね。現実の書き換えなんてのは頭がついてる生き物なら誰でもできるってわけでもっと言うなら文章さえ書ければ」


「あの。意味がわからないのだけれど」


「それならそれでよろしい」ロハノは神妙な面持ちでうなずく。


「わたしにもこれ以上の説明は無理です」


 観客たちが正気づき、会場が騒がしくなっていた。ロハノはもう帰るとパンドクラに言った。この仮面を取れと言われたら厄介だった。あとはよろしくと手を振って会場を出た。


 いつもよりほんの少し、空の色が薄く感じられた。


 大学に戻ると同時に手紙も届いた。破った。読んだ。ひっどい悪筆。走り書き。


ーーーーーーーーーーーーーーー


 ロハノ


 優勝


 パンドクラ


ーーーーーーーーーーーーーーー

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る