18:不可解な買い物

 またクィクヒールの狂騒に満ちた一週間が終わり、元々することのあまりないロハノはさらにすることがなくなり、朝っぱらから研究室で校庭をずっと眺めていた。


 この前の大竜巻の名残で、校庭の真ん中には湖ができていた。やくざな精がそこに棲み着き、誰も見ていないときを見計らっては校庭へ上陸し、片っ端から備品を強奪して湖底へと逃げ込むのだった。


深海の商人との付き合いはさすがのロハノにもなく、いかなる対流が市場を温めるのか、知るよしもないのだった。


「買い物へ行くんです」


 側に座っていた助手のリーシュアが言った。ロハノは独り言だと思いそれを無視していたが、十回もその言葉を繰り返したあたり、どうやら自分に話しかけているらしいことがわかったので、「ふうん」と言ってやった。


「荷物が重くなりそうなんですよ」


「ほう」


「とっても重くなりそうですよ」


「へえ」


「一人じゃ持てないでしょうね」


「そうだろうか」


「ちょっと付き合ってくれませんか」


「一人で行けよ」ロハノは窓の側を離れようとしなかった。「もしくは他の人」


「教授の知り合いはあなた以外におりません」


「教授が助手を助けてどうする。助手が教授を助けるんでしょうが」


「普段はそうしているんですから、休日には交代したっていいじゃありませんか」


「ちくしょう。理にかなってやがる」ロハノはしぶしぶ立ち上がった。


「で。どこに行くの?」


 大学から最も近い街は竜巻によって跡形もなくなっていたが、学生や教職員がよくこの街に訪れていたことを知っていた行商人たちが集まり、急ごしらえのバザールができあがっていた。


 色とりどりのテントはクィクヒールからも見えていた。


 購買部は古城の一階にも存在していたが、日常の用を足すためというより、何らかの緊急事態時に利用するためのものという側面が強かった。


 売っているのは解毒剤や血清ばかりで、この品揃えを見るだけでもクィクヒールの講義の危険性が誰にでも理解できた。


 商魂たくましく、大竜巻の爪痕に残滓のように発生した暴風の魔物たちにも恐れをなさずはるばるここまでやって来たと見えて、商人たちの服装はさまざまだった。


 豪雪の地方の出身らしく、暑そうに顔をしかめているものもいれば、砂漠地帯から旅をしてきたような、寒そうにする様子を見せるターバンを巻いた商人もいた。


 到着そうそうリーシュアは行方不明となった。


 あくまで彼女がロハノから離れてどっかに行っちまったのであって、自分が彼女から離れて迷ったのではないと、彼は確信していた。


 きれいな歌を歌う木彫りのカナリアや、永遠に燃え尽きないというろうそく、水晶でできた鏡、機械じかけの星座、飲ませた相手に自分のことを兄だと思い込ませる薬、種から育つ金貨、食べごろになるとひとりでに死ぬ魚、満月の夜に光る花、気に入りの風を閉じ込めておけるビン、金星の砂漠の権利書など、まゆつばものの商品がところせましとぎゅうぎゅうに並べられていた。


 こうしたもののうちの半分はろくでなしであることがロハノにはひと目でわかったが、中には真正らしきものも混じっていて、そうした商品を扱っている商人には話しかけて様々に質問をした。


 商人の感覚は時として戦士や魔法使いといった専門職よりも鋭く貴重な武器や魔法の物品を探り当てるのだった。


 またその感覚の鋭さを知っているからこそ、魔法使いがよく用いるような薬や素材を売る商人が目に見えて減っていることは、ロハノをいたく落ち込ませた。


 もうそれを売ることが商売にならないと彼らにも思われ始めているようだった。


 メインストリートと思しきところを過ぎると、たちまち場の怪しさが三倍増しになった。


 うさんくさい顔をした、商人というよりは逃亡犯やごろつきと言うべきようなものたちが、明らかに非合法的な手段で入手したと見える商品を不自然な安値で販売していた。


 違法ではあったものの、とはいえ、駆け出しの冒険者にとってはありがたい存在であるにちがいなかった。


 防具を一式揃えることにさえ苦労するその時期にあっては、なりふり構ってもいられないのだった。


 最初に買う一振りが重大だった。下手ななまくらを掴まされては、金を稼ごうにも下級の魔物にすら太刀打ちできず、冒険業を始める前から廃業しなければならないという情けない事態に陥ることも少なくなかった。


 新しい門出であると意気込み、ついつい全身の装備を新品で揃えたくなってしまいがちではあるが、それをやるとたいていは道具を揃える金がなくなり、初めてのクエストに何一つ持ち込まないという背水の陣で挑むはめになるのだった。


 自分はどうだったろうか、と装備品を売る露天商を見ながらロハノは考えた。


 それの持ち主はどう見ても既に他界済みで、置き土産として魔物の牙による噛み跡や血痕がなまなましく残っていた。しかも価格は新品同然だった。いったいこれを買おうとするものがいるだろうか。


 いるかもしれない。


 商品を安く買うため、交渉術などのスキルが客の側で発展したのと同様に、商人の側でも自分の商品を買わせる、それもできるだけ高値をふっかけた上で購入させるスキルを発展させたのだった。


 熟練した商人ともなれば、ほとんど洗脳じみた影響を客に及ぼし、すぐ隣の店で半額で売っているような商品にすら、喜んでサイフの紐を緩めるようにさせてしまうのだ。


 こうしたスキルの厄介なところは、決して自分の思考判断が商人の影響下にあったなどとは思わず、あくまで自分が欲しかったから買ったのだと勘違いしたままその場を立ち去ってしまうことだった。


 たいてい数時間もすればなぜこんなものを買ってしまったのかと首をかしげ、その時になりようやく、自分の思考が自分のものでなかったことに思い至るのだった。

 

 かくして市場はこの世界で最も気の抜けない危険地帯と化し、誰も信用してはならず、自分の頭すらも疑ってかかり、買いたいと思わせるような商品をなにか見つけても、本当にそれは自分の判断によるものなのかどうかを、繰り返しくりかえし、スキルによる呪縛から解き放たれるまで自問自答しなければならないのである。


 気楽な物の値段のやり取りははるかな過去の神話となり、もうこの時代には、おたくの弟の店のほうがもっと安く売ってましたよなどと言えばすぐむきになってこちらが申し訳なるくらいにまで値段を下げてくれる商人など、とっくに絶滅してしまったのだった。


 ロハノはそれからもあちこち歩きまわり、テントの迷路を徘徊し、東西南北の露天を冷やかしては、それでも何一つ買わずに済ませていた。


 百戦錬磨の達人が自分の商品を買わせようと常にスキルを行使しているようなバザールでそうした堅忍不抜の吝嗇を彼が押し通せた理由は極めて単純で、サイフを研究室に忘れてきたためだった。


 どんなに時代が進もうと、先立つものがなければ買い物ができないという原理には変わりがないのだった。


 電子のようにあちこち巡りまくったおかげか、彼は行方不明と思われていたリーシュアとたまたま再開することができた。


 先に金を払ってくれればそのぶん、今度虹が出たときにお望みの長さだけ切り取ってきてやろうと豪語する店主が構えたテントの前のことだった。


「なんかあったの」


 ロハノは訊ねた。リーシュアは苦悶の表情で両手を使い紙袋を抱えていた。


「さぞヘビーな買い物なのでしょうね」


「重いおもーい荷物です。あ。倒れる。たおれます。早く持ってはやく」


「きみね。わたしの助手ならさ、わたしがどれほど頼りにならない筋力しか持っていないのかってこと、わかるはずなんだけどなあ」


 ロハノはぶつぶつ言いながら、それでも彼女の手から紙袋を受け取った。


「おおう」


「ね。重いですよね」


「アトラスも裸足で逃げだすね」


「そしたら誰が空を支えるのですか」


「ま。代わりはいくらでもいるのでしょ。代わりのない存在などありません」


「そうでしょうか」


「そーです」


「……」


「……」


「……あの」


「え」


「ありがとうございました」


「あ、そう?」


 ロハノが先に立ってクィクヒールまで歩いて帰った。うすうす予想していたことではあったが、やはり荷物はぜんぜん重くはなかった。

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