17:見も知らぬ物理の落下
講義はだいたい無事に終わった。カゴロシは役割を最後までこなしたロハノに礼も言わずに教室を出ていった。
やはり<血啜りの幽鬼>の調教はさっぱりこなれていなかったようで、カゴロシの指示は無視するは、学生に手当り次第襲いかかるわ、さんざんな有様だった。
死と隣り合わせのこんな狂騒がこの講義では毎回繰り返されているのだった。
危うく、幽鬼が学生のひとりの首筋にがぶりと噛みつきかけたことがあった。
カゴロシがそれをどのようにして発見したのか、またどのように調教(繰り返すが実際にはまったく調教されていなかった)したのかをくどくどしく自慢する話の最中のことだった。
カゴロシ以外の誰しもが今しがた食らった獲物の血をぎざぎざの歯と牙の隙間から滴らせている幽鬼を不安げに見やっていたが、瞬きほどの猶予もなく、いつの間にか前方三列目の右端のエルフの学生の首に飛びかかったのである。
ロハノが身を呈して指を三本くれてやらなければ、その学生はきっと冷たくなっていただろうと思われた。
そうした危機はたびたびあったものの、おおむね学生たちは気にしていなかった。間もなく夏休みが始まるはずだった。
多くの学生は故郷に帰り、クィクヒールで見た奇妙な同級生のことや、いつ死ぬかわからずはらはらする講義のことなどを、各々の友人や家族に話すだろう。
ロハノは研究室でのんびりと過ごしていた。
これもまた、不幸中の幸いというか、学生数が極端に少ないことの恩恵で、成績をつけるのにたった一時間を要するだけで済んだのだった。
とはいえ、彼の講義の受講生は全員が優秀で、いっとき死んでいたルーンダイトを除けば欠席者はいなく、態度も積極的で、レポートや実技も文句のつけようはなかった。
ちょっとした事故により、試験中にロハノの片腕をふっ飛ばしてしまった学生がいたが、ひどく取り乱したその者に対し、これくらいなら寝れば治ると彼は気楽に言ってのけたのだった。
他の教授たちはそうはいかなかった。
学生数は膨大かつその出来不出来もまちまちであり、導師よ我を救い給えよと昼夜を問わず研究室や教職員用の寮にまで押しかけてくる落第生予備軍の群れにも対処しなければならなかった。
「なんじゃ。お前は」メミョルポンはそうしたひとりに不機嫌に漏らすのだった。
「13回も欠席したたわけに慈悲も救済もあるか。あほう」
ロハノ以外の教授は誰しもが疲れて見え、食堂でもほとんどが夢うつつのままでめしを噛み、突然わめき出しては窓から落下するのだった。
ブルーノは死者でありスケルトンだったが、それですらどこか疲れて見えた。
何度教えてもどうしても攻撃の弾き返しのできない学生がいて、そのタイミングを教えるためにつきっきりで個人指導を行ったのだった。
「で。どうですか。できたんですか」
ロハノが訊ねると、彼は黙ってゆっくりと腰の<凪の糸太刀>を抜き、おもむろに振りかぶり、恐ろしくのろのろしい動作で斬りかかってきた。
本業ではないロハノと言えど素手で弾き返せてしまうほどなめた一太刀であり、実際に弾き返したが、すると力なくブルーノはそのまま地に倒れ伏し、このまま墓場まで引きずっていって埋めてくれと懇願するのだった。
「こんなにわかりやすいモーションですら弾き返せないと言うんです」ブルーノは泣きわめいた。
「も。どうしろと。どうしろと」
ロハノは黙って立ち去った。
冒険者ギルドの機関紙には毎月登録者からの様々な集計が記載されており、そのなかには各職業の割合も含まれていた。
彼はそのページをめくり、ため息をついた。もう三年連続で純粋な魔法使いと、それに準じる職業の冒険者の数は減り続けているのだった。
人気のあるパーティーやギルドにインタビューをしたコラムでも、もう魔法使いを組み入れることはなくなったという言葉ばかりがあふれていた。
前衛職のみのパーティーでも、片手間に基礎中の基礎の魔法をいくつか覚えておきさえすれば、それで事足りると吹聴するギルドが後を絶たなかった。
事足りるわけないだろ馬鹿とロハノは内心思っていた。
それで冒険が成立するのはそもそも魔法があまり必要ないような場所にしか挑戦しようとしないためであり、彼が本当に難関であると知るいくつかの領域では、魔法と物理のどちらかが欠けていても必ず門前払いされてしまうはずだった。
にもかかわらず魔法が不必要であると論じるのは、半ば安全に帰還することが保証された冒険に安んずることをごまかす詭弁であるとしか彼には思えないのだった。
実際、記事を読む限り、彼らが根城としているのは既に先人たちが開拓しつくした場所ばかりだった。
二度と帰ってはこられないような場所、人跡未踏の難関に挑む者たちも、機関紙に載らないだけできっとどこかにいるはずだとロハノは思っていた。
現にひとつ知ってはいる。ただ、あのう、ちょっと、名前が……
とにかく、魔法を排除することが流行であるかのように語られている現状に焦りを感じた。
もう第一線で活躍しているわけではないから実情を知るわけではなかったが、そうした流行があるのだという事実が広まるだけで、ますます魔法の肩身が狭くなり、ならば自分たちもとよく考えもせずに魔法使いを減らすギルドが増えることにはちがいない。
冒険者たちはとかく流行にのせられやすいのだった。
それはロハノの現役時代からもそうで、一時、裸で冒険することこそが真の勇者への道のりだなどというばかげた通説が流布されたこともあった。
こんなもの真に受けるやつがあるのかと笑って仲間たちを見たところ、彼らは全員既に裸一貫と化しており、お前もそうするようにと強要してきたため、ロハノは袂を分かち、今日に至るのだった。
いや、もっとべつのことが原因だったかもしれない。
なにしろ日々の冒険では幻惑の魔法を駆使する相手や、精神に恒常的な影響を及ぼす物質を操る生物との戦いが茶飯事であったため、ロハノは自分の記憶にあまり自信が持てなくなっていたのだった。
それでも<首切りギリギリ団>という名前に猛反対したことだけは、午前中に経験した出来事であるかのようにはっきりと今もなお覚え続けているのだった。
ことん、と音がした。
その方を見てみると、今まではなかったはずの物体が、研究室の中に出現していた。
それは血のように真っ赤な物体で、なにかの儀式に用いられる忌まわしい祭具かと彼は思った。
現に、その物体の上部には、犠牲者の手を差し込むためとしか考えられない穴が開けられていた。
ロハノは身震いした。こうしたわけのわからないことは、たいていもっとわけのわからないことの起こる前触れなのだった。
この前クィクヒール中に猫が異常発生したときもそうだった。豚のときもそうだった。それらはこの世界にもありふれているものだけまだよかった。
これはわからない。見たこともない。きっとかつてないほどわけのわからないことが起こるにちがいなかった。
いやだなあとロハノは思う。
しかし予防のしようはなく、できることはせいぜい、いつそれが起こってもいいように、ちゃんと事前にトイレに行っておくということくらいしかないのだった。
由来不明の物体が突如出現する事態はロハノの研究室に限った出来事ではなく、その頃から大学のあちこちで始まったものだった。
誰かの頭の上に発生することもあり、おかげで学生も教職員も強制的に敏捷性が鍛え上げられたのだった。
神出鬼没なのは物体だけでなく学生もそうだった。なぜか学生の数がしょっちゅう増えたり減ったりしていたのだった。
こうしたことは以前もあり、そのときはミナラコが守るアーティファクトのひとつが盗まれかけ、大変な騒動にまで発展したのである。
今回もあちこちの種族やら大学やらギルドやらのスパイが紛れ込んでいるにちがいなかった。
しかしどの学生が本来の学生で、どの学生が紛れ込んだ学生であるのか、誰にも見破ることはできなかった。
ただ、ロハノだけは自信を持って自分の講義の学生のなかにスパイはいないと断言することができた。というのも、10人しかいないためである。
この10人の顔すらおぼつかなくなったときが潮時なのだ、とはロハノがメミョルポンやブルーノにたびたび漏らすことだった。
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