15:混沌の先触れ
ケイオス・エンジンがいかなる理由をもってこの世に生み出されたのか、そもそもどのような存在がこれを作り上げたのか、知る者は過去ひとりとしてなく、未来永劫にわたって現れることもなかった。
それが持つ力は極めて単純である。
ケイオス・エンジンを所有するものは何らの代償を払うことなく、自らが知る限りとありとあらゆる魔法を発動させることができるのだった。
これはいくらでも火球を生み出せるといった程度の力ではなかった。
それくらいならば低級のアーティファクトでも再現できる芸当だが、ケイオス・エンジンは比喩抜きに世界を意のままとすることができた。
少しでも魔術をかじったというものなれば誰もが知るはずの、高名な魔法が世界にはいくつか存在している。
<氷漬けの槍>、<打切>、<二度目の再誕>……しかし、だからといってこれらの魔法を実際に詠唱したものがいるわけではなかった。
そうと断言できる理由は簡単で、もし一度でもこれらかこれらに類するクラスの魔法が唱えられていたならば、こんな世界など、とっくに滅んでしまっていたはずだからである。
そもそも、唱えようと思って唱えられるものでもなかった。
万物を呪い、呪詛に満ちた生涯を送りながらも、才能ばかりは絶世であると自他ともに認めていたある大魔道士は、全生物を原初の姿へ退化させてしまう禁術<西への旅路>を発動させるために死ぬまで狂気じみた努力を続けたが、その願いがついに果たされなかったであろうことは、今日もヒトがヒトとしてあることから自明である。
単により多くの魔力を扱えればいいというものではなかった。
より強大な威力を持ち、世界に与える影響が甚大な魔法であればあるほど、とうてい誰にも払い得ないような代償を貪欲にも術者へ要求するのだった。
命。
これは論外だった。
掃いて捨てるほど世に湧いた凡百の生物の生命程度、千を差し出そうと万を差し出そうと、なにも払っていないのと同じに過ぎないのだ。
代償として要求されるものの質・量はともに「骨折り損」とでも言うべき逸脱ぶりで、世界を滅ぼす魔法を唱えるために世界を滅ぼすことを要求するようなものばかりだった。
だからこそ世界は今日まで何だかんだ持ちこたえていたのであり、たまに狂った魔道士が大陸をふっ飛ばしてしまうことはあっても、何十年かすれば何事もなかったかのように新たな国が建つのだった。
しかしケイオス・エンジンはその安寧の息の根を止めるものだった。
たとえそれがどんなに破壊的な魔法であろうとも、一切の発動条件を無視してしまうのだ。
これが力ある魔術師の手に渡ることの恐ろしさとその後の世界を待ち受ける凄惨さとは、生まれたての子供にすら想像のつくことである。
あれあれあれあれあれとロハノが痴呆のように繰り返していたあれとは、これのことだった。
現在のところ、それはクィクヒール大学の地下奥深く、不眠の体質を持つことからたまたま迷い込んできたところを監視者に任命された月うさぎによって守られた扉のその先に、他のとんでもない力を持つアーティファクトに交じって鎮座しているとされていた。
この事実を知るのは一握りの人物のみで、副学長やデーデンスクを含む大学の上層部とミナラコの他に、一般の教職員の中ではただひとり、ロハノだけだった。
そのロハノは今大学の地下四階にある禁じられた扉の前に立っていた。
禁じられた扉と言ってもこの大学には「禁じられた」という言葉を冠する出入り口が二十箇所は存在していたが、彼の目の前にあるのはそのなかでもとくに「禁じられた」とされている空間への入り口を塞ぐものだった。
ロハノは着任当初、突発的な生理現象の喚起によりまだ入ってから三分しか経過していない古城をはばかりを求めて駆けずり回ったあげく、なぜか地下階に迷い込んでしまい、たまたま見つけたこの扉をその入口だと勘違いしてしまった。
一応、厳重に霊的な手段によって守護されてはいたのだが、ロハノ、特にそうした緊急時に置かれたロハノのような魔術師に対しては折り紙でつくったのと同然の役にしか立たず、あえなく禁断への入り口は開かれてしまうのだった。
なにが禁断かと言えば、世界に腐敗と逃れ得ない終焉を撒き散らす死霊がそこに封じ込められていたから禁断だったのだが、ロハノはこれを解き放ちざま、この世が三回始まって終わるほどの時間が経とうが二度と帰れはしない黄泉のはるかな向こう側へと、片手で放った魔法によって追放してしまったのだった。
結局別の場所に安息の地を見出した彼だったが、落ち着いてよく考えてみると、どう見ても先ほどの場所がヤバげであったことに思い至り、恐るおそるまた見に行くと(犯人は現場に戻るものである)、扉には思いっきり「立入厳禁」と古の民の言語で記されていたため、ひゃあと悲鳴を上げ慌てて以前のものより三倍は強い再封印を施したのだった。
今のところその所業は明るみに出ず、彼はそれをいいことに、たまに訪れては講義に必要な素材を調達するのに利用していた。
長年放置されていたため、死霊の邪気や妖気によって形を得た魔物たちは主がこの世ならざる地へ追放されてなお健在であり、それらから得られるものは魔術師にとって有用なものばかりであるのだった。
ロハノは予算の少なさにより、ほとんどの材料を買わずに済ませることにしていた。たいていの素材は商店や行商人から購入すると高くついた。
中には極めてあくどい商人もいて、彼らは世界にありふれているどの洞窟に行ったって採取できるような鉱石さえも、いかにも入手に苦労するものであるふうを装って、品物の産出地に明るくない客から法外な大金をせしめるのだった。
幸い、ロハノと付き合いのある商人のなかにそうしたものはひとりもいなかったが、彼が欲しがるようなものはたいていどこでも高値で取引されるようなものばかりだった。
数が少ないくせ、多くの使い道がある素材はいつでも高い値段を保っていたが、ロハノのお目当てはそれに希少性が加わり、さらに高騰しがちだった。
ただ一回悪魔を呼び出すのに使えば砕けてしまう<サモン・コイン>という金貨一枚についた値段を見ると、つくづく自分の職業の非経済的な側面を恨まずにはいられないのだった。
それでも手軽に(世のほとんどの冒険者にとってはぜんぜん手軽でなくむしろ命がけであることは言うまでもない)必要な物質を調達できる場所を見つけたことで、ロハノは自分を幸運に感じていた。
幸運というのはたいてい星座や三歳までに見かけた神聖なもの(ユニコーン、ペガサス、クローバー、天使など)の数によって決定されてしまい、いかなる経験を積んでもそこで頭打ちになってしまうものであるが、何より重要なのはとにかく試行の回数を増やすことであるとは幸運研究の権威であるギルド<見放された者たち>のメンバー一同が満場一致で同意するところである。
技術によってもだいぶカバーすることができた。
今ロハノが暗闇の迷宮を駆けずりまわって探しているなめくじじみた魔物<暗黒滑り>はごくまれに、極めて魔力吸収率の高い<デラ水晶>を死亡時に溶け出す体の中から拾えることがあるが、千匹倒してひとつ落とすか落とさないかという程度の確率であり、どこの市場のオークションでも目玉が飛び出て世界旅行へ旅立つほどの値段で競られていた。
しかし特定の部位を狙って一瞬で蒸発させるような高熱で攻撃することによって、<暗黒滑り>がそれを遺す確率を飛躍的に高めることができるのだった。
この裏技はさんざん彼がひいきにした商人からお得意さま限定の情報ということでこっそり伝授されたものであり、彼はこの秘密を墓場まで持っていくことを光の神々の祭壇の前で誓わされたのだった。
<デラ水晶>は教室での事故防止のために役立った。
壁際に並べておけば、たとえ学生が対象の指定を誤って魔法を発動させたとしても、それが別館の壁をぶち破ってしまうという恐れを排除することができた。
ある程度のマナを吸収しつくすとこれは割れてしまうため、そのたび新しいものを入手する必要があるのだった。
<暗黒滑り>はこれ自体もかなり希少な魔物で、魔界以外の場所でお目にかかれるのはきわめて珍しいことだった。
地上で魔界ほどにも瘴気が濃厚な場所はほとんどなく、それだけロハノが追放した死霊が脅威であったことを意味するのかもしれなかった。
死してなお凶悪な名残を留めているのだ。
とはいえ、ロハノがそれを追放した当時考えていたことはただひとつ、この部屋はどうやらトイレではないらしい、ということのみなのだった。
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