10:不在への訪問

 出欠をとるといつもの通り9人がいた。何度数えてもその数は変わらなかった。これはおかしかった。


なぜなら名簿には10人が「総合魔術論」を履修していると記載されていたからだ。


 大学ともなれば、教授がいちいち学生ひとりひとりの動向に注意を払うということは通常なかった。


出席しようがしまいが自己責任なのであり、その結果単位を落とされたとフランベルジュを担いで押しかけられても返り討ちにするのみなのだ。


 ただ、ロハノにとっては些細な問題であるとは言えなかった。なにせそもそも10人しか学生がいないのである。


10人という数は極めて少ない。絶滅危惧種の<水銀のウーズ>の現存数よりも少ない。


 そのうえ学期が始まってからずっとひとりが欠席しているのだ。別館の教室にはだから9人しかいない。一桁。


即刻講義が打ち切られてもおかしくない僅少さだった。


 欠席している一人というのはそのため重大な鍵を握っていた。一桁か二桁かの境界を司っているのだ。


誰か他の教授に「おたくの講義の履修生はどんくらいのもんですか」と訊ねられた時、「……一桁です」と答えるのと、「あははははは。二桁ですよ。あはははは」と答えるのとでは大いに違うのだった。


少なくともロハノはそう考えていた。


 その日の講義が終了する間際、ロハノは全員に訊ねた。9人しか聴講生がいないためにできた離れ業である。


百人を超えるのがざらな城の大教室での講義ならばこうはいかない。とはいえ彼も流石にこれが自慢になるとは思っていないのだった。


「あのさ。講義が始まってしばらく経つわけだけれど、いまだにお目もじ叶わないひとがいるんだよね。ルーンダイトっていう名前の人なんだけど。誰か消息を知るものはおりませんか」


 全員が首を振った。学生の多様さはつまり出身地の広汎さに起因するわけだから、あまりロハノも期待してはいなかった。礼を言ってロハノは学務課へ向かった。


「学生がひとり来ません」ロハノは窓口に首を突っ込んで言った。すると上から処刑に使うような分厚い刃が落下してきた。


「ぎゃっ」間一髪で回避するも、何十本かの頭髪が処刑の憂き目を見、ただでさえ完璧とは言い難いロハノの髪型はいっそう凄惨な様相を呈すようになった。


「首を突っ込むな、とそこに張り紙してあるでしょうが」うんざりしたような態度で職員が窓口の向こう側に姿を表した。


「あなた毎回斬首されかかってるのにまだ繰り返すんですか」


「わたしの忘却曲線はヴェーアザイフェンより急なカーブを描いているので」ロハノは気にせず言った。


「ルーンダイトっていう学生が行方知れずなんですけれども、なにか連絡はありますまいか?」


 学務課は学内のありとあらゆる問題を処理するために設けられていた。ということはつまりクィクヒールで最も多忙な組織である。


 まだ人格形成も完了していない多種多様多種族の学生と、信じられないほどどうでもよいことにいちいちこだわり苦情を申し立てる教員とが大学構成員の過半数を占めているのだから、それも当然だった。


 学生のペットの五色カメレオンがまつろいの日々からの逃亡を企てたり、ドワーフとエルフの学生がすったもんだの挙げ句校庭で乱闘をおっ始めたり、割り当てられた教室が風水的に気に食わないと教授が文句をつけたり、悪徳ギルドにアルバイト代をちょろまかされた上卒業後は強制的に加入させられることになったと泣きつくものがいたり、無二の親友であったはずの二人が貴重な報酬の分配を巡って不倶戴天の仇同士と化したのを調停したりと、学務課にとっては毎日が過労死寸前のサバイバルだった。


 精神を病んで突然笑い出し、窓口に首を突っ込んで自ら進んで首を切られようとするものもいた。


 今ロハノが職員と話している間にもあははははははははというヒステリックな笑い声とともに


「ごめんなさい。故郷がタコに呑まれました。わたしは今から予言者をだしにして濃厚なシチューを街頭で配布します」


 などとまくし立てながら机をひっくり返してトーチカを建造し始めるものもいた。


「ま。どうでもいいけど。どう。連絡はあるのですか」


「はい」職員は側に山積みにされている紙束から一枚を引っ張り出し、バランスを崩され雪崩となったそれに呑み込まれながらも告げた。


「その学生は死にました」


「へえ。そうなんだ」ロハノはしばらく間を置いた。


「けっこう衝撃的」


「学生が来ませんいつ来るんですか新学期始まりましたよどうしたのですかどうしたんですかどうするのですか、というお手紙を故郷の村に出したところ、そのような返事があったのです」


 職員はいまだに雪崩の中で前途を見失っていた。


「ま。こういうこともありますよ」


 こういうこともありますなとロハノが同調することはできなかった。10人目。一桁から二桁への偉大なる飛躍を遂げるためにその学生の出席は絶対に必要だった。


 それにせっかく合格したうえ目玉が飛び出て行方不明になるようなバカ高い入学金教材費授業料設備費光熱費をふんだくられたのにクィクヒール大学へ一歩も踏み入れることなくその代わり黄泉へ下るはめになったその学生の身になってみると、これはなかなか無念であることが想像にかたくなかった。


「その故郷の村っての、この世のどこにあるの」


 ロハノは光を求めてようやく紙山から飛び出した職員の手をつかんで引っ張り上げながら訊ねた。


 長距離を移動するための手段は色々とあった。普通の旅人や冒険者がとれるものとしては徒歩、馬、乗合馬車、定期船など。


 徒歩は特別なつてや先立つものが必要ないのが最大の利点ではあるが、当然ながら野盗や魔物など、道中の心配事がいくらでもあった。


 馬は買うにしても借りるにしてもなかなか高価ではあるが、徒歩よりはずっと早いし、様々な危険からも逃走できる可能性がぐっと高まった。


 しかしいざという時冷酷になって馬を捨てられるかどうかというと捨てられないものがほとんどであり、結果として命取りになるという場合も少なくないのだった。


 乗合馬車も人気の移動手段だった。用心棒がつくことがほとんどであるため、戦闘に自信のない職業の冒険者や一般人にも比較的安心して利用することができた。


 しかし騙されて本来の目的地ではなく奴隷窟に連れて行かれそのまま売られてしまったり、三半規管が爆裂するほどすさまじく乗り心地が悪かったりと、これも完全に安全な方法ではなかった。


 海路を行く場合には定期船があった。乗船券はかなりコストがかかるし、日にもよるが、乗り心地は上々だった。海から大陸を眺めることはいつだって乗船客の目を楽しませた。


 が、海に出没する魔物は陸のそれが懐かしく感じられるほど強く、厄介であった。どれほど腕の立つ用心棒が乗り合わせていても安心はできなかった。


 一方ロハノは普通でなかったため、通常の手段に加えて異常な徒歩、異常な馬、異常な馬車、異常な船があった。


 これらの何が異常かと言ったら、速度も見た目も、すべてが異常であった。あんまり異常すぎるため彼自身あまりやりたがらないほどだった。


 その他には箒、空飛ぶじゅうたん、悪魔、獣、竜、死ぬほど疲れる瞬間移動などもあった。


 死ぬほど疲れる瞬間移動は文字通り死ぬほど疲れるため、死ぬほど疲れても構わないという場合にしかやらないし、彼にとって死ぬほど疲れても構わないという場合は、つまりやらなきゃ死ぬというほどの緊急事態であり、そのような事態が訪れることはめったになかったため、彼が習得時に一回だけこれを試し、地獄の苦しみを味わってからは二度と扱うことはなかったし、それは彼が実際に死ぬまで守られたのだった。


 じゅうたんで空を飛ぶのもよかったが、飛行許可を得るまでの道のりは地獄へのそれよりも厳しく、運が悪ければ季節が変わってしまうまで待たされる人間もいた。


 そのため使うとなれば無許可で飛ぶことになるが、見つかれば即投獄であるため、浮浪者の魔道士が冬を越す宿を得るための場合くらいにしかこの緊急手段が用いられることはなかった。


 残るは箒であるが、これはこれでロハノは敬遠していた。


 というのもあまりにも魔法使いらしい移動手段であり、あんなものにまたがって空を飛んでいてはわたしは魔法使いですよと喧伝してまわっているようなものであるからだった。


 いくら便利とはいえ時代遅れの産物もいいところで、ロハノが最近見かけた限り、200歳以上の超超後期高齢魔道士しか愛用者はいないようだった。


 かくしてまともなあらゆる移動手段には何かしらの欠点があることがわかり、生物が長距離を移動することの困難性を彼は痛感せずにはいられないのだった。


 とはいえ、行かずばなるまい。ロハノは自分の研究室に戻ると棚を引っ掻き回し、ほこりを被った魔導書を深奥から引っ張り出した。


 目次の文字は最悪なことにすべてかすれて読めなくなっていたため、目当てのページを探り当てるのには午前いっぱいを費やさなければならなかった。


 やっと見つけ出したものを呼び出すため、長らく使っていなかった石灰の粉を研究室の床に規則正しく撒き散らし、腐った供物を法則に従って置き、その陣の中心に立ってごにょごにょと呪文を唱えた。


「イェイ。久しぶりー。あなた元気してた?」すさまじいキンキン声のハーピーが次の瞬間にはロハノを見下ろしていた。


「もちろん。ウルトラ元気」ロハノは耳栓を忘れたことを今さらながら悔やんだが、まだ契約が健在であったことは喜ばしかった。


「あのさ。ちょっと頼みがあるんだけど……」

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