9:秘密の見張り番
「どうしたんですかその目は」ロハノの助手であるリーシュアは目を丸くした。研究室に現れたロハノの目は病気を疑うほど充血しており、その下には克明なくまがあった。
「ちょっとね。同時接続数がかつてない大規模の授業イベントがゲリラ的に勃発し」
「はあ?」
ロハノは昨夜の出来事を話して聞かせた。不眠のために途中で同じ話がループされていることにリーシュアが気づくたび熱い茶を飲まされ、語り終える頃には口の中に火傷のない場所はひとつもなかった。
「それじゃ、またボスは間一髪で断頭台をぬけぬけと逃げおおせたってことですね」
「さっき副学長に会ったけれど、昨日のことは何も覚えていないようだった」ロハノは夢遊病者のように廊下を歩くル・ゲの姿を思い出した。
「極度のショックで記憶障害を起こしたのでしょ。ついでにわたしをクビにするっていう計画も忘れてほしいもんだけど」
「おうロハノ、今日も半分腐りかけの死体みたいに背骨が曲がっておるな」
メミョルポンがこれで気を利かせているつもりらしいいつもの挨拶を言って前方からやって来た。すぐその眼は丸くなる。
「なんじゃその眼は。とうとう違法ポーションに手を出したか」
「違いますちがいます。これはですね……」
ロハノはリーシュアにしたのと同じ説明を繰り返した。中盤に差し掛かったところで彼は背後から斬りつけられた。
「ハーイ。ロハノ教授。ちっ。また躱されたか。ちくしょう。いやしかしなんですかその背骨は。わたしを見習ってもっと真っ直ぐ地平に対し垂直に……おやっ?」
ブルーノは目を丸くした。したように見えた。空っぽの眼窩であるに関わらず見る人にそう思わせたのはふしぎだった。
「なんですかその眼は」
「他の人に訊いてくれ」ロハノはうんざりしながら別館への道を辿った。途中でつまずいて転んだ。不眠のためではなく、慢性的な運動不足が原因であることが明らかだった。
講義が終了したのち、別館を出たロハノはまわりを見まわした。学生や教職員があちこちに群れていたり孤立していたりするが、彼に注意を向けている者はひとりもいないようだった。
校庭のほうからは、またわけのわからない歌詞の歌唱を泣く泣く練習させられている歌唱隊と、それを指導するppppp教授の声が聞こえてきた。
「☆=$!!?!##-=|^&~▼~||\\○×≠~♪……先生。意味不明です」歌唱隊のひとりが泣き言を言う。
「今にわかります」
ppppp教授の返事はつれなかった。ロハノは彼女が苦手だった。なぜか自分が目をつけられている気がして、その証拠には、大学のなかで出くわすたびぎょっとさせるような目でこちらを見てくるからだった。
一度もまともに話をしたことはなかった。初めてこの大学に来て、着任の挨拶をしに言った際も、
「あのう。ロハノと言います。見た目は妙ちきりんに見えるかもしれませんが、中身も妙ちきりんです。どうぞ、命ばかりはお助け、じゃなかった、ええと、ふつつかですが、どうぞよろしくおねがいします」
「…………………………………………………………………………………ふうん」
これだけだった。
ロハノはシーフやニンジャというわけではないが、それでもできるだけ足音と気配を消せるよう努力しつつ、こっそりと古城の裏手へとまわった。その辺りは古城の影の下であり、冬の雪もまだ溶けず残っていた。
ちょっと想定外。しかしロハノはあわてず、記憶を辿り、間違いないと思われる場所を見つけ出した。雪に覆われてはいるが、魔法使いがこのくらいのことで動揺するわけはなかった。
<雪解けの手触り>という魔法には任意の腕を炎に包み込む効果があった。たいていは右手か左手の一方のみを指定するのが普通だった。
この魔法を習得したての魔道士は両方の手を同時に燃やしたがるものだが、一切のものに触れられず、当然食事や睡眠や排泄といった必要不可欠な行為すらままならなくなるため、たいていはひどく後悔することになるのがおちだった。
雪はだいたい古城の五階分ほどにも積もっており、下手な溶かし方をしたならば自分自身がその下に埋もれてしまいかねなかったが、ロハノがそのようなへまをしでかすことはなかった。
慎重に雪を溶かし終えると、川のような雪解け水の流れのなかに、真四角の薄いタイルのような石の重しが見つかった。
これはさすがに露骨すぎるとロハノは当初思っていたが、あまりにも露骨であるため、むしろ玄人の賊ほど罠だと警戒し手を出さないかもしれないと思えるようになった。
もちろん蓋にする石をこれにしようと決定した人物たちは、ただ自分たちがわかりやすいからという理由で選択したに過ぎなかったろうが。
その石をどける前、もう一度あたりを見まわし、不可視の<探知の投網>で一帯を秘密裏に走査してみて、やはりいかなる不審人物も不在だと確認できたため、やっと彼は今日一番のスタミナ消費を犠牲に石をずらし、地下へと続く通路へと入り込んだのだった。
暗くせまく寒く不気味な穴はどこまでも続くように思われたが、実際はそうではないとロハノは既に知っているため、昨日の古城探検よりはずっと気楽な気持ちで進んでいく。
はてには誰かがいた。
「あっ。ロハノさん!」
人影は嬉しそうにぴょんぴょん飛び跳ね、ただでさえ薄い地下の酸素をさらに乱費するような呼吸で走り寄ってきた。
「どう。変わりはないかい」
ロハノは手土産のりんごにんじんを五十本どこからともなく出現させてそれを手渡した。
「柄でもない山地散策で入手した賜物ですよ。味わってくださいましね」
「わあ。わあ。やったあ」
彼女はまた飛び跳ねた。衝撃で天井がそろそろ落盤するんじゃないかとロハノが心配するほどのはしゃぎようだった。
「月じゃなかなか手に入らないんですよ。あそこは銀の砂漠だらけですからね。宝石ばかりはごろごろ転がっていても、食べ物がないんじゃね。やっぱりこっちに来てよかったですよ」
彼女はうさぎだった。月から来たうさぎだった。うさぎである彼女はクィクヒールの地下にいて、下手に扱えば世界すら滅ぼしかねないアーティファクトの数々を見張っていた。
「その様子じゃ問題はないようで。なにより」
ロハノはため息をついた。どうやら自分の思い過ごしであるらしかった。ま。流石にあの人と言えど、自分の分はちゃんとわきまえてるってことでしょう。
「しゃくしゃく……ええ……しゃくしゃく……なにも……しゃくしゃく……ごくん……異常なし」
<底なし胃袋の大ガエル>ですら意気阻喪させてしまうにちがいないような速度で、彼女はりんごにんじんを次々と平らげていった。次は百本必要そうだとロハノは気が重くなった。
りんごにんじんは、説明するまでもないが、りんごとにんじんがなにかの拍子でたまたま結婚し、その結果自生するようになった野菜果物の一種である。
りんごかにんじんのどちらかが好きな人はたいていその一方も好きであるため、この種の合成植物、また合成動物とでも言うべきグループの需要は高かったが、今のところ栽培・飼育に成功した農家も酪農家も少なかった。
ぶどうもろこし、梨なす、ライオンイネ、牛鶏肉、オハウチカラスムギなど、この手のものが世界には数限りなく存在していた。
りんごにんじんはりんごとにんじんのどちらもが満足に生育できそうな場所にあるが、これがなかなか見つからず、ロハノの春休みはほとんどこれを探すために費やされたのだった。
貴重な植物であるため需要は高く、五十本まとめて売却したのなら、一年は遊んで暮らせるくらいの値がつくはずだった。
しかしだからといって、ロハノはこのうさぎ――紹介が遅れたが名前はミナラコ――の楽しみをたかだか一過性のうたかたに過ぎない通貨に変えてしまうわけにはいかないのだった。
「ま。問題がないんならいいんです。じゃね、ミナラコちゃん」ロハノは手を振って来た道を帰っていった。ミナラコも手を振った。「ロハノさーん。また頼みますねー」
いやあひと安心ひとあんしん。ロハノの気分はうきうきだった。杞憂に終わったことが何よりも喜ばしいのだった。りんごにんじんは渡せたし、胃痛の種もなくなったし、本当に来てよかった。異常なしと聞かされたことがとても嬉しかった。
なにせあのミナラコは今までに十数回、ぜーったいに失くしてはいけないダメです絶対だめこれ失くしたら大陸が滅ぶほろびますあなたもわたしも死ぬのしぬのしぬのっ。と言い聞かせたアーティファクトを紛失していたのだから。ロハノの胃穿孔の半分は彼女が原因であると言っても過言ではなかった。
それでも今まではなんとかなったが、今彼が心配しているあれ、あればっかりはもし良からぬ誰かの手に渡ったが最後、この世界の結末はディストピアかアポカリプスかハルマゲドンのどれかでしかありえないのだった。
とはいえ、異常なし。よかったよかった。
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