8:半透明の学徒たち
ごろりと寝返りをうてばそこは礼拝堂の大シャンデリアの上。だからロハノは落下した。しかし夢うつつで唱えた軟着陸の魔法<柔らかな接地>が大理石の床への人身の衝突とそれに伴う四肢の散乱を予防した。
「わーっ。すごーいすごーい」
その声で目覚めたロハノが見ると、先ほどの少女の霊が今しがた彼がそこから落ちたシャンデリアのあたりに浮遊し、無音の拍手を送っていた。
「このまえの人はねえ、頭におっきなたんこぶを作っちゃったんだよ」
「たんこぶで済んだだけましでしょう」
二度目のご対面ともあればさすがにロハノの恐怖感も薄らいでいた。免疫のシステムは精神にも備え付けである。
「君ね、幽霊だからって訴訟されないと思っているなら大間違いですよ。住人の半分が幽霊の国【デッダスラ】ではしょっちゅう生者が死者を訴えたり死者が生者を訴えたり死者が死者を訴えたりしてるんだぞ」
「でもここはその国じゃないでしょ」
「言うに及ばず」ロハノはうなずいた。「ところで、あなたのご友人たちは?」
「気絶しちゃったあなたをここへ運ぶのを手伝ってくれたあと、あちこちに遊びに行っちゃった。呼べば来るけど」霊はロハノの近くまで滑るように降りてきた。
「いや。いや。それには及びませんけどね。でも。ううん。遊ぶ。それはちょっと都合が悪いな」彼は困ったように頭をかいた。
「それってつまり大学の備品をいじくりまわすってことでしょ。わたしが派遣されましたのも元はといえばかような乱暴狼藉を根絶するためなのですよ」
「えーっ。いいじゃないそれくらい……」
不満げに霊は礼拝堂中を飛びまわった。一応、ここは学長でもあり副学長の実の父親でもある神格へ捧げるために建てられたものだったが、肝心の本人が長期不在中であるため、ロハノはここが歌唱隊が練習する以外に使われたところをついぞ見たことがなかった。
亡霊である彼女のなんとなく生者の心を波立たせる声がよく響くところを聞くに、確かに音響は素晴らしいものがあるようだったが。
「よくない。ぜんぜんよくない。明日までに皆さんが備品へのいたずらをやめて大人しくしてくれないと、わたし、皆さんを追い出してしまわなければなりません」
ロハノは脅すような顔をしてみようと試みたが、慣れないことであり、腹痛で苦しんでいる人と対して変わらないような表情にしかならなかった。
「追い出す? へえ……」霊はからかうように笑った。
「毎年そんなこと怒鳴り散らしながらあの人はうろつきまわるけれどさ、ぜんぜんダメ。ちょっとおどかすだけで逃げていくんだよ」
教職員や学生に対しては神のごとき権能をふるうあのル・ゲが幽霊の大群に追われ泣きわめく様をロハノは想像してみた。
それはなかなか愉快な光景で、深夜の古城のゴーストハントというこの状況下にあってなお、彼の笑いを誘発した。
「ははあ。あの人わたしをクビにするとかなんとか言って、結局幽霊が苦手だったのですね」ロハノは晴れ晴れとして言った。しかしすぐ曇天へ。
「でもどちらにせよ、言われたことができなきゃわたしはクビです」
「クビになるのが嫌なの?」霊はふしぎそうだった。
「わたし、昼間は地下でおとなしくしているけれどね、あんたみたいな先生の声がよく聞こえてくるよ。みんなやめたいんだって言うの」
「どうせやめませんし、いざやめさせられるとなると度を失って失禁するに決まってます」ロハノは首を振った。
「今は大変な就職難でありましてね、まだ他の教授よりは若いかもしれないこのわたしと言えど、別の働き口を見つけるというのは、これはもう、考えただけで夜眠れなくなるほどの不安に苛まれ」
「冒険者になればいいじゃないの。学生さんはみんなそれを目指してるみたいだよ」」幽霊は明るく言った。幽霊がこんなに明るい声を出せると彼は知らなかった。
「わたしもなりたかったなあ……」
その少女はピヌルイラと言った。生前はこの古城の近くにある、現在はとっくに廃村と化した小さな村に家族でつましく暮らしていた。
穏やかで平和な日々であったが、世界の広さを立ち寄る行商人や冒険者の言葉を通して知るにつれ、毎日が彼女には退屈で、嫌でいやで仕方のないものとなっていった。
「だから村を出たんだけど……ぷいっとね」ピヌルイラは笑ったが、打って変わり、それはいかにも幽霊がやりそうだと思われる、寂しそうな笑い方だった
「つかまっちゃったの。えへへへへへ」
ロハノは彼女の首筋にあるふたつの黒い点を見た。それは幽体と化してなお残る、彼女に致命傷を与えたひと噛みの名残の古傷であるにちがいなかった。
さして古城の元の持ち主に興味をかき立てられることもなかったはロハノではあったが、この時初めて、もうちょっとそのけしからん幼女趣味の吸血鬼について調べてみようかなと思うのだった。
「ま。それはそれとしてですね」ロハノは簡潔に要求する点を述べた。
「とにかく、いたずらはやめてほしいのです。あの副学長を驚かしたのは立派ですけれどね、備品が動かされたりなくなったりしたときに駆り出されるのは罪もない用務員の方々なのですよ。これ以上あの人達が生きながらにして半分死んだような顔で燭台ひとつ探すために床を這いまわされているのを見るのは、さして人格者との誉れ高くないわたしといえど、気持ちのいいもんじゃないのでね」
「だからあ、そんなことできるのお?」
馬鹿にしたように、わざと間延びしたピヌルイラの声はかわいらしかったが、ロハノはぶんぶんと首を振ってそれを追い出した。
「できないとお思いで?」
「うん。無理。ええっと……」彼女はしばらく上を見てのち、
「ま。ざっと百人はいるんだもの。わたしたち。しかもさっき言った通り、城中に散らばっちゃった。このお城ってすっごく広いよねえ? で、あなたけっこう長く気絶してたのだし……そろそろ朝が来ちゃうんじゃないかなあ? もう明日になっちゃうんじゃないかなあ? ねえ、間に合うと思う? 思いますか? 思われますか? 思うのでしょうか?」
「わたしは本職じゃないのでね、どうも荒っぽいやり方しか知らない」ロハノの声も、もう幽霊の少女にからかわれる情けない人のそれではなくなっていた。
「それでも、皆さんを強制退去、もといこの世から永久にお引取り願うのには十分足ります」
ピヌルイラははっとして息を呑んだようだった。彼女は初めて、自分の目の前にいるのがあの逃げまわるだけのいつもの人物と同類ではなく、初めて目にする、なにか底知れない力を秘めているらしい魔術師であることに気づいたのだった。
「やめてくれない。それ」手遅れとは知りながらも、彼女はそう言わずにはおれなかった。「頼むから、ね、お願い……」
ロハノはぼそりと何かをつぶやいた。詠唱が完了したとたんに光線は礼拝堂の高い天井を貫き、夜天にまで届き、月まで暗号を伝えた。それは今すぐ空から去り、代わりに太陽を呼んでほしいというものだった。
礼拝堂の壮麗なステンドグラスから射し込む白い光は、もはや死せるものを慰撫する月光などではなかった。生者のためだけの、昼を歩くもののみに許された、生ける太陽の熱光線に他ならなかった。
ピヌルイラは自分の体が、手違いで真夏に降りしきった雪のように、なんら抵抗なく止める手立てなく、あたかも自然に溶け出していくように感じられた。観念して目を閉じた。
しかし、ロハノはここできっぱり<せっかち屋の夜明け>の魔法を打ち止めた。たちまち月が空に復帰し、太陽は早すぎた出番を終えた。光も元通り、優しげな色を取り戻していた。ロハノが口を開く。
「だけどわたし、できればこれ、やりたくないんですよね。疲れるの。べらぼうに疲れるの。たぶん筋肉痛、頭痛、吐き気、悪寒、疼痛、腰痛、歯痛、骨痛、胃痛、その他もろもろに見舞われることでしょう。いやあ、歳は取りたくないもんで」
ロハノの声は穏やかだった。ピヌルイラは黙って聞いていた。
「それにほら、朝が来るのを数時間早めるって言うのは、これけっこう影響が大きいんですよね。ありとあらゆる生物に迷惑がかかります。というか、あっ、そうだ、これ確か法律で禁じられていたような……」
ロハノはそこでやっと、時間の操作はよっぽどのことが無い限り個人で行ってはならず、破ればまず間違いなく処刑されるという鉄の掟を思い出した。
「……まずい」
くすくすと笑う声が聞こえた。ピヌルイラのものだった。「ねえ、それ、バレたらまずいんでしょ?」
「大変よくない。本当にクビにされます」
「だったらさ、わたしたちが出ていって、こういうことがありましたよって、人に言いふらすのもよくないよねえ?」
「それは憂慮すべき懸念材料であります」
「だったら、ね。黙っててあげるからさ、その代わり、わたしたちのこともそっとしておくってのはどうでありましょ?」
「採用。その方向で行きましょう」ロハノは息をついて言った。
「あっ。それにわたし、いいことを思いつきましたよ。みなさんが退屈しなくても済むような。備品なんかいじらなくともいいくらい楽しいものを」
そう言ってから、間を置いて注意深く付け足した。
「……まあ、個人差によるでしょうけれど」
「総合魔術論」の講義には別館の三階にある僻地のような教室が割り当てられていた。夏は暑く、冬は寒く、春と秋には虫が湧いた。これについては昆虫系の魔物も大の苦手なロハノがしゃかりきで調合した防虫剤により事なきを得ていた。
大学の講義のほとんどは古城のなかで行われていたため、そこからかなり離れた場所で開講されることは学生を集める上で極めて不利だった。
今は亡き、あまりの不人気のために教授ごと存在を抹消された講義――「魔物の調理法」「不動産としてのカタコンベ」「敵として対峙した時には脅威と感じられた魔物をいざ勧誘して仲間にするとなぜか弱く感じられた際の対処法について」……etc――のほとんども、この忘却の彼方とも言うべき別館で開講されていたのだった。
教室の広さだけは城のそれにも負けないほど十分に広かったが、彼が現在昼に教えている9人の学生だけでは、とうていその空間を埋め尽くすことは叶わないのだった。
しかし、今はちがっていた。教壇に立つロハノは、満席になった教室全体を信じがたく見渡していた。
少々他の講義とちがうところと言えば、時間帯がトレントも眠り亡者もうたた寝する真夜中であり、聴講生が全員半透明であることくらいだったが、彼にとってはそこまで重大な差異であるとは感じられないのだった。
「わあい。一度、学校の授業っての聞いてみたかったんだよねー!」
「あはは。足がないのに座るってヘンなのお」
「ねえねえ。なんかさっきずいぶん早く朝が来た気がしたんだけど」
「え。気のせいじゃない? あんなに月が高いのに」
「そうそう。ぼくも気が遠くなった気がしたけど、たぶん気のせいきのせい」
「ねっ。これって何の授業なの?」
「なんか魔法についての授業だってさ」
「大学の授業だってー! ……わたしなんも試験もしてないのに、聞いてもいいの?」
「わたしは試験の有無よりか、授業料のほうを重視してましてね。高いですよ」ロハノの目が光った。たまに彼の目はこうして発光するのだった。
「ひとつ約束してもらいます……原則として備品を動かさないこと」
悲しそうなため息が教室のあちこちから聞こえてきた。
「……まあ……うん……万が一……たまたま……不幸にも……やむにやまれず……動いてしまったとしても、寸分違わず元の場所に戻すこと」
生者かと勘違いするほど明るい声が教室に響いた。
「うん。ま。そうね。初回授業料としては、まあ、だいたいこんなもん。幽霊相手の商売の相場ってのはよく知らないけどね」
ここでロハノは大声を張り上げた。
「では……」
「ちょっと待って!」最前列にいたピヌルイラがしっと言った。「足音が聞こえたよ」
「君たちのお仲間?」ロハノが一応訊いてみた。
「いや」ピヌルイラは首を振る。「知り合いに足がついているのは一人もありません」
足音は次第しだいに近づいてくる。ロハノが自分はどうするべきか、手を上げるべきか下げるべきか体の横にくっつけておくべきかポケットに突っ込んでおくべきかを考えあぐねているその間にも音は大きくなり、ついに教室後方の扉の前で止まった。
止まったということはつまりもう歩いていないというわけで、次にやることと言えば、どう考えても扉を開けることしかなかった。
誰も動かなかった。ロハノも幽霊たちも、その視線が金縛りと同様の効果を持つバジリスクの赤子に睨まれたかのように釘付けにされていた。扉が開く。
開けたのは副学長だった。彼はずんぐりとした首をゆっくりとまわし、教室のなかにいるものを見た。見たのだろう。なぜなら次の瞬間には凄まじい恐慌と悲愴が高純度で結晶したとんでもない大声の悲鳴を上げ、韋駄天もこれに追われては逃げられまいと思われるほどの高速度で逃亡したためである。
幽霊たちは爆発したように笑った。ロハノもくくくく笑ったが、なぜ副学長が真夜中の大学にいたのか、その理由が引っかかった。もしかしたらあの人には本当に深夜徘徊の癖があるのかもしれません。
「あははははははは。ね。ね。すごいでしょ。あの怖がりよう」ピヌルイラは笑いすぎ、首の傷跡から半透明の血が噴出していた。「毎年ああなんだからね」
ル・ゲが体を張って提供した笑いも、さして賞味期限の長いようなものではなかったようで、数十秒も経ったころには、幽霊たちはこの教室まで来た本来の目的に再び期待を寄せ始めたようだった。
「ま。ちょっとしたハプニングがありましたけれどもね、大学の講義には付きものです。この前は間違ってベルゼブブを召喚しちまったこともありました。さんざん説得した挙げ句に帰ってもらって、ついでに大学で出た燃えるゴミも持ってってもらいました。あははははは。あ。脱線ですね。ようし。では改めまして」
ロハノは声を張り上げた。
それは今夜限り、月が沈み日が昇るまでの限定された時間帯における、聴講生が幽霊のみという、長いながい世界の歴史を参照してもおいそれと前例は見つからない、特別な「総合魔術論」の講義の開始を、夜の片隅に置かれたこの教室に告げるものだった。
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