第8話恥の文化ですらない
日本が恥の文化と説いたのはベネディクトとの「菊と刀」という書物だったと記憶している。キリスト教圏の人間は悪い事をすると罪の意識を持つことにより秩序を守る。それに対して日本人は悪いことが露見して恥をかくことで、責任を取る形になり秩序を守る。というのが自分の捉え方である。
だが、恥の文化はもう過去のものとなり、現在の日本では機能していないように思われる。自分は田舎者なので、事例がローカルになって申し訳ないが。例えば、スーパーやコンビニで、家庭ごみを普通にゴミ箱に捨てる。かどにあるコンビニを通り抜けに使う。灰や吸い殻を普通に車外に捨てる。駐車スペースじゃない場所に普通に車を止める。ゴミを不法投棄する。自分の子どもが公共の場で迷惑なことをしても気にしない。悪いこと、迷惑なことという意識はあるのかもしれないが、自分さえ良ければいいという風潮があるのではないか。
恥の文化が成り立つには、人に見られることが要件としてある。知り合いに見られることがなければ大丈夫。自分の身元がばれなければ大丈夫という思いが根底にある。少し前であれば恥ずかしいことをすれば近所で噂になり、あるいは誰かが注意してくれたりしたかもしれない。ただ、コミュニティの弱くなった日本ではもう成り立たないのかもしれない。
もう一つ、恥をまるっきり気にしなくなった、というのも恥の文化が廃れた要因かもしれない。これに関しては前首相が素晴らしい厚顔無恥な姿を披露してくださっていたので、それを見てみよう。例えば、「募ってはいるが募集はしていない」の言い回し、訂正や謝罪があったかな。原発の事故処理、アンダーコントロールと世界に嘘をつき、五輪を政治利用した。桜を見る会では支持者や友人を多数招待し指摘されると証拠を隠滅。前夜祭の明細書はないと平気で嘘をつき悪びれるところもない。不祥事で大臣が辞めると責任はあると言いながら責任は取らない。病気で首相は辞任したが議員は辞めない。そしてプレッシャーがなくなると、嫌な授業や行事を仮病を使って休んだ小学生が、事が過ぎたら途端に元気になるよにまた活発になっている。
問題はこの首相を立てていた与党にもある。国会の場で聞いてて恥ずかしくなる世辞を言い、何かあっても責任を追及するきもない。自分の立場と利権が大事だからね。
さて、今、日本の文化は恥の文化ですらないと言ってきたが、なら今の日本の文化は何か、自分さえ良ければ」いい、という風潮から「我の文化」と説きたいと思うがいかがだろうか。
天邪鬼の戯言 波留 紫苑 @isimori2027
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