幕間: 陸野鳥人の夜ふかし



 夢を、見た。



 どくん、と大きな動悸。

 「—―ッ!」声にならない叫びとともに、目を覚ました。


 急いで周囲を見渡す。

 1LDKの部屋、ベッド一つ、わずかな家具、無造作に置かれたいくつかのトレーニング機器。

 そして、ベッド横の床に敷かれた布団の上にいる自分。

 いつもと同じ、間借りしている部屋の間取り。


 そこまで確認し終えた僕——陸野鳥人りくのとりひとは、ほっと安堵の息をついた。


 僕は『ファルスハーツ』—―通称FH、レネゲイドウイルスに感染したオーヴァードで構成される国際テロ組織——の研究施設から、C市に逃がされたオーヴァードだ。

 薬物投与実験の検体であったため禁断症状に悩まされていたが、ある事件をきっかけに止める決心をした。

 『ユニバーサル・ガーディアンズ・ネットワーク』——通称UGNの機関に助力をうけ、治療に努めたことで、長年服用していた薬物から離れることができた。


 ただ、オーヴァードであっても後遺症は残るようだ。


 「……薬をやめてしばらく経つけど、やっぱりまだダメみたいだな」


 特に、夜は。

 そう自嘲するように呟き、嗤った。


 枕もとの時計を見ると、時刻は午前4時を指している。

 そっと窓辺のカーテンを揺らして外を眺めると、街はまだ暗闇に包まれている。

 ぽつぽつと佇む街灯が綿帽子のように輝き、白光を足元に投げかけていた。


 冷たく澄んだ空気の中に放たれる鋭い光は、離れたこの窓辺まで放射状のプリズムを飛ばしてくる。

 眩しさと言いようのない既視感からカーテンを戻し、僕は寝床に戻った。


 布団を頭までかぶり瞼を閉じる。しかし、先ほどの鋭く尖った光がちらついて離れない。

 息の詰まるような焦燥に寝返りを数回打ったとき、頭上から声が降ってきた。


 「——眠れねえのか」

 ぶっきらぼうな短い言葉。


 「……すみません、起こしちゃって」

 こちらも短く謝りの言葉を返す。


 ベッドからむくり、と起き上がる分厚い影——粟国正午あぐにしょうごさんは、欠伸をひとつ嚙み殺し散らばる前髪をかき上げながら、こちらを眺めた。



 チン、と無機質な音を立てたレンジから、粟国さんはマグを2つ取り出した。

 一つにはハチミツを、もう一つには棚から取り出した飲みかけのブレンデッドを注ぐ。

 ハチミツ入りのほうを僕に手渡し、自分はアルコールの香りが立ち上るマグを手にベッドに腰かける。


 「……ありがとうございます」

 「寝付けねえガキには暖けえもん飲ませるって言うからな」


 子供扱いに不満をこめて睨むものの、楽しげにこちらを見返す彼は気にした様子もなくマグを傾けている。

 自分も、まだ熱い中身を喉に流しこむ。

 胃が温まる感覚と共に、チクチクと鋭く光り続けていた綿帽子のかけらも、暖かくほの甘いミルクの川に流されて行く気がした。

 

 粟国さんは“ギルド”と呼ばれる犯罪者互助組織に所属する船乗りだ。

 来週から外航に出るらしいがちょうど今はC市に帰港している。

 ——僕を、あの研究所からこの街に逃がしてくれた人でもある。


 「ちっとは落ち着くだろ。それ飲んだら寝ろよ、起きたら忙しいぞ」

 粟国さんの言葉に、こくりと頷いた。

 時計は12月31日の午前5時を指したところだった。



 朝から大忙しだった。

 普段からわりと整理されている部屋を更に掃除して、知り合いからもらったというソファーベッド一組を設置した。


 「これ、お前のな」

 解体されていたベッドを組み立てだした粟国さんの言葉に驚いた。


 「まだ、ここにいていいんですか……」

 口から本心が漏れる。粟国さんは、何も言わずに作業を進めている。


 「粟国さん、あの」

 「わりい、鳥人。そっち後でいいから買い物行ってくれねえ?」


 あそこの店、混むんだよな。

 そう続ける粟国さんに、こくりと頷いて買い出しに向かった。


 近所の総菜店は同じく買い出しに来た人たちでごった返し、さながら小魚のベイト・ボールのようだった。

 酒屋、八百屋、魚屋……商店街のどこもかしこも人が集まっている。


 大晦日は早じまいするから、急がないとね。

 通りすがりのご近所さんから助言を受けて、僕は荒波の商店街へ乗りこんだ。


 大荒れの商店街を無事に帰還し、御節料理の準備にとりかかる。

 煮豆、数の子、田作り、蒲鉾……ほとんど買ったものだが、重箱に詰めていればあっという間に日が暮れた。


 粟国さんは“ギルド”に挨拶があるからと、面倒そうに出掛けて行った。

 僕はコンロにかけた鍋に蕎麦を入れながら、何となしに、この一年を思い返していた。

 

 春、長い夢の中で過ごした。

 夏、夢から目を覚ました。

 秋、兄さんの幻を見た。

 冬、ホットミルクが美味しかった。


 ずいぶん寒くなった。でも今僕がいる場所は、あの夢よりもずっと色鮮やかで暖かくて居心地がいい。

 ―—この夢のような景色から、いつか離れるときがくるのかな……



 「そうだよ。ずっと鳥人おまえばかり幸せでいていいはずない」



 ハッとした目の前には吹きこぼれそうな鍋。慌てて火を消し、中身をざるに上げる。

 周りを見渡しても、当たり前のように誰もいなかった。

 

 「……胡人ひさひと兄さん」


 白く淡い表情を思い出す。呟いた兄の名は湯気と蕎麦の香りと共に揺れて、消えた。


 

 ぼんやりと淡い黄色で夜道を照らす石灯籠が並ぶ、山間の参道。

 いつもは閑散としている時間帯だが、今日は行き交う人でいっぱいだ。

 時計は午後11時45分を指している。

 ―—もうすぐ、新年がやって来る。


 「おい、ボーッとしてんなよ。列進むぞ」 


 粟国さんの声に背中を押されて歩を進めた。

 大芦神社は混みあうからと早めに来たが、すでに参道は混雑していた。


 「遠子とおこちゃん、何お願いするの?」

 「内緒ですよ!こういうお願いって、人に話したらダメなんですって」

 「何それ、姫ちゃんの冗談?面白いねえ」

 「違いますよ~、吾郎さんも仰っていました!あと、ちゃんと住所言わないといけないんですよ」

 「姫ちゃんだったらウチ知っているから問題ないでしょ」

 「これだけ沢山人がいると、私たちのお願いも混ざっちゃうんじゃないですか?」

 「そっか~。ちなみに僕がお願いするのはねえ……」

 「だから人に話しちゃダメなんですって!」


 ざわめきの中に知人の声が聞こえて、そちらを見る。僕たちより少し前を進んでいくUGNの雨宮あまみやさんと、双葉ふたばさんの姿があった。


 「まあ、やっぱ来るわな」粟国さんも気づいたのか、同じ方向を見ていた。


 「後で、挨拶したいです。……昨年はたくさんお世話になりましたから」

 「ん、そうだな。あいつらにも小遣いねだっとけ」

 「そういうつもりじゃなくて……」


 楽しそうに笑う悪党を見上げながら歩く。悪党は周りをキョロキョロと見渡して、人の顔を眺めていた。


 「オーギュストは来てねえなあ。寝正月か?」


 石燈籠の一つを通り過ぎながら、粟国さんが独り言をもらした時。

 影から唐突に、インバネスコートに身を包んだ探偵が現れた。


 「……ここにいる」

 「うお!?手前、そんな陰気な所にボッ立ちして何やってんだよ」


 粟国さんが取り出した煙草がポトリ、と敷石に落ちた。湿気てはいけないと急いで拾ってあげる。

 その横で、ぬっと長身のフランス人が列に加わった。


 「人混みは、苦手なものでね」

 「あっそ、いやそれよりすげー薄着!見た目くらい季節に合わせとけよ」

 「……生憎、些細なことは気にしない性分でね」

 「成程な?まあそもそも気にしてたら、ンな恰好してねえよな」


 軽口を叩く二人とそのまま流れるように参道を進み、境内まで着いた。こちらも人出で賑わっている。

 少し空いたところに、正装を纏った神主の山上さんと、雨宮さん、双葉さんがいた。


 「あ!皆さんお揃いになりましたね」

 「わあ~良かった、ちゃんと会えましたね!」

 「うん。来てるとは思ってたけど、人多かったからね~」 

 「……今日は、賑やかだな」

 「よお、吾郎ちゃん。ここでフラフラしてていいのかい?」

 「少し様子を見に回っていたんです。すぐ戻りますよ」


 茶々を入れる粟国さんに山上さんは笑いかけ、去ろうとして足を止めて、僕たちにお辞儀をした。

 

 「旧年中は、大変お世話になりました。お姫様も、皆さんがいなければどうなっていたことやら……」

 そう言ってこちらを見る山上さんの目は、いつにもなく真剣だった。


 「いま姫様は眠っておいでです。差し出がましいですが、姫様の分までご挨拶させていただきたくて」

 「来年も、宜しくお願いいたします」


 そう言っていつもの柔らかい笑顔でにっこり笑い、足早に去っていった。

 大人たちは、誰も多くを語らなかった。

 でも、みんな穏やかな表情をしていた、と思う。



 「——さて、もうそろそろじゃない?」


 雨宮さんにつられて、時計に目をやる。時刻は午後11時59分。

 周りから早々とカウントダウンの号令が上がり始め、次第に声の数が増えていく。


 「神社でカウントダウンって不思議ですね!おひいさま、怒らないかな」

 「姫ちゃんなら大丈夫でしょ~。人が多いほうが嬉しいだろうし」

 「まあ、今日は祭りみたいなもんだからな」


 秒数が10まで来ると、声が集まり、まるで辺り一帯が一つの生物になったようだった。

 

 「10、9、8、7、6、5、4、3、2、1……」



 一瞬、違う場所の景色が見えた。

 白い建物。白いケーキに赤いイチゴ。白い服を着た男性。白い肌を持つ少年。

 ぜろ、と数えた口がにっこり笑い、クラッカーを鳴らした―—



 「明けましておめでとうー!!」


 歓声とともに、人々の挨拶と拍手が聞こえる。

 四人の大人も互いに挨拶を交わしている。

 神主さんや巫女さんが声を上げ、すぐに初詣の支度と売場の準備が整えられた。


 冬の星座が燦然と瞬く、真っ黒な空の下。

 星の隙間を埋めるように、白い吐息が上っていった。



 冷たい冷たいと笑いながら手水舎で両手と口をゆすぎ、階段を上って御神前まで着く。

 自然と、五人横並びで参拝をする恰好になった。

 人々の笑い声と新年の挨拶、木に金属が跳ねる音、手を合わせる拍子の音。

 初詣は、賑やかなものだと知った。


 いざ御神前に来て、願い事を決めていなかったことを思い出した。


 (あともう少しだけ、この景色を見させてください……とかかな)

 そう思っていると横やりが入った。

 

 「鳥人、陰気なこと願ってんなよ。正月なんだから前向きなこと言っとけ?どうせ聞いてんのはアイツだしな」

 「……人の願い事に、とやかく言うものではないよ」

 「そういうお前は何願ったんだよ」

 「……人の願い事を、聞くことは野暮だと思わないのかい?」

 「あっほら!参拝、終わったなら行きましょう!」


 粟国さんとオーギュストさんの周りだけ冷たい空気がいっそう冷えたように感じたが、急いで双葉さんが二人を連れて、次の参拝者に順番を譲った。

 

 境内に戻ると簡易テントが敷かれており、ぜんざいの接待が受けられるようになっていた。

 テントの前には、見知った顔。


 「鳥人!こんばんは!明けましておめでとう~!」


 白い息を吐き、頬をりんご飴のように赤く染めながら、巫女服で接待をしている七虹ななこちゃんがいた。

 神主の山上さんのお孫さんだ。


 「七虹ちゃんこんばんは、明けましておめでとう。寒いのにお疲れさま」

 「ううん、全然へっちゃらだよ!ストーブがあってね、暖かいんだよ!」


 いそいそと大きい鍋から汁を継ぎ分ける七虹ちゃんだが、手先は赤い。

 

 「はい!」とぜんざいの入った発砲スチロールのお椀を渡される。


 「熱いから気を付けてね!鳥人、おっちょこちょいだからな~」


 そう言われて失笑しながら、ポケットを探って目当てのものを渡した。


 「はい、七虹ちゃん。指先は寒いでしょ?これ、使って」

 「?なあに、これ……ホッカイロ?」

 「うん、僕は使わなかったから」

 「わー!ありがとう!」

 

 すぐ封を開ける七虹ちゃんを見ながら、ぜんざいに口をつける。

 寒空の下で飲む小豆の甘さが、身体の隅々まで染み入った。



 時計は午前1時を指した。おみくじを引きお守りやお札を眺めていると、あっという間に時間が過ぎた。

 ちなみに、お札を買おうとしたら粟国さんに止められた。

 「家にアイツがいると思うと落ち着かねえ」とのことだ。


 「さ、姫ちゃんは生憎お休みだけど、新年のごはん食べようか」

 「……いただこう」

 「ノルマの分は作ってきたぜ。そばのだし汁はあるんだろ?」

 「任せてください!三ケ田みかた君が作ってくれました!」

 「それ大丈夫かよ……」


 今から、『時雨堂』で常駐している人たちと御節料理を食べる予定だ。

 料理の出来についてやいのやいのと話しながら、参道を下る。


 鳥居をくぐり抜ける前。神社の方向へ振り返って、言いそびれていた願い事を思い浮かべる。


 (この夢が、長く続きますように。それから―—)



 「おーい鳥人!ボーッとしてねえで早く来い」

 「っ!はい、今行きます!」


 また言いそびれた。慌てて鳥居をくぐる。お辞儀をして、長い階段を降りていく。前を歩く四人の背中を目指すが、少し距離があった。


 道を進むにつれて、石燈籠の黄色い光が途切れ、背の高い街灯が並び出してくる。

 鋭く白い綿帽子に囲まれる。

 あの尖ったプリズムが、こちらの顔を刺そうと狙っている。

 足が、すくむ――


 

 「なーにを怯んどる。それでもおのこかえ」



 ―—ナイフのようなプリズムは、こちらに届く前に宙へ溶けていった。

 茫然としていると、顔に冷たいものがぴたり、と引っつく。

 大人たちの声が、響いた。


 「わー!雪ですよ雪!どおりで寒いと思いました」

 「天気予報、外れなかったね~。今晩積もるって言ってたよ」

 「……雪、か……」

 「早く行こうぜ、風邪ひいちまうぞ」


 空を見上げると、黒一色の天井から無数の結晶が降り注いでいた。


 双葉さんのダウンが、雨宮さんのチェスターコートが、粟国さんのミリタリージャケットが、オーギュストさんのインバネスが、あっと言う間に白く染められていく。


 街灯の白光と尖ったプリズムは降る雪に霞んで、おぼろげな虹彩へとその身をやつしていた。



 「人の子の悩みは、ほんに些事じゃのう。しゃんとせねば何時でも喰らってやるぞ」


 そう聞こえた声は、気のせいではないのだろう。


 「……ありがとうございます、神様。」


 今は眠っているはずの、長多津比売神姫ながたつひめのかみにお礼を言った。


 

 五人は雪を纏いながら、急ぎ足で商店街を目指していく。

 道路沿いにある最後の鳥居をくぐれば、『時雨堂』まであと少しだ。

 

 鳥居を抜けるとき、僕は再びお辞儀をして、言いかけたままだった願い事を紡ぎ終えた。


 

 (——今年が、C市の皆さんにとって良い年になりますように)




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