海へと着く

 海と砂浜が赤く染まっている。

 終末ではない。ただの夕焼けである。

 俺も男も車から降り、沈みかけの太陽を眺めた。

「やぁ、間に合いましたね」

「ヘェ、よがったです」

 男は砂浜の上でこっちを向き、頭を下げた。

「こいで神の言ったごども達成できます」

 頭を下げついでに、足元が見えたらしかった。サンダルを脱いで、上着も脱いだ。その二つを俺の方に差し出した。

「これ、ありがどうごぜます」

「いえ、いいんです」

 俺は上着の方だけを受け取った。

「履き物……」と言うのに、手を振った。

「いいんですよ。差し上げます」 

「あや、いいんですか?」

「あげますよ。それに、少し海に入られるんでしょう」

 到着前に「どう世界の危機を救うのか」と聞いたのだ。

 彼は言った。

「チョッコシ海に入って、ほいで、待ちます」

「何を?」

「危ないモノが来るのを」

「何かされるんですか?」

「そのあだりは、その時になっどわかるど思います」

 最後まであやふやな答えだった。

「本当に、ありがどうごぜました」

 男はもう一度ぺこりと頭を下げてから浜を歩き、そのまま海に入り、海面が膝のあたりに来るまで進んだ。

 俺は普通のスニーカーで来ていたので、海には入りたくなかった。

「あの!」俺は離れた場所に立つ男に声をかけた。「ここで見ていてもいいですか?」

「えぇですよ!」彼はちらりと振り向いて大声で答えた。「危険はねぇど思います!」


 波が来て、波が去る。

 単調な波の音が繰り返されている。

 真っ赤な夕陽に向かって、男はただ立っていた。

 ふと彼の手を見た。拳が固く固く、握り締められている。 

 その力の入りようを見ていると、妙な気分に襲われた。

 この夕陽、いつもの夕陽よりも、一段と赤いような、そんな気がするのだ。

 東京の夕焼けと青森の夕焼けが違うのはわかる。だがそれにしても、この赤色はあまりに毒々しいように思われてきた。

 沈んでいく太陽の上に漂う雲も、どことなく黒くいびつに感じる。

 男の前に広がる夕暮れが、ひどく邪悪な光景に見えてきた。

 男の曖昧な話に感化されたのか。故郷の海に心が揺れるのか。

 あるいは、本当に──


 俺はポケットからデシカメを出した。手が勝手に動いていた。

 海に立つ男を中心に据えて、夕焼けを迎え撃つような構図を狙った。

 指が一度だけ、ボタンを押した。


 俺は脱力したように腕を下ろした。

 一瞬、写真を撮ったら男がもういないのではないかとの考えがよぎったが、男はまだそこにいた。 

「あの!」

 俺は再び声を上げていた。

「俺は……俺は親父に、会った方がいいと思いますか?」


 彼は答えなかった。振り向きもしなかった。

 彼は背中を向けて、ただ沈黙していた。

 だが、その右手がゆっくりと、ゆっくりと上がった。

 固く握られていた拳が開いていた。

 手が左右に、小さく振られた。

 その意味がわからずもう一度声をかけようと口を開いた瞬間、海から強い風が渡ってきて俺の顔を叩いた。俺は思わず顔をそむけた。魚の腐ったような、生あたたかい、いやな風だった。


 俺は海の方へと目を戻した。 


 誰もいなかった。

 どこを見渡しても、海にも陸にも、あの男の姿はなかった。

「…………え? あれ…………?」

 男にやったサンダルが左右とも、おだやかに暗くなっていく波の上に浮いていた。



 おおい、と叫んだ。

 おーい、どこに行ったんですか?

 おーい…………! 

 おーい…………



 俺は叫びながら、彼の名前を聞くことを忘れていたのに気づいた。

 どう名乗るかはわかりきっていた。しかし、俺が彼をどう呼べばいいのか、知っておくべきだった。

 そして俺も、彼に名乗っていなかったことにも気づいた。



 呼び名も、呼びかけ方もわからないまま、俺は暮れていく砂浜でおおい、おーい、と、声を張り上げていた。

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