パンを増やし、水をワインに変える
「しかし、あンたさんさっぎ、『ライダーしでます』つってだけんども」男はゆっくりと食べる手を止めずにまた聞いた。「ライダーってなんですがのい?」
「ライターです。ライター。要するに物書きです。いろんな重要な情報を、多くの人に知らせる仕事……」
そこまで言って俺は苦笑して、はじめてコーヒーを口に運んだ。ブラックのコーヒーはギュッと苦い。
「ほいあばオメさん、えれぇごどしてんだない。世のタメさなるごどでねぇっすか」
「……そうでもないかな」
俺は世に言うオカルトライターだ。
時折コンビニにある怪しげなムック本や雑誌。事故物件だの都市伝説だの、昔の猟奇事件だの陰謀論だの、そういうものが載っている本に記事を書いてメシを食っている。まぁ食えなくなりつつあるが、それはさておき。
今回は取材ではなく、いわば里帰りであった。しかし青森へひた走る車の中で、オカルトライターであるにもかかわらず地元の有名な謎スポットを見たことがないのに気づいた。
写真を撮っておいてネットで珍説を仕入れて、2ページ分ほどの記事でもでっち上げて温存しておこうか、と考えた。
そこで出会ったのがこの男だったわけだ。
最初に声をかけた時は純粋に親切心だった。服装の奇妙さにも声をかけた後で気づいた。
だが彼が堂々と救世主を名乗った途端に、ソロバンがパチパチ動き出した。
「青森のキリストの墓で『救世主』に遭遇!」
「『世界を救う』と語る彼の真意は?」
「混沌の世に語る! 今いかに生きるべきか!」
そんな見出しが頭の中に浮かんだ。
タイミングよく、何故か聖地エルサレムでも復活しているらしい。しかも、2人。どんな巡り合わせか知らないが、とにかく記事のボリュームは増える。4ページはいける。
どう考えたってこの男は、頭のおかしな奴だ。
エルサレムで復活するならわかる。だがこんな、青森で復活するだなんてバカらしいことがあっていいわけがない。
青森でキリストが死んだというのは、竹内巨麿というオッサンが発見した通称「竹内文書」なる古文書に記されていた。ところがこの文書そのものがでっち上げで──要するに、単なるヨタ話なのだ。
しかもこの男は日本語を喋っている。その上訛っている。二重三重にありえない。
想像するに……「啓示」を受けたこの男は、近場からフラフラやってきたのだ。で、あそこで辻説法でもやりたかったのだろう。我いま復活す、終わりは近い、悔い改めよ、云々。
そういう奴を捕まえて食事に誘い、インタビューし、記事にするのは倫理的にどうかと思うが、そもそもが怪しい雑誌やムックばかりに文章を書いている。
しかも彼はきっと語りたいだろう、現世を嘆きたいことであろう。それを聞いて文章にして世に広めるのだから、これはむしろ善行なのだ。
そう考えることにした。
俺はカバンからレコーダーを出してかちり、と録音ボタンを押した。彼はちらりとそれを見てから、小さくちぎったパンを口の中に入れた。
「お話を聞かせてもらっていいですか」
「へぇ、時間の許すかぎりあば。何をおきぎになりますか」
よくわからんが、タイムリミットがあるらしい。俺は構わず聞いた。
「世界を救うために来たとおっしゃいましたが、何か、危機が迫ってるんでしょうか」
「ンですねぇ。せまっでますねぇ」
「具体的にはどのような危機なのでしょう?」
「……ほいはねぇ、ちょっと、簡単には言い表せねェス」
彼は難しい顔をして腕を組んだ。世界を救うとか言っておいて、何から救うかを考えていなかったのか?
「それは、神が引き起こすものではないんですか?」
「いや、神がおっしゃるヤヅとはまるで別のモンが来てしまうンですよ。ほいで、オイが止めにきたんでスよ」
「天変地異でしょうか。地面が割れるとか海が溢れるとか……」
「そういうのもあるっちゃああるんですが、もうチョッとドでかいモンです」
「そこを詳しく……」
とここまで迫った時、妙な音が俺たちの座るテーブル席を震わせた。
グゥ……というそれは、俺の腹の虫が鳴いた音だった。
「あ、すいません」
俺は赤面した。節約のため今朝から何も食べていない。昼飯代はこいつにおごってしまった。
「おめさんアレですか、お腹、すいでるんですか」
「えぇ、まぁ、少し」
「なにが食べだらいいんでねぇですか」
「いえ、大丈夫です」まさかこんな身なりの男に、懐が寒いとは言えない。
「食べねぇどダメでスよぉ。お腹がすいだらまず、お供えモンでもなんでも食べねぇど……」
「コーヒー飲んでますから」
「オイだけパンど魚、食べさせでもらって、申しわげねぇですよ……ちょっくら待ってくだせぇね」
彼は皿に残ったパンの一欠片を左の手の平に乗せた。それから右手で蓋をした。
時間にして2秒も経たぬうちに、右手をどけた。
俺は目を剥いた。
さっきまで欠片しかなかったパンが、まるまるひとつのふっくらとしたパンに戻っていた。
「はい、どうぞ」
彼は皿にパンを戻して、俺の方に押し出した。
「食べでください」
俺はパンを見た。次に相手の顔を見た。得意気でもなんでもない表情だった。
「……どうやったんです」
俺は思わず聞いていた。
「増やしまスた」
彼は答えた。
何か言葉を言おうと息を吸ったが、手品、奇術、催眠術、単語だけが頭をよぎった。
指でパンを押す。柔らかい。パンだ。パンは、確かに、ここにある。催眠術ではない。
「……あの……食べねぇんですが?」
男は俺の顔を覗き込むように言う。
「……どういう仕掛けですか?」
ようやくそれだけ言った。
「“すかけ”もなんもねェですよォ。あー、はズめて見る人は驚かれまスけんど……」
こともなげにそう言う。
まさか。
手元にあったコップを向こうにやる。
「すいません、あなた、これを」声がつっかえる。「ワインにできますか?」
彼は綺麗な瞳でコップを見ると、「へぇ、大丈夫ですよ」と頷いた。
水が入ったコップを握って、くるくると三回ばかり回した。
透明だった水に渦の中央から色がついていく。それが全体に馴染んで、コップの中身が濃い赤に染まった。
俺は何も言わずコップをひったくって、ひと口飲んだ。
舌に苦味と、喉に刺激が走った。葡萄の香りが鼻を抜け、アルコールが胃の壁に広がるのを感じた。
水は、ワインに変わっていた。
信じられなかった。
パンひとつならまだいい。どこかに持っていたやつを、右手に隠して、左手に被せる。それでいい。
しかしワインとなると……例えば手の中に濃縮して凍らせたワインを忍ばせておいて……
だが──だがしかし──
「あら! こいあば困ったや! 布かがってでわがんねがったや!」
男はやおら立ち上がって叫んだ。下ろされたスクリーンの隙間から外を見れば、気づかぬうちに夕刻である。
「すいません、ちょっとお願いがあるンすけども!」
まだ頭の回転しない俺は口を開いたまま頷いた。
「こごからちょっど、さっぎのあの、箱みでぇだ動ぐヤツで、海まで連れで行っでくれませんがの?」
男は俺の上着を着直した。
「さっきも言いましたけんど、日が暮れね内に海さついでおがねどダメなんです!」
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