第一章 肉じゃが定食②

 


 三月下旬、早春の空気はまだ少し肌寒い。

 はじめての一人暮らし。はじめての土地、二日目。

 引っ越しの手伝いに来てくれた両親やお兄ちゃんは、仕事が忙しく。「もう大学生なんだし、入学式も私ひとりで大丈夫 ! 」と断ったせいもあって。みんな昨日のうちに帰ってしまい、私はとても暇だった。

 時間があるならまず行くべきは湊川神社だったのかもしれないけれど、はしゃぎすぎて 占いの余命宣告のことなどすっかり頭から飛んでしまっており。

 かくして私は「冒険してみなくっちゃ ! 」と、神戸の中心地である三 宮さんのみやに意気揚々と繰り出した。

 さっそく困り果てるはめになるとも知らずに。


 「迷った」


 声に出して呟くと、現状が身にしみる。

 早い話、神戸に関しては……無駄にガイドブック読みこむ歴だけは長かったので、自分の能力を過信していた。

 というか、高校の友人たちをして「名前がミナトなのに、永遠に寄港できないレベルに狂いすぎた脳内羅針盤らしんばん」「同じ道を素で三回間違える女」「行き先がことごとく魔境に変わるヤバいやつ」と呼ばしめる、己の異常な方向音痴ぶりを忘れていたともいう。

 いちおう、ここがどこかくらいは把握しているだけマシだけれども。

 巨大な有名百貨店がそびえたつスクランブル交差点近辺を、かれこれぐるぐるぐるぐる、何度も巡った挙句、空腹に耐えかねてやってきたのが――神戸元町にある、いわゆる中華 街というところだった。


 どっしりした構えの白亜の門は、真下に立つと、龍の彫刻がくまなく施されている。

 オレンジ色の瓦屋根、あか提灯ちょうちん飾り、各部にあれこれ書かれた漢字などが、「ワタシ !  いかにも !   中華アルヨ ! 」と主張してきた。――感想に偏見が入っているのは認める。


 さて、どうするか。

 私は、より強固に空っぽを訴える腹と、これからこなそうと思っていたスケジュールとをてんびんにかけた。……秒で腹に傾いた。

 むやみに戻っても、どうせまた迷うだけだし。

 ひとつうなずいて自分を納得させ、私は白い大門をくぐったのだった。



「ぶたまんおいしいよ !   オネエサンどうかな ! 」

「海鮮ちまきおひとついかが !   食べてってヨ」


 よこはまの中華街とはずいぶん様子が違うんだなあ――というのが、神戸の中華街に踏み入った私の第一印象だ。そうそう、こっちでは肉まんを『ぶたまん』って言うんだよね。

 神戸の中華街は、横浜に比べて、ずいぶんと小ぢんまりした印象を受けた。

 チャイナドレスや雑貨、占い、お酒やお茶など、さまざまな店が並ぶ横浜のそれとは違い、なぜか目に入るのは食べ物系の店ばかり。その違いがまた、いかにも新しい場所にやってきたという実感を呼び、私はわけもなくうれしくなった。

 加えて、露店の多さも珍しい。道の両側に、ほかほかの湯気とおいしそうなにおいを放つ台がずらりと並んでいて、それぞれで競うように呼び込みが行われている。


 肉まん、ちまき。しょうろんぽう

 汁そば、餃子ぎょうざ。から揚げの串、揚げ餅にゴマだんご。

 そして、かわいらしい桃まん、パンダまん、ヒヨコまんなどなど。


 見るだけで楽しい露店の品々には、心が躍るし、すきっ腹も大いに刺激される。道に迷ったことで少しだけ消沈していた、あの浮かれた気持ちがよみがえってきた。


 なに、食べようかな。お値段はだいたいがワンコイン以内でおさまるけれど、まだバイト先も決まっていないし厳選はしなきゃ。

 平日のわりに観光客はそれなりにいて、お一人さまの私は、まわりのけんそうにいちいち驚きながら、とにかく先に進んだ。

 けれど、途中で少し具合が変わってくる。


「お姉さん !   すぐだヨ !   食事すぐ案内できるヨ ! 」

「小籠包 !   小籠包 !   小籠包だよお姉さん !   食べてって食べてって」  


 ――こ、声が大きい…… !  


 元気のいい呼び込みは、単に飛び交うだけでなく、なかなかアグレッシブに迫ってくる。

 真っ赤なチャイナドレス姿の、満面に笑みを浮かべたおばさんに「すぐ案内できるよ ! 」と進路を塞がれた私は、「あ、いえスミマセン」とわけもなく謝りながら踏みこたえてしまう。

 その瞬間だった。

 前髪を、ふわっと風圧が押し上げる。

 あれ、なんだろう ?   などと、首をかしげる暇もなく。  


 ――ガシャアン !


 ものすごい音とともに、私のすぐ目の前に、巨大な突き出し看板が落ちてきたのだ。

 赤や緑で彩られ、明かりのつく仕掛けのそれは、あからさまに重そうで。

 頭を直撃していたら、おそらく命はなかった。


「え……えぇ !? 」


 遅れてやってきた恐怖に、足がすくむ。

 金属のフレームはひしゃげ、アクリルが粉々に砕け散った看板から距離をとるべく、私はふらふらと後ずさる。


「なんだなんだ !? 」

發生了什麼なにがあった !? 」


 そうこうするうち、周りにどんどん人が集まってきた。

 次々に、「お嬢ちゃん、大丈夫か ! 」「ケガは !? 」と尋ねられたけれど、私は無言のままかろうじて頷くのが精いっぱいで。

 ほんの数秒差だっただろう。もう少しで、この下敷きに……。


「ひ……」


 通常なら、「助かった」で済むところだ。

 でも、なぜかその時とっさに頭をよぎったのは、ダイレクトに命を狙ってきたという謎めいた危機感だった。

 だって、今までいろんなものに降られたとはいえ、こんな鼻先をかすめるような位置ではなかった。まるで様子見のごとく、遠巻きに小さな不運ばかり積み重なっていたのに。


 ……こうしてはいられない。


 早く、早く逃げないと。

 周りでは、日本語のみならず中国語とおぼしき言葉が飛び交い、いよいよ大きな人だかりができつつあったけれど、私はどうにか囲みを抜け出した。


 怖い。怖い。どうしよう。


 どきどきと心臓が脈を打ち、体中から汗が噴き出す。

 原因不明の焦りに駆られたまま、その場から離れることばかり考えているうちに、いつの間にか、少し入り組んだ場所に来てしまったらしい。


「わ」


 足元から灰色のはとがばさばさと一斉に飛び立って、私は身をすくめた。

 メインストリートからそんなに離れているわけではないのは、さっきまで視界の端にあったはずのお店がすぐそばに見えるので確認できる。

 しかし、思わず逃げてきたものの、――ここで私は、また別の問題に直面していた。


「心臓……痛った……」


 声に出したらどうにかなるまいかと願ってみたが、そうはいかない。

 病弱とは程遠いし、どこか特別な疾患があるわけでもないのに。

 頭だったり胸だったりおなかだったり、結構な頻度で、私の身体からだはよくヘンテコな不調を訴えるのだ。準備運動をどれだけしても、プールで足がる確率も尋常じゃなかった。

 よりによって、こんなタイミングで !   もう、さっきから入れ代わり立ち代わり、何なの…… ?


 おまけに痛みかたが今までと違う。過去最大級だ。ろっこつの隙間からきりでも刺し込まれるように容赦なくギシギシ軋 きし む胸を押さえつつ、どうにか辺りを見回す。

 どこか、休憩できるところ……この際、どこでもいいから……。

 

 ――と。


 その時。私はなぜか唐突に、すぐ目の前にたたずむ小さな建物が気になった。

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