第109話 二人の選択 ③


「あ……もうこんな時間か」


 あれから暫く病室の中にいた皇成は、時計を見て、ぽつりとつぶやいた。


 ベッドの横で椅子に腰かけて数時間。もう帰らなくてはいけない時間だからか、皇成は改めて姫奈の手を握りしめた。


 姫奈は、今日も目を覚まさなかった。


 橘には、あのようにいったが、やはり時間がたてばたつほど、不安はどんどん増していく。


 未来がわからないのが、怖い。


 これまでは、矢印さまが教えてくれた。

 でも、もうその矢印さまは、どこにもいない。


「ちゃんと、目……覚ますよな?」


 どんなに大丈夫だと言い聞かせても、時折、こうして弱い心が顔を出した。


 もし、このまま、姫奈が目を覚まさなかったら?

 

 そんな悪い未来ばかり考えて、心が砕けそうになる。そして、それと同時に、あの日の自分を振り返り、後悔する。


 もっと早く見つけ出せていたら、姫奈は、ここまで矢印様を酷使しなくてすんだかもしれない。


 もっと、自分が賢かったら

 もっと、自分に力があったら

 

 でも、今更後悔しても遅い。矢印様に甘えて、のうのうと生きてきたツケが、今になってやってきたのだと思った。


 きっと、あのまま矢印さまの言う通りに生きていたら、こんな後悔をすることもなかったのだろう。


 だけど、後悔して、やっと気づいた。

 人は、あっさり死ぬ生き物で、人生は運次第。

 

 だけど、その運をだぐり寄せるために、人は学び、鍛えながら、生きているのだと思った。


(そういえば、今まで勉強も運動もテキトーだったな。将来についても、まともに考えたことなかった)


 迷ったら、矢印さまに決めてもらえばいいと思っていた。だから、こうなりたいとか、あーなりたいとか、自分がどうなりたいかすら、真面目に考えたことがなかった。


 でも、それも悪くはなかった。

 ただ、流されるままに生きる。


 だって、考えなくていいのは、とてもだから。でも……


「姫奈、俺今、橘くんに教わりながら筋トレ頑張ってるんだ。そのうち、もやしだとか、貧弱だとか言われなくなるからな。んで、ある程度、体力がついたら、鮫島くんが、空手を教えてくれるって。この前、一回寝技かけられたら、死ぬほど痛かったけど! あとは、新聞部の四月一日わたぬき君はさ、雑学にすごく秀でてるんだ!さすが文字中毒!話してると勉強になることも多くてさ……あと、長谷川さんは、姫奈の見舞いにきたいって言ってた。あの人、俺たちの代わりに爆弾事件に巻き込まれたくせに、なんだかんだ、お人好しだよなー」


 学園一の高嶺の花の不在は、生徒たちの心に僅かな翳りを与えた。


 だけど、それでも日常は、当たり前のように回っていく。何も変わることなく、穏やかに。だけど、皇成の世界は、全く当たり前にはならなかった。


 姫奈に告白するまでは、姫奈が傍にいない生活が、当たり前だったはずなのに――…


「なぁ、俺、頑張るからさ……体鍛えて、たくさん勉強して、矢印さまがいなくても、姫奈を守れるようになる、だから……だから、起きろよ……っ」


 きつく唇を噛み締めて、掴んでいた姫奈の手を、より強く握りしめた。


 起きろ

 起きろ

 起きて


 ──早く、目を覚まして。


「っ……」


 瞬間、皇成の頬に涙が伝った。

 

 結果が出てしまえば、もう、やり直しなんてできなくて、どれだけ後悔しても、どれだけ涙を流しても、もう元には戻らない。


 だけど、それでも人は、生きていかなくてはならない。たとえ君が、一生、目を覚まさなかったとしても……


「っ……ごめん、ごめん……俺が、もっと……っ」

 

 もっと、早く見つけていたら。

 もっと、早くに迎えに行っていたら。


 ずっと堪えていた後悔の念が、一気に溢れ出した。後悔しても仕方ないのはわかっているのに、涙は止まらずに溢れてくる。


 必死に、姫奈を探して見つけだした。

 爆弾だって止めて、姫奈が死ぬ未来は回避できた。

 

 運命は、変わった。

 それなのに、人生は、なんて残酷なんだろう。

 

「ぅ、う……っ」

 

 だが、その瞬間、まるで慰めるように、皇成の手を姫奈の手が握り返した。


 優しくそっと、微かに強まった姫奈の手の感触に、皇成は瞠目する。


 あの日から、何度手を握っても、姫奈は一切反応を返さなかった。それなのに……


「ひ、な……?」

「こう……せぃ、くん……っ」


 瞬間、姫奈が声を発した。

 少しかすれた声で、だけど、それは紛れもなく姫奈の声で


「ひ、な……姫奈?」

「……どうしたの? ひどい顔」

「え? あ、これは」

「ふふ、女神さまの言ったとおり、かも」

「え? 女神?」

「うん……私ね、ずっと自分が死んだと思ってて……でも、夢の中に女神様が現れて『あなたは、まだ死んでませんよ』って。だから『早く帰ってください』って『あなたの大切な人が、今にも死にそうな顔をして待ってるから』って」

「……っ」


 姫奈が笑えば、皇成は、また涙を流した。


 あれから、どのくらい眠っていたのか。泣いている皇成を見れば、たくさん心配をかけたのだと、姫奈は反省する。


(ずっと、待っていてくれたのかな。私が、目を覚ますのを……っ)


 そして、その皇成の姿を見て、姫奈もまた涙ぐんだ。


 また、会えたのが嬉しい。

 生きていてくれたことが、嬉しい。


 だけど、言わなきゃいけない。

 もう、皇成君の傍にはいられない。


 だって、皇成くんの矢印様は、私には向いていなかったから……


「あのね、皇成君、私と……っ」

「俺と結婚してほしい」

「──え?」


 瞬間、別れ話をしようとした姫奈に、皇成が真逆のことを発した。

 そして、その言葉に、姫奈は酷く困惑する。


「な、け……結婚?」

「うん。7月7日、俺の誕生日がきたら、結婚してほしい」

「え!? ちょ、ちょっと待って!」

「ていうか、お前今、別れ話しようとしただろ」

「だ、だって、皇成くんの矢印様は、私に向いてないんでしょ! それなのに、私と結婚なんてしたら、皇成君、ますます不幸に」

「ならないよ」

「ッ……でも」

「ならない。絶対に。だって、俺のは変わらなかったんだ」

「変わらな……かった?」

「うん、姫奈の言うとおり、矢印様には、何度も『別れろ』って言われた。付き合ってからも、コンビニ強盗に出くわすは、爆弾事件に巻き込まれるは、不運なんて嫌というほど味わった。でも、それでも、姫奈を思う気持ちは変わらなかった。だから、俺にとっての不幸は、こと」

「……っ」


 まっすぐに、自分の気持ちを伝える皇成に、姫奈は、耐えきれず涙を流した。そして、弱った体をゆっくり起こし、改めて皇成を見つめると


「本当に? 私、皇成くんの傍にいていいの?」

「当たり前だろ。彼女なんだから」

「で、でも、結婚は、ちゃんと大人になってからって言ってたのに」

「あ、うん。それは確かにそう言ってたし、今でもそれが正しいとは思ってる……でも、あれから少し考え方が変わったんだ。あの事件で、姫奈が殺されたって聞いて、すごく後悔した。人は、いつどうなるかわからない。明日、死んでしまう場合だってある。だから、いつかなんて悠長なこといってたら、そのいつかは、永遠に訪れないかもしれない。そう思ったら、できるだけ早く姫奈と結婚したいと思った。だから、俺、覚悟を決めて、お互いの家族にも話したんだ『俺が18になったら、姫奈と結婚したい』って」

「え?」

「もちろん、始めは『何言ってるんだ』って突っぱねられた。だけど、ちゃんと誠心誠意、話をしたら認めてくれた。もちろん、色々"条件"は出されたけど、それでも、姫奈がいいなら、結婚してもいいって」

「うそ……お父さんたち、許してくれたの?」

「うん、姫奈の家族も、俺の家族も、姫奈が殺されたって知った時、色々と思うことがあったみたいだ。だから、俺たちがなら、その気持ちを尊重するって……でも、選ぶ前に、もう一つ、話しておかなきゃいけないことがあって、実は、今の俺には、

「え?」

「あの後から、全く見えなくなった。だから、今の俺は、本当になんの力も取り柄もない、ただの底辺男子。もしかしたら、もう姫奈の矢印様は、俺には向いてないかもしれない。だから、っていうのなら、しっかり考えてからしてほしい――姫奈は、こんな俺でも結婚したいと思うか?」

「……っ」


 その言葉に、姫奈は息をのんだ。


 前に言ったあの言葉を、皇成は、まだ覚えていたのだと思った。姫奈の母親は、選んだ相手を間違えたと言って、よそに男を作って出て行った。


 だから、絶対に失敗したくないと思った。

 母のようには、なりたくないと思った。


(そっか、皇成君には、もう矢印様が憑いてないんだ……)


 生きていれば、いくつもの岐路に立たされる。

 そして「結婚」は、その中でも、とても大きな選択の一つかもしれない。


 自分の人生を捧げる相手。

 共に未来を歩く相手。


 だからこそ、矢印様を頼るべきなのかもしれない。こんな時こそ、聞くべきなのだ。


 ──失敗したくないなら。


 でも、聞くだけだと思った。


 だって、例え矢印様に『ダメ』だと言われても、私の心は、もう『答え』を決めてしまったから――


「うん、結婚したい。皇成くんと」


 ふわりと笑って皇成を見つれば、皇成は、少しホッとしたように笑ったあと


「矢印様に聞いた?」

「ちょ、聞いてないわ! 私が自分で選んだの、皇成くんがいいって」


 人生は、選択の連続だ。


 そして、その選択は、少し間違っただけで、あっという間に転がり落ちる。


 でも、皇成くんとだったら、どんな不幸も、一緒に乗り越えていけるかもしれないと思った。


 不幸や苦しみの中でも『幸せ』を見つけられると思った。だから――


「一緒に、幸せになろうね」

「うん、二人で生きていこう」


 ──どんな時も、力を合わせて。



 その後、触れていた手がゆっくり離れると、静かに指先をからめ、恋人つなぎになったあと、またお互いの手を握り返した。


 二人きりの病室の中。ゆっくりと距離が近づく。

 すると


「ねぇ、キスして」

「……っ」


 姫奈がそう言えば、皇成は恥じらいながらも、素直に、その言葉を受け入れた。


 クリスマス・イブの夜、廃ビルの中で初めて交わしたキスは、永遠の別れを告げる悲しいものだった。


 だけど、二度目に交わしたこのキスは


 『永遠の愛』を誓う、幸せと喜びに満ちたキスだった。







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る