第68話 廃ビルと観覧車
地下駐車場から、ビルの中に入れば、姫奈は、男と共に、ひたすら階段を上った。
口と腕にはガムテープを巻かれたまま、背中にはナイフ。文字通り、脅された姫奈は男の指示通り、上の階へと進む。
元々このビルは、バンドの練習などで利用される音楽スタジオのようだった。中には、廃れたロックバンドのポスターや定期演奏会の案内などが、色褪せつつもまだ残っていた。
どうやら、経営不振に陥ったのか、今は空き物件になって、施錠されていたのだろう。それを、男がこじ開けて、隠れ家にでもしていたのかもしれない。
すると、少し足が疲れてきた姫奈は、今、何階だろうかと、壁に書かれたナンバーを見つめた。
数字を見れば、どうやら地下から、5階まで上って来たらしい。
(一体、どこまで行くのかしら……?)
地上から離れれば離れるほど、逃げるのが困難になる。しかも、音楽スタジオということは、防音管理がしっかりしているため、どんなに叫んでも、外には届かない。
「入って」
「……っ」
その後、最上階である7階の部屋に着くと、扉の前に立った瞬間、中に入れと指示を出された。
姫奈は、一瞬躊躇したが、言われるまま中に入る。
背中には、未だにナイフがあって、言うことを聞かなければ、後ろからグッサリなんてことになりかねないから。
──バタン。
その後、男が入り口の扉を閉めれば、姫奈は、また男と密室にとじ込められたことに不安を抱く。
だが、中は思ったより広く、貸しスタジオといえば、窓のない密閉空間をイメージしていたが、そのスタジオには、一箇所だけ窓があった。
畳一枚ほどの、大きめの窓。
そこからは、陽の光が差し込んでいて、思ったより明るい中の雰囲気に、ほんの少しだけ不安が紛れる。
ずっと薄暗い階段を上って来たからか、明るい場所にこれたのは、せめてもの救いだった。
だが、窓から逃げことはできない。
その窓を見れば、当然、鍵などはついておらず、分厚いガラスの二重構造。まさに、防音と安全対策がしっかり取れた、羽目殺しの窓だった。
更に、ここが7階となれば、逃げるのも助けを呼ぶのも無理に等しい。
「案外、冷静なんだな」
「……!」
瞬間、男が姫奈に声をかけてきて、姫奈は恐る恐る振り向いた。
すると男は、ナイフをしまい、何故かフードを下ろしていた。ずっと見えなかった顔が、明るい場所に晒される。
自宅で対面した時も思ったが、どう見ても顔見知りではなかった。
細身で長身のその男は、アッシュカラーの髪をした若い男。灰色がかったくすんだ髪色と、襟足の長いウルフカットが特徴的だった。そして、カーキ色のモッズコートとオシャレな黒のスニーカー。
顔立ちも、どちらかと言えば綺麗な方で、まさにバンドのヴォーカルでもやっていそうな出で立ちだ。
(っ……なんで)
だが、なぜ顔を晒したのか、姫奈にはそれが理解出来なかった。そして、それと同時に不安が更に増していく。
顔を見せたということは、生きて帰す気がないのではないかと……
「もっと、ギャーギャー喚くかと思ってた。怖くないの?」
「…………」
「あぁ、口塞いでたんだったな。まぁ、いいか。そこの景色、綺麗だろ。このスタジオ、この部屋にだけ窓があるんだ。おかげで、観覧車がよく見える」
まるで、世間話でもするように言われた。
確かに、窓の外を見れば、奥の方に観覧車が見えた。
ショッピングモールの屋上にある、あの大きな観覧車だ。それが、ゆっくり回って動いているのが、目視でも確認できる。
──カタン。
すると、男は姫奈から離れ、部屋の中を移動し始めた。
部屋の奥を見れば、何に使うのか分からない工具やら木箱がいくつか置かれていて、廃ビルだけあり、乱雑な印象をうけた。
男は、その木箱のひとつに腰掛けると、姫奈を攫う前に、どこかの店で調達していたのか、ナイフとは反対の手に持っていた袋から、飲み物やパンを取りだした。
「食べる?」
姫奈にむけて、男が問いかける。姫奈は、それを見て「いらない」というように首を振った。
男から渡されたものなんて、恐ろしくて口に出来ない。万が一、眠らされでもしたら、何をされても気づかないし、毒でも盛られたら、一巻の終わりだ。
すると、警戒する姫奈の前で、男は悠々と食事を取り始めた。
未だに、目的のわからない男と二人きり。
姫奈は恐怖に怯えつつ、また矢印さまに問いかけた。
(矢印さま、矢印さま……私が攫われたこと、皇成くんは、気づいていますか?)
迎えに来てくれるはずだった。
それなのに、家からいなくなってしまって、その後の皇成のことは、ずっと気になっていた。
すると、矢印様は、また姫奈の問に答えた。『気づいている』と『気づいていない』と書かれた二枚のプレート。
そして、矢印さまが指したのは──『気づいている』と書かれた白のプレートだった。
(っ……気づいてる)
胸の奥に渦巻く不安が、少しだけ軽くなる。攫われたことに、気づいてくれてる。それだけでも、微かな希望を感じた。
(大丈夫……きっと、助かるわ)
皇成くんが、見つけにきてくれる。
きっと、きっと、皇成くんが、助けに来てくれる。だって、皇成くんには、矢印様がついてるんだから……
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