第58話 もう一回
「あの……おっぱい、揉みますか?」
「え?」
一瞬、空耳かと思った。まさか、あの姫奈が、そんなことを口にするとは思えなかったから。
「えっと、何をって……?」
「へ? あ、あの、だから……私の胸……を……っ」
だが、改めて聞き返せば、姫奈は急激に頬を赤くし、その後、俯いた。
今にも溶けるんじゃないかってくらい赤く火照った顔と、子ウサギのように震える姿が、なんとも可愛いらしかった。
だが、その恥じらう姿を見て、皇成は、先ほどの言葉が、空耳でなかったことを自覚する。
(え? まさか、本気で?)
本気で、言っているのだろうか?
胸を揉みますか──と?
「……ッ」
すると、そう気づくや否や、一気に体が熱くなった。心臓がドクドクと暴れ回れば、内側からは、燃えるような熱が湧いてくる。
これは、誘われてるのだろうか?
ふたりきりになったとたん、そんなこといわれるなんて……!
「あ、あのね……直接触れるのは、まだ恥ずかしいけど……服の上からなら……大丈夫だから」
「だ、大丈夫って……っ」
「だって、こう言ったら、男の人はみんな元気になるって聞いて……っ」
「え?」
「皇成くん、最近、元気なかったでしょ? なにか悩んでるみたいだったし、すごく疲れてるみたいだし……だから、少しでも……元気になってくれるならと……思って……っ」
「…………」
途切れ途切れに言葉を紡ぐ姫奈は、未だに恥じらいの表情を浮かべていた。
だが、元気がない──そういった姫奈の言葉に、この大胆発言の意図が、少しわかった気がした。
(もしかして、俺のために?)
元気のない彼氏を心配して、元気づけようとしてくれたのだろうか? そんな、誘うようなことまで言って?
「……っ」
そう気づいた瞬間、熱くなった体が、更に熱を帯びたのが分かった。
姫奈の優しさや思いが、自然と心に染みわたる。それなのに、その姫奈を、もう直、失ってしまうかもしれない。
自分が『映画館』を選択したばっかりに──
「っ……ひな」
刹那、微かな声が、室内に響いた。
かと思えば、無意識に伸びた皇成の手は、そのまま姫奈を抱き寄せていた。
小柄な姫奈の体は、皇成の腕の中に、すっぽり収まって、キュッと抱きつき、姫奈の細い肩に顔を埋めれば、姫奈は、突然の事に酷く戸惑っていた。
胸を揉まれる覚悟はしていても、抱きしめられる覚悟はしていなかったらしい。
不意をつかれ、顔を真っ赤にするが、その後、姫奈は、素直に身を委ね、皇成の背にそっと腕を回してきた。
自然と抱き合い、寄り添うような体勢になれば、早まる鼓動とは対照的に、不思議と心は落ち着いた。
姫奈の体は、とても小さくて、柔らかくて、少し力をこめれば、すぐにでも壊れてしまいそうだと思った。
だけど、今はこうして、確かな温もりがある。
それなのに、その熱が、あと数日で、失われてしまうなんて、やっぱり信じたくなかった。
「皇成くん……何を、そんなに悩んでいるの?」
まるで、身を切るような皇成の悲痛な声。それを感じとって、姫奈が問いかけた。
耳元で触れた姫奈の吐息は、やたらと優しくて、目の奥が自然と熱くなった。
言ってしまえば、楽になるだろうか?
もう、心配をかけないだろうか?
だけど、後、数日で死ぬかもしれないなんて、そんな話を聞かされたら、姫奈は、今日から怯えながら過ごすかもしれない。
なら、言えない。言いたくない。
姫奈には、知らせずに何とかしたい。
いや、何とかしなきゃいけない。
「皇成くん?」
すると、再び姫奈が呼びかけて、皇成は、今一度、姫奈の体をギューッと抱きしめた。
まるで、その熱を身体中に刻み込むように、深く深く肌を重ね合わせると、それから暫くして、皇成は、ぱっと姫奈から手を離し、代わりに笑顔を向けた。
「ありがとう! めっちゃ元気出た!」
「え、ホント?」
「うん! でも、ゴメン。いきなり抱きしめたりして」
「うんん、いいの」
皇成の笑顔につられて、姫奈も安心したように微笑んだ。
衝動的とはいえ、少し大胆なことをしてしまった。だが、こうして触れ合ったおかげで、守りたいという気持ちが、より明確になった気がした。
「ねぇ……皇成くん?」
「ん?」
「あの……もう一回、抱きしめて……?」
「え?」
だが、その後続いた言葉に、皇成は瞠目する。
「も、もう一回って……っ」
「お願い……少しだけでいいから……」
まるで、ねだるように上目遣いで見つめられば「受け入れる」以外の選択肢なんて、一切浮かばなかった。
皇成は、こくりと頷くと、その後、両腕を広げ、先程よりも遠慮がちに、姫奈を抱きしめた。
二度目の抱擁は、さっきより冷静なのか、姫奈の髪の香りを嗜む余裕すらあった。
誰もいない家で、ふたりきり。
恋人同士らしい甘い時間に酔いしれる。
目を閉じれば、姫奈の心臓の音が、自分の音と重なって聞こえてくるような気がした。
姫奈の音。
姫奈が、生きている音。
それを噛み締めていると、それからしばらくして、姫奈が静かに囁いた。
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