第13話 欲しいもの

 薄暗い廊下を歩む影がある。


 薄青色の空に浮かぶ月は白じんで薄くなり始め、じきに溶けるように地平線の彼方に沈むだろう。


 その影は部屋の前で足を止めると耳を澄ました。部屋の中からは物音ひとつ聞こえてこない。


 それを確認してノブに手をかけるとギィ……と軋む音を立てながらドアは開かれ、正面にある窓から差しこむ淡い月明かりがベッドで眠る少年の顔を照らしているのが目に入る。


 静かにドアを閉めると、影は安らかな寝息を立てる少年のそばへ歩み寄って傍らでひざまずき、少年の顔をのぞきこんだ。


 長いまつ毛に無防備に力の抜けた眉。薄く開かれた薄紅色の唇からはすうすうと気持ちのよさそうな寝息がもれている。


 そんな少年の顔を静かに見つめてから、影はそっと手のひらを少年の額にあてた。少しひやりとした感触。だけどしばらくすると、ほんのりとした温かさが手のひらに伝わってくる。


 影は安堵したように小さく息を吐くと、おもむろに少年を挟むように両手をつき、スプリグを軋ませながら上体を覆いかぶせた。


 眼下に見下ろす少年の寝顔はとても美しく、その寝顔を見つめる群青色の瞳が小さく揺らぎ細められる。

 

 上体をゆっくり下ろして顔を近づけると少年の吐息が唇をかすめ、影は瞳を閉じて唇を重ね合わせた。互いの唇からこぼれる吐息は熱く、その熱に呼応して鼓動も早くなる。


 一度目は純粋に、彼の命を助けるためだった。

 二度目は義務感からだった。保護した以上、見放すことはできない。そう自分に言い聞かせたが、心のどこかで喜びが生じ始めたことに影は気がついた。

 三度目に至っては欲がでた。もっと少年に口づけていたい。そんな醜悪な欲が。


 バレリアの呪いは魔道具で防いでいる。つまりこの衝動は少年自身がもつ魅力によって引き起こされるのだ。


「愚かだな、わたしは」


 唇を離し、影は自嘲の笑みを浮かべる。


 できることなら離れた方がいいのだろうが、そうもいかない。こんなことを他人に頼めるはずもなく、少年の身を引き受けたのは自分なのだ。


 愚かにも身を焦がそうと、決して少年に気づかれないように接しなくてはいけないだろう。


 少年があるべき場所に戻るその日までは。




 ◇




 今朝もまた、窓から射しこむ朝日に照らされながら朝食をとっていたマーリナスがおもむろに口を開く。


「なにか欲しいものはないか」


 毎朝マーリナスは同じ質問をする。


 いつもなら決まったように「なにもありません」と返すアレクだったが、今日はいつこのセリフが飛び出してくるのかとそわそわしていたのだ。


 アレクはカトラリーを置くと、あらかじめ心に決めていたセリフを口にした。


「では……僕に仕事をください」


「なんだと?」


 思いもよらぬセリフに、マーリナスは危うく手にしていた珈琲カップを取り落とすところだった。


「外で働きたいとかそういうことじゃないんです。マーリナスは仕事が大変そうだし、自宅でもできる書類整理とか……雑務とかなんでもいいんです。少しでもあなたの助けになることがしたいんです」


 そんなことくらいでしか頂いた恩を返すことはできないだろう。


 そう思えばこそ考えついた案だったが、マーリナスは困ったように眉根を寄せて黙りこんでしまった。


「ダメ……でしょうか」


「いや」


 警備隊長であるマーリナスが取り扱う事案はもちろん機密事項の高いものが多い。それをアレクに見せることはできないし、雑務というなら他にも任せているものはいる。


 部外者が警備隊の職務に関わるのはご法度だが、職務内容が読み取れない業務ならば委託しておこなっているものあるし、大丈夫だろう。


 それにただ黙って家にいるよりは、仕事をあてがった方が意欲的に生活できるかもしれないとマーリナスは思案する。


「わかった。だが警備隊の職務は雑務であろうとがくがなければできないぞ」


「やれるだけやってみます」


 嬉しそうな笑顔を浮かべたアレクをマーリナスは目を細めて見つめる。


 だいぶ甘くなってしまったなと、そんなことを思いながら。

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