人影

 youtubeで次に見る動画を探そうとホームに戻れば、スマホの上部に『2:13』の表示。もうこんな時間か、とスマホの電源を落とした。のそのそと炬燵から這い出る。籠っている間に居間の空気は随分と冷え込んだらしく、丁度よく火照った体ではまるで太刀打ち出来なかった。ぞわぞわと肌に冷気が走る。炬燵を見れば自分がうつ伏せで潜り込んでいた形跡が綺麗に残っている。巣穴の口のようだった。おいで、おいでと暖かい空気を漏らしながら誘いをかけてくる。思わず乗ってしまいそうになるが、これ以上遅くなるのは朝に響くと、目の前に広がる口を閉じた。

 炬燵の電源が入っていないことを確認して廊下へ出た。寝室は二階だ。階段の側にあるトイレで用を足す。その後は玄関の鍵をチェックする。上下ともに閉まっていることを確認して、廊下の電気を消した。階段に足をかけて、次の足を止めた。スマホの充電器がない。明日の朝まで保つだろうか。ポケットから取り出して確認すると、充電の残りは三割ほど。少し心許ない。取りに行くか。炬燵の方へは廊下を通らずに和室から向かった方が近い。襖に手を掛けたところで、ふと、玄関が気になった。

 玄関にはめ込まれた磨りガラス。その向こうには夜の闇よりも暗い影。

 車の影か? ……いや、それにしては細い。もしかしたら……誰かが。

 ばくん、ばくんと心臓が早鐘を打つ。足元から冷気が脳天まで突き抜ける。総毛立った。

 何も見なかったことにして寝よう。鍵は閉まっている。大丈夫だ。誰かがいても入っては来れない。

 ただ、そんな気持ちの中に『見てみたい』という好奇心が顔を並べていた。あの影は何だ。何がいるのか。誰がいるのか。直接見て確かめてみたい。ビクビク震える口元は、片側だけが不自然に吊り上がった。

 唾を飲み込む。

 一歩、玄関の方へと踏み出す。

 たかが一歩ではあるが、それは好奇心の勝利を意味していた。足はまだ震えている。しかし、確かに二歩目を踏み出していた。三歩、四歩、と近づき、覗き穴まで辿り着いた。

 限界まで鼓動が早まる。シャツは嫌な汗でびっしょりだ。ぎゅっと口を結び、歯を噛み締める。

 ……さあ、覗くか。大丈夫、ちょっと覗くだけ。

 恐る恐る覗き穴に目を近づけた。

 見えたのは黒。真珠のような黒だった。それ以外、何も見えない。

 ……何だこれは。夜の暗さか?

 覗き込んだまま考えていたが、眺めが変わる様子は一向にない。

 単なる見間違いだったのかもしれない。考えすぎだったか。

 ホッとした気持ちと同等以上の落胆を覚えながら、もう寝るかと覗き穴から目を離そうとした。

 ギョロッと、黒が動いた。そして見えたのは白。端の方には薄赤い線も見えた。

 ひっ、と情けない声が漏れる。同時に体ごと後ろへ逃げた。逸る上半身に下半身は置いていかれ、土間と床との段差に背中を打った。ジンジンと熱を持つ背中。だが、そんなことを気にしている場合ではない。腕で体を滑らせるように後ろへと送った。

 静止していた影が動きだした。倒れ込んだ時の音で刺激してしまったのだろうか。

 バン! とドアに両手が叩きつけられる。磨りガラスにはくっきりと手のひらの影が。ひしゃげた声しか上がらない。体はただ震えるばかりだった。

 縮み上がった獲物の気配を察してか、バン! バン! と続けてドアが叩かれる。

 叩かれるばかりではない。ドン、ドンと鈍い音も加わってきた。ドアの向こうでは影が躍動している。拳や蹴りも混じっているのか。

 軋むドアは耳に障る悲鳴をあげている。それに相手の嗜虐心が昂ったのか、ドアへの暴行はさらに激しさを増した。今にも突破してきそうな勢いだ。

 そして嫌な音がした。磨りガラスにヒビが入ったのだ。その一撃は頭突きだった。ひび割れに血が滲みだす。透けて見えるのは黒い髪。その下では双眸が煌々と輝いていた。

 もう堪らない。慄く体に鞭打って何とか二階へ這い上がる。寝室に着けば逃げ込むように布団の中へと体を押し込んだ。

 隣の部屋では両親が起き出した気配がする。『何だ何だ』と言いながら階段を下っていく音を、布団の中で聞いた。

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