落蝶

伊島糸雨

落蝶


 蝶はいつも気まぐれだ。

 うねうねと這いずって、溶けて、羽を手に入れたかと思えば、フラフラとおぼつかない軌跡を描いていく。

 蝶は、ずっと身勝手だ。

 見惚れる人間のことなんて気にもせずに、どこかへと消えていってしまう。

 急に現れて、何もかもめちゃくちゃにしておきながら、そんなことまるで気に留めちゃいないみたいに、平気な顔して佇んでいる。

 テレビをつけると、画面いっぱいに蝶の大群が映し出された。

 黒い羽ばたきの中にある赤い模様は、こちらを凝視する瞳のようにも見える。

 日本各地で蝶害。そう記されたニュースのテロップは、危急の事態を知らせるように赤々と染まっていた。

『──現在日本各地で蝶害警報が発令されています。各地にお住いのみなさまは、窓などを厳重に閉め外出しないようにしてください。また、外出されている方は、すぐ近くの建物に避難してください。繰り返します──』

 ニュースキャスターは普段より強く張りのある声で、同じ内容も幾度も告げる。

 ばちばちと何かがガラスにぶつかる音が、カーテンの奥で絶え間なく響いていた。

 蝶害担当省庁の会見の音声と、記者が焚く眩いフラッシュが、薄暗い室内を青白く染め上げる。リモコンを手にしたまま振り返って、「先輩」と呼びかける。

 視線がぶつかった。その人はただ静かに「うん」とだけ返事をすると、私のことを見つめて、次の言葉を待っている。

 後頭部のさらに後ろで響く音が、ざりざりと日常の表面を引っ掻いている。最近は蝶が羽ばたくたびに、世界は元からこんなだったろうかという思いが鎌首をもたげて、私はそれを切り落とせないままでいる。

「先輩は、蝶なんじゃないですか」

 問いかけると、彼女は目元まで届きかけた前髪の奥から、凪いだ瞳で私のことを見つめた。

 その虹彩の色は、黒の簾に隠れて判別がつかない。明るい茶色のような気もするし、もっと赤みがかっているようにも思えた。

「そうなのかな」

 先輩はいつものゆったりした調子で、問いを返す。

 自信なんてこれっぽっちもないみたいに、自分というものをどっかに落っことしてきたみたいに。

 空虚な人だと思う。

 目を合わせると、真っ黒くて深い闇の中に落ちていくような気がする。

「……私は、そう思ってますけど」

「じゃあ、きっとそうなんだろうね」

 柔らかく艶やかな髪が、ひそやかに揺れる。

『──今回の種は半年前の蝶害で確認されたタテハチョウの一種であり、特徴からクロヒカゲチョウの近縁種である可能性が高く──』

 ばさばさと、蝶が羽ばたく音がする。

 ばちばちと、蝶が死んでいく音がする。

「私は、蝶なんだろう」

 先輩が、影の奥でにこりと笑う。


 *     *


 二十年前、突如現れた蝶の大群が北京の街を覆い尽くした。それが世界で最初の蝶害で、中国の首都は何もできずにめちゃめちゃになった。

 どの店もどんなオフィスも蝶の死骸でいっぱいになって、秘伝のスープの油膜の上には鱗粉が浮いた。蝶が気道に詰まって死んだ人がいたし、自動車の排気口も塞がって動かなくなった。人の死体も車の残骸もぜんぶに蝶がまとわりついて、生きているやつは人間の皮膚の上で交尾をした。

 蝶の群れは、たった一日足らずでどこかに消えた。ほとんどは死に、足りないぶんは跡形もなく消失した。そもそも、どこから現れたのかもわからなかった。

 蝶が飛んだ翌日、街は一様に黒く染まる。

 その色を構成する一つ一つは、ばらまかれた薬剤によって殺された蝶の死骸だ。役所の派遣した処理班がせっせとかき集めて焼却しても、一通り片付くのに一週間弱はかかる。遠く焼却場にたなびく煙の糸は、鱗粉のせいか妙にきらきらとして、晴れた日には眩しくもあった。

 蝶害から数日は、動画配信サービスで映画を見ることで時間を潰すのが常だった。とてもじゃないが外にでられる状況ではなかったし、ベランダを掃除するだけでも一苦労だったからだ。

 私は大学を休み、先輩はどこに連絡するでもなくいつも通り家にいる。ソファに腰掛け、テレビの光を正面から受ける。時折横目で顔を見るものの、普段からバリエーションに乏しい表情に変化はなく、まともに画面を見ているのかも正直怪しかった。

 先輩は、変わったと思う。全体としてのディテールを保ったまま、性質だけがごっそりと入れ替えられたように感じている。

 半年前、蝶が舞ったあの日から。

 以前の先輩は、一人で死んでいきそうな予感をさせる人だった。ゆるやかな日常の中で、当たり前みたいにふっと消えていなくなるような、そんな死に方をするものだと思っていた。

 今にしたって、早死にしそうなのもふっと消えてしまいそうなのも変わっちゃいない。けれど、前と違って、誰か一緒に消えてくれそうな相手を探しているような気がする。

 出不精だったのが、夜になるとふらりと出かけて、真夜中に音もなく帰ってくる。そんなことを繰り返していて、私がまだ起きている時なんかは、先輩が近くを通ると、嗅ぎ慣れない香水の匂いがふわりと漂うのだった。名前も何もわからないけれど、それが先輩のものでないということだけは、嫌という程よくわかった。

 何をしているのか、とは聞かなかった。先輩の行動パターンが変わる前から、お互いのブラックボックスな部分は探らないという暗黙の了解が成立していたからだ。無粋な質問はしない。野暮な詮索はしない。距離を保って、ゆるやかに、長く。それが私たちの関係にふさわしいと思っていた。

 先輩は空虚な人だった。変わる前も、変わった後も。

 主体性とか将来性なんて言葉は、先輩には似合わないと思っていた。何をするにも、仮に自主的にやっているように見えたとしても、なんだかそれは下手くそなポーズでしかないように思えてならなかった。誰かがやっていたことの模倣。映画で見たことの真似。演技の演技。磨りガラスに磨りガラスを重ねて、曖昧にぼかしてやり過ごす。そんな意図を、幻視している。

 先輩は、目鼻顔立ちも体型も整っていて背も高かった。だからより一層、その様子はなんだか不気味で、でも私は先輩のそういう雰囲気が気に入っていた。私なんかよりよっぽど人間性で失敗している人がここにいるという安心感があったのだ。

 先輩はきっと、私のそういう浅ましさに気づいていただろう。それをはねつけなかったのは、優しさなのか、無関心なのか……私はもう、よくわからなくなっている。

 あの日、蝶が舞った日。先輩は外出したまま帰ってこなかった。連絡しても繋がらず、ようやく姿を見せたのは、三日後の夜のことだった。

 玄関に立った先輩は薄汚れていて、無言でじっと私のことを見つめていた。私は動けないまま棒立ちでいて、しばらくすると先輩は脇を通り抜けて風呂場へと向かった。

 シャワーの水音に混じって、うっすらと香水の匂いが漂っていた。どんなものだったかは、もう思い出せないけれど。

 私には、先輩がわからない。

 付き合いはそれなりに長いし、生活を同じにするようになってからも何年か経つ。これまでの日々の中で、いくらかは理解できたような気がしていたのに、振り出しに戻った気分だった。

 先輩は魅力的だ。だからこそ、不意に現れては生命を殺し自らも堕ちていく、あの蝶の群れとよく似ている。

 ふらふらとして得体が知れないところも、いつの間にか変質して、理解から遠く離れていくところも。

 そうやって置き去りにしていくから、一人ではぐれて、仲間を探す羽目になるのだ。

 私はかつて、先輩の仲間でいられたのだろう。けれど、今はきっとそうじゃない。

 私も、先輩も、孤独の癒し方がどうしょうもなく下手くそだった。

 どんな羽ばたきも、いつかは堕ちる。そんなのは、わかりきったことだったのに。


 一人の女性が、先輩の腕の中にいる。

 立ったまま抱きすくめられて、首筋の曲線を先輩が覆い隠していた。女性は力なくぐったりとして、先輩にもたれかかっている。微かに覗く肌の色は、蒼白に染め上げられていた。

 窓の外、糸のように降りしきる雨の景色を背景にして、濡れそぼった先輩の足元に水たまりができている。チカチカと瞬くテレビの光とともに、ニュースキャスターの声がくぐもって響く。『──蝶害について新たな情報が出ました。クロヒカゲチョウに類似するとされていた蝶は、その特性として生物の体液を養分とし、かつ非常に高度な擬態能力を持つとのことで──』

 廊下で立ち竦んで、声も出なかった。先輩が口を離した先で、赤色の混じった唾液が、細く垂れて糸を張った。

 女性の首には、小さな穴が一つ空いている。

 一切を言葉にできないまま、私はすべてを理解する。

「先輩、は……」

 喉は渇ききって、空気が擦れるたびにむせそうになる。薄暗い部屋の中、雨のカーテンを透過する月明かりを浴びて、彼女が緩慢な動作で首を曲げる。「なに?」と、いつもと変わらない様子で、影の奥でにこりと笑う。

「先輩は、一緒に堕ちる相手を、探してるんじゃないですか」

 彼女の双眸が私を捉える。その虹彩は、蝶の羽の模様のように、仄暗い赤色をしている。

「そうなのかな」

 ゆっくりと拘束を解かれた女性が、支えを失って床に倒れこむ。先輩は私に迫り、眼前の鼻梁が描く曲線を、不思議と美しいと思った。

 粘つく唾を飲み込んで、視線を合わせる。真っ赤な鮮血の泉の中に、溶けていくような気がした。

「……私は、そう思ってますけど」

 秘められた真実を暴くように、滑らかな髪が静かに揺れる。

 ひらひらと、蝶が羽ばたく音がした。

「じゃあ、きっとそうなんだろうね」

 彼女はそう言って、私の身体に手をかけた。

 彼女の唇が、首筋に触れる。同時に激痛が走るけれど、身体が動くことはなかった。彼女がその口で吸い込むたびに、指先から急速に、痺れ、感覚を失って、微睡みの気配に襲われる。

 先輩の肩口から見える世界を、二頭の蝶がひらひらと横切っていく。

 目を閉じた先、霞み行く頭で、思う。

 蝶よ、どうか堕ちて行け。

 絡み合って、死に果てるまで、ずっと、ずっと。

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落蝶 伊島糸雨 @shiu_itoh

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