覚悟と現実
12月20日(木)
咲希は自宅で昼食の後片付けをしていた。1人分ともあって、今日は冷凍食品で手軽に済ませていた。
ダイニングにあるテレビでは、クリスマス特集番組が流れている。夜景スポットやクリスマスイベントの紹介、恋人へ贈るプレゼントランキングなどが放送されていた。
今の自分には無縁な話だと、あまり意識を傾けておらず、使った皿を洗いながら昨日の夜のことを咲希は思い出していた。
カクテルを1杯飲んだだけで、随分と酔ってしまった。帰りに、マスターがタクシーを店の下まで呼んでくれたことは覚えているが、アイエツで代金を支払ったかどうか、記憶が曖昧だった。
咲希は洗い物の手を止め、キッチンのテーブルに置いてあるバッグから財布を取り出し、中身を確認した。出掛ける前と万札の枚数が変わっていないように思えた。後でアイエツへまた電話しようと咲希は考えていた。
洗い物が終わり、テレビを消して一息つくと時間を確認した。午後の1時16分だった。
悟は昨日も帰って来なかった。それでも、彼がいつ帰って来てもいいように、今日もまた掃除をするつもりだった。だがその前に、やるべきことがあった。
咲希たちの家は3LDKの分譲マンションだった。掃除機をしまっている納戸の隣にある部屋は、悟が書斎として使っている。
咲希はキッチンを出て納戸を通り過ぎ、その部屋の前で立ち止まった。
昨晩アイエツで決心したように、悟のことを泣いて待つのではなく、自分から行動しなければ状況は変わらないと、改めて考えていた。
思い返せば、モラハラが始まった頃から、この部屋には絶対に入るなと悟に強く言われていた。冷静に考えると、ここに何かがあると悟は吐露しているようなものだと、咲希はようやく気付いたのだ。
その何かを知ることに、少し怖くもあったが、咲希の気持ちは固まっていた。玄関に鍵が掛かっていることは確認済みだった。不意に悟が帰って来ることを想定して、なるべく短い時間で調べなければならない。咲希はドアノブを握り深呼吸をして、部屋へと入った。
約半年ぶりに入るその部屋は広さが約5帖の洋室で、以前と全く変わらなかった。デスク横の壁一面の本棚と、小さなクローゼット、端に置かれたスタンドミラーが1つ-見渡す限り、増えた物などは見当たらなかった。
咲希はまず、本棚から調べることにした。全ての本を把握しているわけではないが、並んであるほとんどの本に見覚えがあった。
融資、営業、経済など、銀行員である悟が勉強するために買った本や、今話題の仮想通貨に関する本もあった。
悟に勧められて咲希も読んだことがある本も並んでいた。そのうちの1冊を手に取り、冒頭を少し読んでみると、昔を思い出し懐かしい気持ちになった。
映画化もされたその本は、ある大物作家のミステリー小説だった。主人公が愛する人を守るために殺人を犯し、敏腕刑事によってそのトリックが見破られるというストーリーだった。
この作品の映画は悟と一緒に観に行っていた。主人公が、実らないと分かっていながらも、愛を告白するラストシーンに、2人とも大泣きしていた。
映画の後に行ったレストランで、作品の感想を語り合いながら食事をしたのを今でも覚えている。咲希は、懐かしさから自然と笑みが零れていた。
本を元の場所へと戻し、懐かしむ気持ちを切り替えた。本棚に問題はないようだった。
次に、デスクとノートパソコンを探ることにした。とは言っても、引き出しがないタイプのデスクだった。上にはノートパソコン以外は何もなかった。
咲希はパソコンを開き、電源を入れた。立ち上がった後、中身を確認しようとしたが、やはりロックがかかっていた。
これにはお手上げだった。咲希は機械に弱い上、パスコードなど検討もつかなかった。しばらく考えた末、潔く諦めることにした。苦戦すると分かりきっていることに、時間をかける訳にはいかなかった。
残りはクローゼットのみになった。椅子から立ち上がり、クローゼットの前に立つ。この部屋に入ってから、なぜか1番緊張していた。
ここに何もなければ、もう行き詰まることになるような気がした。それとは逆に、何かがあったとしても、それを受け止められる自信があるとも言えなかった。
気持ちが不安定なのは明らかだったが、覚悟を決め、クローゼットを開けた。
中には、1枚だけ掛けられた部屋着用の紺色のカーディガンと、黒いキャリーバッグしかなかった。
悟の洋服類は、殆どが寝室のクローゼットにしまってある。咲希の知らないところで悟自身が買っていなければ、洋服類がここに全くないのは当たり前だった。
カーディガンは、咲希が2年前のホワイトデーに贈ったものだった。着心地がいいからと言って、悟は買い換えずにずっと使ってくれていた。
少しくたびれたカーディガンを手に取ると、悟の匂いがした。この半年間、この匂いに包まれることもなくなっていた。咲希は、寂しさが込み上げてくるのと同時に、恋しくてたまらなくなった。
深くゆっくりと深呼吸をして、カーディガンを元に戻し、今度はキャリーバッグを手に取った。
手に取っただけで中身が入っていないと分かるほど、軽かった。開けてみるとやはり、何も入っていなかった。
咲希は1つ溜息をつき、キャリーバッグを閉じようとチャックを手にした瞬間、ふとあることに気付いた。
帰らないとメールが来た時は、悟がいなくなったことへのショックと、自分のことで頭がいっぱいだったせいか、考えることさえ後回しになっていた。
悟は着替えも持たずに、どうしているのだろう…どこに泊まっているのだろう。
メールが来た日の朝は、いつものように出社した。スーツ姿で、仕事用のバッグを持っていた。つまり、朝の時点では帰宅する予定だったということになる。
出社してから、メールを送信するまでの間に何かがあり、帰らないと決めた、と考えるのが合理的だった。
1番考えたくはなかった可能性が濃厚になりつつあることに、咲希は頭がグラグラし始めていた。
悟は浮気しているのではないか-考え始めると様々な妄想が止まらなくなりそうだった。しかし、考えないようにすることなど既に不可能だった。
メールに書いてあった「 しばらく 」とは、果たしてどれくらいの期間なのだろうか。何日もとなると、愛人の家で寝泊まりしていると考えるのは、決して不自然なことではなかった。
着替えは悟が持っているクレジットカードで買うことも可能だった。何枚かの下着とYシャツ、歯ブラシや剃刀なのど洗面用具さえ買ってしまえば、食費以外は大した出費もない。
安いビジネスホテルでも、何泊もとなればそれなりの金額になる。朝は帰宅予定だった悟の突発的に出た行動の先が、ビジネスホテルの連泊とは、どうしても考えにくかった。
確定した訳でもないのに、その可能性が咲希の頭の中の殆どを占めていて、全身の力が抜けたように、ふらふらしていた。
何とかキャリーバッグを元に戻し、そのまま座り込む。咲希は泣いてしまいそうだった。顔が歪み、口は段々とへの字口になっていった。
「 あとひと踏ん張りなのかもしれません 」
どこからか、マスターの声が聞こえた気がした。その言葉に自分は心を動かされ、必ず取り戻すと決めた筈だった。まだ何かを見つけた訳ではない。
咲希は泣くのをぐっと堪え、顔を上げて天井を見つめた。
ふうっと大きく息を吐き、視線を戻そうとした時だった。クローゼットの上部に幅の狭いスペースがあることに気付いた。
立ち上がって背伸びをして見ても、奥までは目視できない高さだった。咲希はデスクの椅子を運び、それに乗り上部を覗いた。
そのスペースの奥には箱が1つ置いてあった。咲希は腕を伸ばし、その箱を引っ張り出した。それは2L飲料水1ケース程の大きさの白い箱だった。咲希は椅子から降り、恐る恐る蓋を開けて中身を確認した。
中には紙袋と大きな封筒が入っていた。紙袋には有名なブランド名が印刷されている。中を確認しなくても、それがプレゼントらしき物だと分かった。大きさからいくと、装飾品か小物だろうか-クリスマスも近い。
やはり悟には愛人がいて、このプレゼントを咲希に見つからないよう準備し、隠していたのではないか…それ以外はもう思いつかなかった。
モラハラ化した悟が咲希にプレゼントしようと隠していたという可能性は低かった。
冷たくなった夫、帰らない夫、隠されたプレゼント-全てが繋がり、答えが出た。
咲希は絶望し、我慢していた涙が一気に溢れだした。自分はこんなにも悟を愛しているのに、悟は1人どこかへ行ってしまった。以前のような2人に戻りたいと、精一杯努力をした。それも結局は一人相撲だったと、虚しさと悲しみで咽び泣いていた。
止まらない涙を拭って、洋服の両袖はしっとり濡れていた。涙の勢いは収まったが、咲希は呆然として座り込んだままだった。
悟が帰って来たとしても、どう話せばいいのか、話したところで修復は可能なのか、今の咲希に分かるはずもなかった。
視線を落とし箱の中を見ると、大きな封筒の存在を思い出した。これ以上何が出ようと、動じることはないと咲希は思った。
中を覗くと写真が入っていた。咲希は封筒に手を突っ込み、全部取り出した。
写真を見た瞬間、血の気が引いた。
「 ひぃっっ 」
咲希は小さく悲鳴を上げ、写真を投げ捨てていた。バサバサと音を立て床に写真が散らばる。咲希はぶるぶる震えながら倒れ込んでしまった。
床一面に広がった写真全てに、咲希が写っていた。それもかなりの枚数だった。
それらの全て、咲希が外出している時の写真だった。友達とのランチ、料理教室、スーパーでの買い物…咲希が見てもいつのものか分からない写真まで何枚もあった。
愛人を外で作り楽しんでいながら、家では妻に辛く当たり監視まで行い、最後は閉じ込めた-悟という人間に恐怖を感じ、全身の震えが止まらなかった。なんとか震えを抑えようと両腕を掴み、蹲るが無駄だった。
今にも玄関から音がしてこないかと、怯えていた。あんなに恋しがっていた悟と会えない今の状況に、咲希は安堵せずにはいられなかった。
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