幸せを求めて
12月19日(水)
アイエツの噂は高妻咲希が通っていた料理教室で耳にしたことがあった。にわかに信じ難い話だと、ポストに名刺が届くまでその存在すら忘れていた。
名刺を見てその話を思い出した咲希は、すぐさま電話を手に取った。
幸せになれるというフレーズに、特別な魅力を感じていた訳ではなかった。その店の存在が真実か否か、定かでないことも分かっていた。咲希は、ただただ人恋しいだけだった。
この名刺により導かれ、自分を理解してくれる誰かに出会えるのかもしれないと、藁にもすがる思いだった。なぜ自分が選ばれたのかなんてことはどうでもよかった。
名刺が届いた日の夜8時に予約を入れ、咲希は期待を膨らませ店へと向かった。しかし、マスターと名乗る変わった風貌の男を目にした瞬間、自分の考えが浅はかだったと落胆した。
呆然として立つ咲希を、マスターはカウンター席に案内し、おしぼりを出した。そして、1杯目のお酒を静かに咲希の目の前へと置いた。
それはスプリッツァーというカクテルだった。白ワインをソーダで割った、味も見た目も爽やかで、アルコールがあまり強くはない咲希にぴったりなカクテルだった。
中には薄く切ったレモンが入っている。咲希はレモンが大好きだった。
「 お口に合えばよろしいのですが …」
そう言ってマスターは微笑んだ。その表情は気品と優しさに満ち溢れていた。
沈んだ気持ちが晴れていくようだった。もしかしたら、この人は今のわたしの気持ちを理解してくれるかもしれないと、咲希は思い直していた。
少しの沈黙の後、咲希は口を開いた。
「 わたしの話をしてもいいかしら?会ったばかりだけど、貴方と話してみたくなったわ 」
「 もちろん構いません。わたしで宜しければ聞かせてください 」
マスターは咲希の言葉に頷き、答えた。
「 結婚して今年で3年目になるの。夫は銀行に勤めていて、とても優しい人よ 」
咲希は頭の中で夫の顔を思い浮かべながら話していた。
「 子供はまだだったけど、授かりものだから焦る必要はないって言ってくれて。2人きりの生活を楽しんでいたわ。年に2回は必ず旅行にも行った。前回の札幌旅行も本当に楽しかったわ 」
咲希はグラスを手に取り、半分程の量を一気に口へと流し込む。
「 夫は本当に優しい人だったの。わたしのことをいつも思ってくれて…そんな夫に少しでも喜んでほしくて、料理教室にも通ったりしたわ 」
「 旦那様は喜んでくださいましたか?」
「 最初はね… 」咲希の表情が少しずつ曇っていった。
咲希は27歳の専業主婦だった。3歳年上の夫の悟とは友達が主催した合コンで知り合い、すぐに交際へと発展し、1年後には結婚した。
見た目は決して派手ではなかったが、悟は咲希にいつも優しく、誠実な男だった。結婚記念日や誕生日などのイベントは欠かさず祝ってくれた。
ある年のクリスマスはサンタに扮した悟が帰宅し、プレゼントをくれるというサプライズもあった。
会社を出た後、雑貨屋に寄って衣装を購入し、玄関前で着替えたのだと恥ずかしそうに言っていた。
そんな悟のことが咲希は愛おしくてたまらなかった。この人と出会い、結婚することができた自分は幸せ者だと心から思っていた。
「 あんなに優しかった夫が、半年くらい前から人が変わったように冷たい性格になっていったの。家事に少しでも気になる所があると指摘して、完璧にこなせと言うようになったわ。それは日が経つ毎にどんどんエスカレートしていって、わたしが外出することも嫌がった。夫のためにと通っていた料理教室も辞めさせられたわ 」
「 旦那様は、お仕事で何か悩みを抱えてらしたのでしょうか?」
「 わたしもそう思って話をしたわ。けれど、何度聞いても、何もない、うるさい、としか夫は言わなかった 」
咲希は深い溜息をつき、話を続けた。
「 典型的なモラハラ男だったってことよね。突然豹変するって聞いたこともあるけど、夫のモラハラ気質にわたしが気付いていなかっただけなのかも 」
始めの頃は、自分に問題があり、指摘される自分が悪いのだと思い込んでいた。自分が努力すれば、きっと前のような優しい夫に戻ってくれる筈だと信じていた。
全ての部屋を拭き掃除までこなし、洗濯物は常にカゴに何もない状態にした。買い物はスーパーの宅配を利用し、食事は栄養バランスに気を遣いながら夫の好物を毎日用意した。Yシャツはもちろん、パジャマにまでアイロン掛けをした。
今日こそはと、1日の大半を家事で費やす生活が続いた。それでも、悟の指摘や束縛が止まることはなかった。
「 モラハラは、エスカレートすると暴力にまで及ぶようになると聞きます。そのようなことは… 」「 それはないわっ 」
彼の言葉を塞ぐように咲希は声を荒らげた。その声に、自分自身もはっとし、残りのカクテルを飲み干した後、深呼吸をした。
「 ごめんなさい、大きな声なんか出して。みっともないわね 」
「 わたしの方こそ、大変失礼致しました、申し訳ありません 」
「 いいのよ、そう考えるのも無理ないと思うから 」
普段はほとんどお酒を飲まない咲希は、興奮したことで一気に酔いが回っていった。顔が火照り、心臓は激しく脈を打っていた。
そんな咲希に気付いたマスターが、別のグラスで水を差し出した。
「 大丈夫ですか?ご気分は悪くはありませんか?」
「 大丈夫よ、ありがとう 」
マスターのさり気ない気遣いが胸に染み渡り、咲希は今にも泣きそうだった。
誰にも相談せず、独りで抱えていた咲希は、誰かに優しくされるのが久しぶりだった。
「貴方には理解出来ないかもしれないけど、それだけならわたしも何とか耐えることができていたの 」
込み上げてくる涙を我慢しながら、咲希は話を続けた。
「 昨日、夫は帰って来なかった。しばらく帰らないって夜にメールがきたわ 」
咲希は、言葉を発する程に視界が歪んでいくのが分かった。我慢しようとする気持ちとは裏腹に、溢れ出した涙は止めることができなくなっていた。
自分の何が悪くて、悟があんな風になってしまったのか、いくら考えても分からなかった。メールを見た瞬間、遂には自分の存在意義を完全に否定された気持ちになり、絶望した。
止まる気配のない涙を手で拭っていると、マスターが新しいおしぼりを差し出してくれた。ほのかに甘い良い香りがする。
咲希はそれで顔を塞ぎ、声を出して暫く泣いていた。
「 ごめんなさい。捲し立てた上に泣いてしまうなんて…本当にみっともないわね、ごめんなさい 」
泣くことで頭がすっきりとし、冷静になれた咲希は、自分の失態が今更ながら恥ずかしくなり、必死で謝っていた。
「 大丈夫ですよ、お気になさらずに…それより、お客様に次の1杯を作っても宜しいでしょうか?もちろん、ノンアルコールで 」
「 ええ、ありがとう、お願いするわ 」
マスターの優しい表情はそのままだった。そして静かに話し始めた。
「 以前、わたしの周りにもモラハラで悩んでいる方がいらっしゃいました。彼女は憔悴し、身体も弱っていました。それでも彼女はまだ、旦那様のことを信じておられました 」
咲希は俯いた顔を上げ、マスターの顔を見つめながら話を聞いた。
「 悲しいことに、モラハラというものは、被害を受けた人にとって決して忘れられないことでも、する側のほとんどの人は無自覚で、自分のしたことさえ忘れてしまうのだそうです。自分の存在は夫にとって召使いのようで、酷い時には人として扱ってもらえないと、彼女は嘆いていました。そんな彼女はとうとう限界へと達し、泣きながら自分の思いを初めて旦那様に伝えたそうです。愛しているけれど、わたしを認めてくれない貴方とはこれ以上一緒に暮らせない、と 」
咲希は、まるで自分の話を聞いているような気分だった。彼女の気持ちは胸が痛いほど共感できた。
「 彼女は旦那様が仕事で留守のうちに家を出たそうです。そんなことをしたのも、結婚して初めてのことだと言っていました 」
「 それから…どうなったの?」
「 旦那様は彼女を探し当ててくれたそうです。仕事着のまま、食事も摂らずに。真剣な顔で謝罪をする旦那様が、久しぶりに彼女の名前を呼んでくれたと言っていました 」
マスターの顔からは笑みが零れていた。そしてまた話を続けた。
「 それから、すぐに全てが改善されたわけではなかったそうです。それでも、彼女は以前とは違う明るい表情になっていました。旦那様が妻としての自分をようやく認め、彼女もまた、自分の意志をきちんと伝えることができるようになったと、とても幸せそうでした。モラハラ気質のある人は、同じことを何度も繰り返し、一生治らないケースが多いと聞きます。でも、彼女たちのように改善できた夫婦もたくさんいるはずです 」
マスターは、作ったノンアルコールカクテルを差し出した。それはレモンが入った綺麗な空色のラムネードだった。
「 愛する人を悪く言われることは皆嫌います、先程のお客様のように 」
その言葉に咲希は驚いた。未だに夫を愛し、信じている咲希の気持ちを確認させるため「 暴力 」という言葉を使って、マスターは自分を試したのだと気付いた。
「 半年間、よく耐えて頑張りましたね。お客様ももう、あとひと踏ん張りなのかもしれません 」
レモネードの中の氷がカランと爽やかな音をたてた。
人恋しいなどではなく、結局自分は幸せを求めてこの店を訪れただけなのかもしれないと咲希は思った。
失くしたのであれば探せばいい。必ず取り戻し、また笑っていたいと思った。愛する夫と、以前のように-
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