4ー2「線香花火」
「お待ちのお客様、どうぞ」騰波ノがいつのようにレジ業務の対応をしていたら、思いがけない珍客が訪れた。
「やあ」といって片手をあげた男は、いつもの温厚な笑みで騰波ノの元にやってくる。
「杉田さん? 珍しいですね」
「随分と前にだけど、二人が働いてるお店にお邪魔するっていってただろう?」
「ほ、ほんとだ……すごい伏線回収だ……」
「そんな大袈裟な」と杉田は人差し指で白髪頭をかいた。
「今日は難波さんも出勤してるかい?」
「ドリンクの品出し中です。呼んできましょうか?」
「いや仕事の邪魔するのは申し訳ないんでいいよ。それより騰波ノ君は今晩、空いてそうかな?」
「あと三十分であがりです。難波さんもですけど……どうかしたんですか?」
「良かった。じゃあ難波さんと三人でこれでもどうかな? 少し季節的に早いかもしれないけど」
そういって杉田は、レジの近くに置いてあった、薄長い袋をレジ前にもってきた。袋の中には、カラフルな棒が何本も入っている。
「いいですね! 難波さんにもいっておきます」
「ありがとう。じゃあこれは僕に買わせてくれないかな」
「いいんですか?」
「ああ、最近アルバイトの給料が入ってね。僕は今から寮長にバケツでも借りられるか聞いてくるよ。多分三十分後には戻ってくる」
「わかりました。じゃあ俺は蠟燭とマッチを買いますね」
「すまないね、助かるよ」
「はい。じゃまたあとで」
☆
静かな夜の公園にて。じゅぽ、じゅぼおぉと粉末火薬が轟轟と燃え、炎色反応を利用した、色彩豊かな火花がシャワーのように光を灯していた。
「わぁ、綺麗」といった難波の手に握られた手持ち花火は、ルビー、エメラルド、サファイアという順に色を変えていく。その様は幻想的で、見る者を魅了する。
激しく燃えるのは一瞬で、散っていく色と煙は、ひっそりと侘しく、どこか儚さが漂ってくる。
「どうだい、たまにはこういう気分転換も、大事だろう」杉田は朗らかな声で二人に呼びかけた。
「そうですね! いつも講義にバイトと原稿ばっかりだったんで!」騰波ノは無邪気に、二本の花火を同時に振り回しながら楽しんでいた。
存分に楽しんだ三人は、花壇の煉瓦にちょこんと腰掛け、横並びになって線香花火を楽しんでいた。
こよりの先に詰められた火薬がパチ、バチバチバチっと火花になって弾ける。その燃える星のような輝きは、静かに一音をこぼして、消えていく。
「難波さんうまいね」と騰波ノがいった。
「確かに僕らの線香花火がいつも先に散る」
「へへ……私、実は線香花火が得意なんです」
「線香花火に得意とかあるの?」
「ありますよ。実家のおばあちゃんには、いつも、こう、いつも……いつ、」
ふと、火花に照らされた難波の表情が、氷のように固まった。それは忘れていた何かを思い出したかのような驚きにも見えた。騰波ノが心配そうに顔色を窺う。
「どうかした、難波さん?」
「っ……何でもありません。おばあちゃんは四十五度くらいがいいんだよって教えてもらったんです……」
「へぇ。俺もやってみよっと…………あ、消えた」
「興味深い教えだね、どれどれ、僕も………あちゃ、消えちゃったよ、ハハハ」
「二人とも肘の角度がなってません! 見ててください、こうですよ……ほらほら」
「おぉ!」
「流石だね、難波さん!」
無理に元気をみせる難波は、今にも泣き出しそうに見えたが、二人は何も気づかないフリをしていた。
線香花火を遊び終えた三人は、買ってきた缶ジュースを片手にベンチへと腰掛け、ぼんやりと空に浮かぶ大海を眺めている。煌めく星は神を結び、地上を優しく見守っていた。
「綺麗だね……」杉田が掠れた声を漏らした。
「ですね……」騰波ノも日常の忙しさを忘れ、この壮大な光景に目を奪われていた。
真ん中に座っている難波だけが、俯いていた。
「難波さん」杉田が彼女の名を呼んだ。
「見上げてごらん」
「…………」
「星を見るのが、辛いかい」
「…………はい」
「どうしてだい」
「私、……っ、私っ」
「そうか。随分と、苦しんだんだね」
「……そう、だと……思います……」ぽつり、と一滴の雫が難波のスカートを濡らした。
「なら、より見た方がいい、ほら」
彼女はゆっくりと顔をあげて、重い瞼をそっと開き夜空を見上げた。
「っ……うっ……うぅっ……」
みるみるうちに彼女の目には、雫が溜まっていく。震える下唇をぎゅと嚙み締めていた。
夜空で輝く美しい自然の宝石たちは、今の彼女の心には眩しく、締め付けるようにキュっと痛んだ。
「どうだい、綺麗だろ」
「っ……私……私っ」難波の嗚咽が混じる声を遮るように、ハンカチを取り出した杉田。
「使って」と彼女に差し向けた。顔を俯かせた難波は、ハンカチを震える手でゆっくりと受け取った。
「難波さん、いまから喋ることは、老人の戯言だと思って聞き流してもらっていい」
そういってから、杉田はまた夜空をぼんやりと眺めて黙った。そして自然なタイミングで喋りだした。それは童話を子供に聴かせる父親のような、優しい声だった。
「昔昔あるところに、愚かな若き小説家がいました。その小説家は人気者になりたい、お金持ちになりたい、すごい作品を書きたい。そう常々思っていました。それは何も間違っていません。認められたたいと思うのも物書きなら、小説家を目指す者なら、誰だって一度は
何故か横で聞いていた騰波ノの心が妙にざわついた。
「なんてね」杉田は明るくいってから、今度は普通に話しはじめる。
「小説は一つの小さな生命だ。そういったら多くの人々に嘲笑されるだろう。一人の若き小説家も、そうやって笑っていた一人だった。その若き小説家も、やがて年老いてからことの意味にようやく気づいた。慌て狼狽した年寄りの小説家は、必死に花を咲かせようとした。でもその頃にはとっくに枯れかけていて、瀕死状態だ。もう生き返れないかもしれない。それでもまだ、あの星のように輝かしい未来を恥ずかしげもなく夢見ている。だから年老いた小説家は、もし若き小説家が早々に星の輝きを見失いかけているなら、生意気にもこういうしかない」
騰波ノが見つめる夜空は、薄く滲んだ。
「――君の大好きで、夢中になって憧れた世界は、こうじゃないだろう――難波さん」微かに震える杉田の言葉。
その言葉に、難波は何度も、頭を静かに揺らしている。
「君の心根は純粋でとても優しい子だ。君の文章を読んでいると切実にそう感じるよ。それに君は良い読書をしてきた人の文章だということもよく分かる。その丁寧さ、親切さ、悲哀、優しさ、そういった人間の繊細な部分を拾える文章が君には書ける。それは君の持ち味だ。必ずその持ち味を求めてくれる読者はいる。今はまだその読者が明確に目に見えないかもしれない。不安もあるだろう。でも焦らなくていい。一歩一歩、着実に、自分の足で、進むんだ。そうすれば自ずと、想いは届くから……」
虫が鳴いている。静かな涼しい風は、三人の肌を優しく撫でていた。
「でも、私なんかが……」
「そうだね。一見、世界は広いように見えるし、実際広いしね。でも大丈夫。難波さん、ほら、あの星を見てごらん。あの赤い」
杉田が指差したのは赤い星。難波はゆっくりと顔をあげた。
「あれはね、僕みたいなお爺さんだ。そしてその隣のあの酷く輝いている星。あれはお爺さんの若いお孫さんだ。その他にも大きい星や小さい星が無数に散らばっている。みんなどれも個性的だし、色も寿命も、生まれた時代も住む場所も違う。でもね、みんなああやって同じ宇宙にいるんだよ。面白いだろ? 誰も地上にやってこない。元々彼らは人間だったのかもしれない」
騰波ノは軽く笑って、二人を見た。杉田と難波は、あのお爺さんとお孫さんのように並んで、同じ場所を見つめている。
「ああやって星もてんでバラバラだけど、地上の僕たちも向こうから見るとそうさ。変えるのはいつだって環境だったり、僕たち人だったりする。で難波さんは地上にいる。騰波ノくんも僕もここにいる。君は一人じゃない。生きることは小説を書くことに似ていて、孤独だよ。辛く苦しいことの方が多い。でもね、僕たちにはある。小説が、あるんだ。だからこそ小説が好きな自分を裏切っちゃあいけないよ。自分を大切に。共に生きる自分の小説を信じて。そうすれば君の心根は、いつか誰かを救う光になり、その光がまた君を救ってくれる」
木の葉が揺れている。一つ、赤い星が消えてなくなった。
「っ……ごめんなさい。私っ、私……小説を裏切るような真似して、ごめんなさい……ごめん、なさい」
「僕もあんまり人のことなんて言えないけどね……」照れたように頬をかく杉田。
難波は大粒の涙を頬に滑らせ、広がる星の海を見上げていた。それは神に懺悔する矮小な人の姿にもみえる。
騰波ノは横から黙って彼女をみつめていた。涙溢れる瞳に映った銀河は、とても美しい煌めき。泥の濁りは涙と共に流され、浄化していく。彼女が持つ本来の、月のような眩しい光がそこに宿っていた。
「私、書きます」
「難波さん、一緒に頑張ろ!」騰波ノはいう。
「はい!」
――あと三十日。今の私が出せる全てを込めて……新しい小説を書きます。
心声は深い底谷に吸い込まれた。
星がまた一つ、燃え尽きる。線香花火のようだった。
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