4―3「お気に召すまま」
月光だけが地上に強烈な視線をよこしている。それを見上げる姿が一人。騰波ノは、夜風を浴びようと軽い散歩に出掛けていた。
難波と杉田と花火を楽しんだ夜を思い出し、「露濡れの草風薫る静謐夜月の輝き見惚れるかな」などと、騰波ノは下手な歌を詠んでみる。
そのあまりの下手さに、慣れないことは上手くいかないな、と一人で笑う。
あれから十日ほど経った。難波はあの日から、メキメキと人が変わったように新作の小説を書き続けている。一皮むけるとはこのことか、と思えるほどの情熱が感じられた。
今晩から嵐のような悪天候の予定らしいが、それを感じさせない透き通った夜空だ。なのでつい軽い散歩のはずが、寮から七キロ以上も離れた辺りまで来てしまった。
それは単に気分が良いのと、漠然とした不安が思考を支配しているせいかもしれなかった。
――本当にこのままでいいのだろうか。なぜ小説なんだろう。小説で何をしているんだ俺は。俺たちは。小説で……何がしたいんだろう、と彼の心は見えない荒野を彷徨い続けている。
必修試験終了まであと二十日。空緒の様子も不明で、ランキングは最下位のままだった。
入学したての頃なら絶望に感じられた最下位だが、日々を増すごとに、以前の騰波ノとは違う、余裕を感じる瞬間があった。
だが内心は退学に恐れる日々で、歌を詠んだのも自分ではないような気もするのだった。
「ふぅ、少し休憩」騰波ノは自販機で甘めの缶コーヒーを買った。近くの公園へ寄り、ベンチへと腰掛ける。籠った熱が背中から抜け出す感覚は、複雑に絡まりあった思考の糸をゆっくりと解きほぐすようだ。
「きもちぃ」ぬるい風は、騰波ノの髪を揺らしている。公園や通りには、嵐の予報もあるせいか、誰も歩いていない。静かな夜の時間が流れている。
騰波ノはゆっくりと深い海に潜っていくような、精神が一つに収束していくような感覚に浸っていた。
――みんな誰だって退学なんてしたくない。高額な学費、卒業のことを考えると至極当然だ。
この試験を乗り切るならどんな非道だって行う。そもそもPV集めを目的として書く作品は非道なのか。それを言うならばプロの世界は、いつだって非道だ。
売上、人気、流行のおかげで多くの人が豊かに生きることが出来る。別に誰かを痛め傷つけるわけでもない。
でも満場一致で手を取り合えない。何故だ。痛め傷ついている人がいるから? 誰だ、そんな奴はいない。
仮にいたとして、勝手に傷ついているのは、勝手な誰かで、それをいちいち気にしていたらこっちがもたない。
良い作品が良くないとか、良くない作品が良いとか、芸術の面倒なところだ。そんなことは身に任せればいいんだ。
きりがない。目を瞑ろう。そんなことは見なかったし、最初からなかった。
今日も世界は美しい。
この世界はいつだって幸福に満ちている。
薔薇にも棘はなく、カラフルな色をしている。
人は根底が『善』で出来ていて、『悪』など存在しない。
痛めつけた奴より、勝手に痛めつけられた奴が悪い。
それが芸術の世界? 仕方なかったんだ。
だからみんな一緒に目を瞑ろう。そして次に目を開く時、そこに楽園が待っている。
あぁ、醜くい、汚れたものなんてはじめからなかったんだ。
ほら、世界はいつも美しいだろう――?
「はっ!?」いつの間にか眠ってしまっていた騰波ノは、慌てて目を覚ます。
「だれっ……」ぬるい風が額の汗を撫でる。ひんやりとした嫌な汗だった。
「うん?」
視界の端で何かの光が反射した。騰波ノは目を凝らして見ると、滑り台の上で眼鏡をかけた女らしき人がお山すわりをしている。
「あれって……」どこかで見たことのある姿に、騰波ノはのろのろと近寄っていく。どうやら先ほどの光の反射は、月の明かりに照らされた四角縁眼鏡が原因らしい。
騰波ノが近づいても、女は気付く素振りなく、夢中で本の頁を捲っている。
軽く手を振ってみせるが反応はない。少し大袈裟に手を振ってみるもこれまた反応なし。何だか妙に恥ずかしくなった騰波ノは、声を掛けた。
「あのぉ」
「う……あ、あれ、君は……たしか、鳴ちゃん、だったよね?」
「お久しぶりです。両方先輩」
「もう、硬いよ〜。姫ちゃんでいいよ〜」
騰波ノがこうして
両方は紛れもなく『文豪』であり、この学院の頂点だった。
「流石に大先輩にその呼び方は……あ、そういえば文豪戦会場で見ました。かっこよかったです。作品も読みました。書き出しがあんなに重要な伏線になるなんて、思いもしませんでしたよ」
「え、会場まで来てたの? もう、それだったら声を掛けてよ~」
「それよりも先輩、すごい危険な目にあって……大丈夫でしたか?」
「平気平気。文豪になってからはたまあにあるんだよ。この前の包丁は、初体験だったけどね」
「初体験って……」
今日も変わらず袴の装いである両方は、読みかけの頁にスピンをかけて本を閉じだ。
「それよりどうしたの? こんな夜中に一人でいるなんて」
騰波ノは適当に散歩です。と答え「先輩は?」と質問を投げ返した。
「私はね、たまにこうやってさ、誰もいない静かな夜に外へ出て、ご本を読むのが好きなんだよ」恥ずかしそうに頬を染める両方。吐息で眼鏡が曇っていた。
「はぁ、何となくわかりますけど、それで夜中に滑り台の上で読書って……」
「あはは、変だよね。よくいわれる。だから一人なの。それより鳴ちゃんは何か悩み事かな。あ、わかった。ちょっと待って」
「はい?」
「……いま当ててみせるから。うむうむ……なるほどなるほど」といった両方は本を閉じ、滑り台の上からじっと騰波ノを見つめる。
両方の眼鏡の奥に潜む瞳は、すぐさま鋭いものへと変化し、眼光は薄く赤みを帯びているように思えた。その琥珀のように色彩に、騰波ノは金縛りにあったような錯覚を覚える。
「迷いの色。あの輝く月じゃなくて、月面のような、霞んだ鈍い色が見える。一歩目にどういう足跡を残して見せたらいいのか。まだ扉に靄がかかってる。だからいまもなお、自分がどうすべきなのか悩んでいる、困惑の色だね」
「…………色」
まただ、と騰波ノは息を呑んだ。こうやって唐突に、人の内情を探り当ててくる人間観察力に尊敬と恐怖を感じる。
両方には人間の持つ『色彩』が見えているように思えた。
「なあんてね。私の灰色の脳細胞を働かせてみましたぁ。灰色だけに、なんちゃってぇ」
次の瞬間には、いつもの緩い雰囲気が漂う両方に戻っていた。気のせいか騰波ノの身体も軽くなった気がして、首を傾げたりしている。
「それより、何読んでいるんですか?」
「あ、これはね『お気に召したかな』っていう――」突然、声が消えたかと思えば、滑り台を滑っていた両方。月夜の下で、滑り台を滑る文豪は、どこかシュールな風景に見える。
「へぇ、聞いたことないです」
滑り台を滑り終えた両方は、座ったまま、頁をパラパラと捲り出す。騰波ノは滑り台に近づいたとき、文庫本にして厚みが少し薄めだと感じた。
「鳴ちゃんはさ、エンタメ小説が好きなんだっけ」
いついったかなと思いながらも騰波ノは軽く頷いた。
「この『お気に召したかな』って作品はね、日本の作家が書いた作品なんだけど、元々はイングランドの劇作家シェイクスピアの『お気に召すまま』っていう作品をモチーフにしててね」
「シェイクスピア……聞いたことはあります」
「この『お気に召すまま』って作品はね、《悲劇時代》に書かれた喜劇の戯曲でね、あ、悲劇時代ってのはねシェイクスピアは大きく分けて四つの時代に……」
両方のシェイクスピア講釈は、ほとんど耳に入ってこなかった。だけど騰波ノの耳には、どこか懐かしい響きの名前だった。
「で、この『お気に召したかな』って作品を書いたのが
その瞬間――騰波ノの脳内で雷が落ちたような衝撃が襲った。
「な、なみき……シェイクス……シェイクスピア……え……えっ、シェイ……あ、っ……れ……なみっ……き、シェイク……たか」
何かの回線が焼けたかのように、ショートを引き起こした。
――この尻軽女! 浮気者! 淫乱女!
騰波ノの視界が揺れ動いた。喉が締め付けられるように苦しい。肩から足元にかけて、極端な冷えを感じる。あまりの衝撃に、喉元を抑えながら膝をついた。
――裏切り者! この偽善者! 噓つき魔女! 噓つき! 噓つき!
脳内で切り裂くような叫び声が反響する。誰だ? その声に聞き覚えなどない。両方が近くで喋っているのか、何一つ聞こえてこない。
「でね……ってあれ、鳴ちゃん⁉ 大丈夫⁉ 立ち眩み? 眩暈? 過呼吸? 大変⁉ 救急車呼ばなくちゃ!」
「はっ、だ、はっ、大丈夫です……。もう……落ち着いて……きました、から」
騰波ノはその場で座りこみ、両方に背中を丹念にさすられながら少しずつ冷静さを取り戻していった。
今のは何だったのだろう。すっかり楽になった騰波ノは、先ほどまでが噓のように気分が軽かった。前にも似たようなことが起きたような気がしたが、まだ頭が冷静に働かない。
「良かった。だいぶ落ち着いたようだね」
「すいません、ご迷惑をおかけして」
「いいのいいの。ここじゃそういった生徒は多くいるしね。それよりもう遅いし帰ろっか。寮まで送っていくよ。鳴ちゃんの寮はどの辺?」
騰波ノはまだ夜風を浴びていたい気分だった。
「あの、良かったらその『お気に召すまま』でも『お気に召したかな』でもいいんですけど、どんな作品なのか教えてもらってもいいですか」
騰波ノの無茶ぶりにも両方は、怪訝な顔一つみせず『じゃ、お気に召すままで』と、二つ返事で物語の詳細を語ってくれた。
一通り物語の流れを教えてもらってから、両方は突然詩人のように呟いた。
「――全世界は一つの舞台であって、そこでは男女を問わない。人間は全て役者であって一人一人が生涯に色々な役を演じ分けるのだ。ってな感じでね、私もそれだなぁって」
「何ですかそれ」
「作中でね、ジェイキスっていう追放された公爵に仕える貴族がいるの。そのジェイキスの有名な
「いやいや、そこまでは大丈夫です!」
騰波ノ自身、両方に話を聞きたいとはいったが、本当に夜通し説明を続けそうな勢いがして、流石に怖気づいた。両方は楽しみの玩具を取られた子供のように、頬を膨らませていた。
だがジェイキスの言葉は、騰波ノにとっても興味深いものに感じた。
「へぇ。世界は舞台。人は皆演じていると」
「そう、でね、鳥羽野鷹さんが書いた『お気に召したかな』って作品でも、似たような人物が出てきたりするの。こっちは小説だけどね」
「それってただパクってるだけじゃないんですか?」
「違う違う。この作者はもっとすごいことをしてたんだよ」
「すごいこと?」
「うん、これは是非とも読んでほしいんだけどね、今日は特別に姫先生がご教授してあげます」と眼鏡を曇らせた興奮気味の両方を見て、一瞬だけ難波の顔が騰波ノの脳内をよぎった。
「この作品はさ、シェイクスピアが『お気に召すまま』でやったことをさ、全部反転させてるんだよ」
「反転?」
「そう、最初は気づかなかったんだけど、読んでいくうちに、時代も人物も、その行動も全部、反転させて、物語を構成しているんだと私は勝手に思ってる」
「へ、へぇ。何の為に?」
「さぁ、わかんない。だって作者も十年前くらいに亡くなってるんだって。この作品もあんまり売れてなくて、初版で止まってるし。それにこのロジックに気づいてる人は、殆どいないと思う。だってこれに気づいたところでさ、バカバカしいしだけだし」
両方は嬉しそうな顔をしている。
「変な作家だったんですね」
「私さ、好きなんだよね。こういうバカだけど、本気になって書いてる作品。だってこの作品、登場人物たちの名前も一度全部解体して、日本語表記に組み立て直したりしてさ、すごく面倒くさいでしょ。でさ、おまけに全然面白くないの」といった直後、足だけをバタバタとさせて、ケタケタと喜ぶように両方は笑っていた。
「えっ、面白くないんですか?」
「うん全然。――この世は甘ぬるい劇などではなく、そこでは殺戮と男女差別があるだけだ。人間は生涯に演じ分ける役も能力もない、ただ大地に生かされているだけの奴隷だ、って。笑っちゃうよね。太宰も志賀も色々とやってたけどさ、この作家の思考回路は、私にはなかったなぁ。だからすっごく好きになった」
「はぁ。また読んでみます……」
やはり天才の考えることは、意味不明なんだな、と騰波ノは一人で納得していた。
「まあさ、シェイクスピア風にいうなら私は、小説が好きな物書きを演じている、時代の一つ」
「え」
「鳴ちゃんも小説が好きな物書きを演じている、一つの時代」
俺が――演じている?
じゃあ演じることをやめたら俺はいったい――何者なんだ、と騰波ノは強く思った。
「でさ、それを反転させたらさ、私たちは、ただの創作の奴隷たちっていう。えっ、鳴ちゃん顔が怖い怖い、怖いよぉ。おでこも皺だらけになってる。別にそこまで難しく考える必要はないんだよ」
「あっ、すいません。別にそんなにつもりはなかったんですけど」
「ほんと? 結構思い悩んで見えたから」
「そう、見えますか」
「うん、少しね。話し変わるけどさ、鳴ちゃんはさ、本当の『小説』って知ってる?」
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