4―4「嵐の夜の交錯」


「本当の小説? 何か作品のタイトルですか」


 両方は軽く笑ってから、首を横に振った。


「正真正銘その名の通り――本当の小説。読んだ人の人生を変え、世界に革命を起こしてしまう小説」

「はぁ、またすごい抽象的というか何というか。それで、その本当の小説がどうしたんですか」

「私がずっと探し続けているもの」両方の口調は、いつになく真面目なものだった。

 だがすぐに、「自分で書けたら一番なんだけど、それがけっこう難しくってねぇ」と普段のくだけた口調に戻る。

 こんなに凄い人でも書けない本当の『小説』とは一体どんな小説なんだろう、と騰波ノは考えたが、すぐにやめた。

 両方は立ち上がり、照れくさそうに「帰ろっか」と告げる。そのまま二人は、公園の入り口へと歩いて行く。

 そこで両方が突然立ち止まり、「あ、そうだ。この前のお礼にこれあげるね」といって袖に手を通している。


「お礼、ですか?」


 両方が袖から取り出したのは、一本の万年筆だった。


「私がゲロっちゃった時のお礼!」

「ああ……」

「これ、この前の文豪戦防衛記念で貰ったやつだけど」

「えぇ、そんな貴重な品物受け取れないですよ」

「いいからいいから。毎回防衛する度に貰ってるから余って仕方ないし。逆にこんな物しかあげられなくてごめんね」


 万年筆には漆黒の塗りが施され、金色の精緻な絵柄が細工されている。その筋に明るくない騰波ノでも、一目で高級感に満ち溢れていることがわかった。


「これ、いくらするんですか?」

「さぁ、二十万くらいかな?」

「に、二十万⁉」


 騰波ノが驚いている頃、後方から男の声が聞こえてきた。


「姫、ここにいたのか」

「あれぇ、どうして?」

「こんな夜中に何をしている」


 傘を二本持って現れた学生服姿の男は、ぽかんとした両方を見て、深い溜息をついた。知性的な雰囲気を纏った男は、文豪戦で両方のセコンドについていた者だ。男は捻りのない黒髪に、襟足は短く整えられている。

 そしてあのとも会話をしていた者でもある。


「夜のお散歩だよ。あ、紹介するね。一年の騰波ノとばのめいちゃんだよ。で、こっちは館山たちやま千歳ちとせくんです」

「どうも」ぺこりと頭を下げる騰波ノ。

「騰波ノ……」と呟いた、館山はどこか憐れむよう目で見ていた。だがすぐに、両方を睨みつけて「姫、今すぐ帰れ」と告げる。

 棘のある館山の言い方に怒りを覚えた両方は、「今帰ろうとしてたところですけど。ねぇ」と騰波ノに強く承認を求めた。

 騰波ノは軽く頷くようにはにかみ、文豪にもこんな一面があるんだな、と少し驚いた。それを引き出すこの男は、やはり何者なんだろうと殊更興味が湧いたが、彼の威圧的な雰囲気に怖気づいて、聞くことは出来なかった。


「言い訳など不要だ。それよりお前、明日の正午に卒業小説の締め切りが迫っているのを理解しているんだろうな?」

「もう、わかってるってばっ! 締め切り締め切りうるさいよ」

「ならこんなところで油を売っていないで、今すぐ帰って書け!」

「うぅぅ」萎れるような両方は、負け犬のような目で館山を睨んでいる。


「両方先輩、卒業小説ってなんですか?」

「ぅ……なんかね、七豪階級になる条件として、必ずその年の終わりまでに八人でリレー小説を作りなさい、っていう迷惑な制度があるの」

「へぇ、そんなことが」

「でもね、それを意図的に放棄しようとしたら一千万円の違約金なんだよ? しかもそのトップバッターが何故か文豪からなの。酷いよね? だって私、これでも一番すごい階級なんだよ? 普通、最後とかだよね? 鳴ちゃんもそう思わない?」

「けど、それってなんか凄いですね。あれ、でも八人って七豪階級って全部で七人じゃないんですか?」

「よく気づいたね。それがね、七人が繋いだバトンを最後に締めるのが実は七豪階級以外の人って毎年恒例で決まってるの。その人選を決定するのも七豪階級の役目なの。そういや去年の会議もそれですっごく揉めたんだよね」

「八人目……」

「おい、姫。いい加減にしろ。残りの者たちがお前の考えた設定、世界観を引き継いで書いていくのだ。それがどれだけ大変な行為か……」


 そこで館山は一度咳払いし、「無駄話がすぎたようだ。姫、早く帰って書け」と冷淡にいう。

 両方は耳を指の穴で塞ぎながら、「きこえなーい、きこえなーい」と子供のように駄々をこねるが、痺れを切らした館山に、無理やり腕を引っ張られていった。


「またねぇ〜。鳴ちゃ〜ん」

「お休みなさい」騰波ノは軽く頭を下げ、二人が同じ道に帰っていく姿を見つめていた。

 館山の方は毅然とした風に少し前を歩き、その後ろを背中を丸めた両方がのそのそと歩いている。一歩でも自室に帰るのを嫌がっているようだ。

 なんだか二人が微笑ましく見えてきて、騰波ノはクスッと笑ってしまった。


「いいコンビなんでしょうね」


 その言葉に、騰波ノは何度も頷く。


「ほんとにそうだ……えっ!?」


 突然、後ろから現れたのは、行方不明になっていたはずの空緒飛華だった……。


 ☆


「空緒さん!? 何でこんなところに?」

「ここの公園が寮の近くなのよ。貴方、あの両方先輩と知り合いなの」

「まぁ少しだけ……ってそれより小説の方は大丈夫なの? 月曜も来なかったし」

「ええそのことなんだけど。私、貴方に謝ろうと思って……」


 空緒の真剣な眼差しに、二人は自然と対面で向かい形になった。

 強烈に輝いていたはずの月は、いつのまにか流れの早い厚い雲に覆われている。風は唸り声のように吹きはじめ、空気の匂いがより湿っぽくなっていく。

 互いの前髪は吹上げられ、瞳が真っ直ぐに交錯した。


「私、書けなくなった――」


 空緒の重い第一声を聞いて、少しだけ反応が遅れた騰波ノ。


「えっ……書けなくなった?」

「筆がどうやっても動かないの。声が聞こえないの。命の霞すら見えなくなってしまったの」

「……プロットは?」

「書いたわよ」

「じゃあその通りに書くだけだよね?」

「ダメ。プロットはどこまでいってもプロットよ。原稿はプロットとは違う」

「は? じゃあ何の為のプロットなの?」

「プロットで書けてしまう物語の何が面白いの? プロットは壊す為にあるの。だから面倒だけどプロットを書くの。広がり方が変わるから。人ぞれぞれのやり方があるのは理解しているけれど、私はそうしている。とにかく、今書いている場面がいまいちしっくりこないのよ……見えないの。わかるでしょ?」


 騰波ノはわかりやすく、ため息をついた。


「あのさ、俺には空緒さんのいう声が聞こえないとか、命の霞とかいわれても、正直よくわからない。杉田さんも似たようなこといってた。多分、俺には一生理解できない感覚なのかもしれない。だからさ、ちゃんと書けない理由を説明して」

「そんなことないわ。必ず貴方にもそういう時がやってくる」

「……わからないよ。ちゃんと理由をいって」

「さっきいった通りよ。嫌になるくらい……聞こえないのよ……」

「わからないよっ!」その声の大きさに騰波ノは自分でも驚く。だが心の底に湧いた沸々と燃える感情と、暗く先の見えない不安が騰波ノを覆い、ついに理性を抑えることは出来なかった。


「ぜんぜんっわからないっ! 俺の書く小説はいつだって俺の思うままにしか動かせないし動いてくれない。声とか命とかいわれても、わからないよ! 今の小説が書けないんだったら今すぐ別の作品書いてよ! 今度は流行要素もちゃんと欠かさないようにしてさ! それで読者のこと、もっとちゃんと考えてよ!」

「ごめんなさい……」


 空緒の消え入りそうな声に続いて、ぽつ、ぽつと微かな雨粒が土を濡らしはじめた。


「……けどそれは出来ない」

「は? なんで……? 意味がわからない。俺たちのどっちかが退学なんだよ⁉ わかってるの⁉」

「わかってるわよそんなことくらいっ!」

「じゃあなんで⁉」


 いよいよ本降りとなった雨は、サアァッと音を奏ではじめた。空緒は俯いたまま、ゆっくりと拳を握りしめた。


「小説は……」静かに呟くように騰波ノの瞳を見る空緒。


「小説は……そういうものじゃないの」

「そんな綺麗ごとばっかり、もううんざりなんだよっ!」

「綺麗ごとなんかじゃない!」

「綺麗ごとだよっ!」

「違うっ! 誰かが売れたらその人気船に乗っかって、また誰かが売れたら別の人気船に乗り換える……違う! 違うっ! そんなの、全然小説じゃないっ!」

「は? 小説は小説だよっ!」


 空緒は何度も頭をふった。濡れはじめた艶のある黒髪は乱れ、目尻に溜まった雫が真横に弾けた。


「小説は……二番病じゃ駄目なのよ」

「は……? 二番? 意味わからないことばっかいってないで、いいから書けよ! 俺は嫌なんだよ。どっちかが退学に相応しいのかを決めるなんて、嫌なんだ!」


 これだけは口に出してはいけないことだとわかっていたが、騰波ノにはもう抑えられなかった。


「じゃあそれともなに、そ、空緒さんが…………退学してくれるの?」


 その言葉は震えながら喉を通り、意味は形成された。いった後になって途轍もない罪悪感に襲われた騰波ノだったが、もう後戻りは出来なかった。デッドラインは、もうそこまで近づいていた。


「…………ごめんなさい。それも無理」

「そう……」騰波ノは何もいい返せなかった。濡れた髪から、水が何度も滴り落ちてくる。もう互いに全身はずぶ濡れだった。


「もう一度聞かせて、騰波ノ鳴。貴方にとって、小説とは何なの?」

「またそれ? だから知ら」騰波ノの言葉をすかさず遮り、「私にとって小説は、誰かと競い合うものでもなければ他人を蹴落とす為のものでもないの」と空緒はいう。

 呆れた騰波ノを前に空緒は俯いた。だがすぐに右足を半歩前に出した。


「わかってる……わかってるわよ……甘いっていいたいんでしょ! けれど私にとって小説はも大切なものなの。その気持ちだけは、偉大な文豪たちにだって負けない! だってそれを教えてくれたのが――――」


 近くで、耳を切り裂くような雷鳴が落ちた。紫電が夜闇を一瞬だけ白く染める。

 強く握った拳。叫ぶ口元。水滴を落とす長い髪。大きな黒色の瞳がぐっと濃くなった。


「だから私は戦う! 競って競って競い合って、文学も大衆も全部、私が勝つ! 誰も変えられないなら私が変えてみせる! 誰もが成し遂げたことのない小説家になる! それが、それだけが……私が出来る小説への恩返しだからっ!」


 また、雷が強く唸った。

 空緒の黒い瞳に紫電が走って見える。騰波ノはその美しい光景に、心を打たれた。それと同時に、頭が妙に痛んだ。脳裡には、走馬灯のような場面が反転しては駆け巡る。


 第一創作室で、強い想いを叫ぶ空緒がいた。

 眼鏡を外した両方が、全力で小説を書いていた。

 涙を頬に滑らせ、難波は夜空に決意を誓った。

 壇上で崩れる、満身創痍の中島がいた。

 只ならぬ形相で、暴れた謎の青年もいた。

 寂寞とした杉田の背中が見えた。

 創作論を繰り広げる、雷電快晴がいた。

 壇上で碇学院長が、手を広げて喋っていた。

 スクリーンにて、文字が浮かび上がった。


『自覚と現実』


 騰波ノは、その場で折れるように膝をついた。

 次に幼い女の子の声と、優し気な男の声が聞こえてきた。


『父さんにとって小説は、命よりも大切だから』

 ――いのちより? どうして? ×よりもだいじ? 

『ハハハ……困った質問だ』

 ――ねぇねぇ、おしえてお父さん。

『そうだね。色々と好きなことはあるけど、一番大切なのはやっぱり小説かな』

 ――ぐっ、うっ、うぇええええええん。お父さんなんかだいきらい。ご本なんかきらい。きらい。大きらい。

『違うよ×。なぁ、よく聞いてくれ×。今の父さんはね、小説があって今の命があるんだ。だから×も生まれたんだ。すごくないか』

 ――ご本のおかげ? 

『ああ、そうだよ。ご本様のおかげだ』

 ――すごいの、ご本様って? 

『ああ、神様なんだ』

 ――かみさま? 

『そうだ、いつかわかるよ、×にもきっと。いつか必ず逢える。ご本様はピンチになった時に必ず×を助けてくれるんだ』


 ―――――――お父、さん?


 大粒の雨は天から強く降り注いで、二人を、世界を必要に濡らした。

 暫くの間二人は何もいわず、正確にはどう動いていいかわからず、雨に打たれ続けていた。


「私の部屋、くる……?」はじめに言葉を発したのは空緒だった。

「いい」それをいじけた子供のように騰波ノは拒む。


「貴方の寮ってここからだとかなり遠いでしょ」

「大丈夫だから」

「風邪ひくわよ」

「俺が風邪を貰ってやるんだ」

「貴方……結構頑固なところあるのね……」

「うるさい、空緒さん先に帰って」

「いやよ。貴方がお先にどうぞ」

「俺は雨に打たれたい気分なんだ。お先にどうぞ」

「そのセンチメンタルさをどうして小説に生かせないのかしら」

「……書けない癖に」

「っ……それとこれは別でしょ……。貴方、雨が好きなの、それとも打たれるほう?」

「打たれるほう」

「いつから」

「昔から」

「昔っていつ。赤ちゃん時代、幼少期、小学生、それとも中学生?」

「赤ちゃん」

「………………」


 雨風に打たれた二人は、こらえきれないように少し笑った。


「それじゃ仕方ないわね」

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