5―2「騰波ノ 鳴」


「ぁああ……ああ……ぁあああああああああああああああ!!」


 気ちがいのように絶叫し、目を覚ました騰波ノ。


「め、鳴……。大丈夫……」空緒はおろおろと騰波ノの腕に手を伸ばそうとして。


「触るなっ!」

「ぃっ⁉」空緒は酷く驚いた。いきなり意識を失ったかと思えば、突然発狂者みたいにに起き上がる。そんな騰波ノの目は、ギラギラと赤く血走っていたのだ。表情筋はぷるぷると震え、歯はかたかたと音を鳴らしている。

 一言で表すなら、異常そのものだった。


「わ、悪い……。空緒、さん。落ち着いて聞いて欲しい」


 こくりと頷くことしか出来ない空緒。騰波ノは変に落ち着いた風を装い、空緒の肩に震えた手を置いた。空緒の肩には、振動が小刻み伝わってくる。騰波ノはゆっくりと耳元で囁いた。


「絶対に追いかけないでくれ……約束だ」


 そう告げた騰波ノは、有無を言わさずに空緒の部屋を飛び出した。

 外は嵐だった。だが騰波ノは脇目も振らずに走り出す。雨は激しく降りしきり、風は怒りの如く吹き荒れる。黒雲は唸り声をあげ、鬼が太鼓でも鳴らすかのように、何度も雷鳴が地上に轟いていた。


「ぅぁあああああ」騰波ノは喚き、叫ぶ。濁流のように流れ込んでくる記憶の欠片は、留まることを知らない。走る。走る。


 ☆


「こんにちは初めまして。波木先生、いや☓ちゃんの方がいいかな」


 母親の隣に立つ中年の男は、少し恥ずかしそうにその者に挨拶した。その者が学校から帰宅してすぐのことだった。


 ――なんだ、何がいま、目の前で起こっているのだ。


騰波ノとばの先生よ。知ってるでしょ。同じ春風出版社で書いてる――って聞いてるの」


 母親も同様に照れたようにその者に説明する。


「恵、もしかしたら×ちゃんは知らないかもしれないから」


 中年の男は母親を慣れたように親し気に呼んでいた。その者はもちろん中年の男のことを知っていた。累計一千万部以上を売り上げる、大物作家だ。

 この時、その者の心の内には、ドス黒い何かが生まれようとしていた。


「そのお母さんね、半年前から騰波ノ先生とお付き合いしているの……」


 母親と男は互いに照れくさそうに見つめあっていた。なんと! 母親は雌犬のような顔をしていた……。その者の知らない顔だった。


 ――ハハッ、何だ。何の冗談なんだ、これは。一体どうしてこんなことに。


「あの、そのね。ほら、もうお父さんが亡くなってかなり時間が経つでしょ。だからね、そろそろ天国のお父さんも許してくれる頃かなって……」


 ――許す、何を。ハハ、何を許すって。この女は今何をもって許しを請うているのだ。


「×ちゃん。その、突然のことで混乱させてしまって申し訳ない。これからはゆっくりと時間をかけて真剣に一緒になりたいと思っているんだ。どうかな」


 ――この男は先からぬけぬけと、何をいっているのだ。


「ほら×! 騰波ノ先生にとにかく挨拶しなさい」


 その者は勢いよく玄関を飛び出した。だがすぐ玄関ドアの段差につまづいて、勢い余ってこけた。スカートが捲れて下着が晒される。

 一瞬の間にギッ、と振り返り、母親と困惑した男を睨みつけた。そのあと、無我夢中で走り去った。


 ☆


「ぁあああ!!」


 嵐の中を気ちがいのように叫び、走る。通りには人一人も見当たらない。全身は重く、服を着たまま海にでも入ったかのように濡れていた。

 目を塞ぐ水は、雨か、それ以外なのか、見分けがつかない。こんなにも自分を走らせるこの衝動は何なのか、理解できない。

 足がもつれて、盛大に転んだ。アスファルトに溜まる水は、波紋を広げている。ゆっくりと全身で水溜りに覆いかぶさって、鏡とした。


 ――自分は今、一体どんな顔をしている?


 その顔に驚いた騰波ノは、再び猛烈に走り出した。

 また水溜りの鏡には、波紋が広がる……。


 ☆


 母親が男を連れてきて、二ヶ月が経った。

 その者は家に帰るのが苦痛で仕方なかったが、それでも日常を送っていた。男は月に数度、自宅に訪れることがあった。その度に外へ出ることで、その者は気を保っていた。

 だがその者の心の内に生まれた、ドス黒い何かを抑え込むには、それだけでは些か不十分だった。やがてその者は、反抗心から仕事以外で小説を一本書き上げた。そうしないと心が平静を保てなかったのだ。

 その者にとって唯一、何もかも忘れられる至福の時であった。

 母親に内緒で、とある文学賞に作品を投稿した。その際に商業で使っている実名の『波木なみき☓』から『木浪きなみ芽郁めい』へと変更した。

 後に、その作品『鬼の罪と蜜な男』は受賞する。いや、してしまった。

 普段その者が商業で書いている作品とは、百八十度違ったものだった。

 女子中学生が書いたとは思えないような、陰鬱とした重々しい文体。巧みな文章力と構成力。冴え渡るユーモアな会話から、気の抜けない会話劇まで、全てがハイレベルだった。

 物語評価もよかったが、審査員一同が口を揃えて称賛したのが、芸術性に長けた行間の使い方と、何よりもラストに綴られた美しい末文だった。

 華々しい受賞だが、母親は当然いい顔などしなかった。


「あれじゃ売れないと思ったけど」母親の感想は、たったのこれだけだった。


 ☆


 学校が終わり、その者は帰路についていた。普段は家に誰もいない時間帯。

 だというのに、自室からガサゴソと何か音がするのだ。ゴンッと強く床を打ちつけるような、重く鈍い音もした。泥棒か、と嫌な予感が脳を過ったが、冷静になって、もっと最悪な展開を想像した。

 急いで廊下を進み、半端に開いている自室のドアノブを引いた。

 自室は、地獄へと変貌していた。

 普段からある筈のものが確かに無かったのだ。それは天井までびっしりと敷き詰められている筈の書籍が半分以上も床で寝ていたのが原因であった。

 このような地獄の渦中で悪魔染みた行為をしているのは、母親似た――魔女だった。

 その者は気が付いた時には、魔女の首を締めていた。


「な、何を……するの……×」

「お前のしていることと、同じだ」

「気でも、違って?」

「殺してやる!」

「手を……放し……さい」

「黙れ!」


 その者の握力は、女子中学生の平均値よりも少し下回る。魔女の首を締め付ける時間もそう長くはもたなかった。


「あなた母親に向かって」

「誰が母親だって……この尻軽女! 浮気者! 淫乱女!」


 魔女の目は大きく見開いた。のも束の間、その者の細い首に、魔女の長い指が絡みつき、立場が逆転する。


「謝りなさいっ!」

「誰……が……はな……せっ!」


 その者は必死になって、魔女の腹を蹴りつけた。魔女は屍山のように積み上げられた本の上に崩れる。


「はぁ、はぁ……何がお父さんを愛しているだ! ふざけるなっ! 邪淫に溺れた悪魔がっ! 恥を知れ悪党! この裏切り者! 偽善者! 噓つき! 噓つき!」

「なんて……こと……」


 魔女は下敷きになった本を押しのけて半身を起こそうとする。


「その手で触れるな! やめろ! 私の大切な宝物に触れるな悪魔! 穢れる!」


 魔女は勢いよく立ち上がり、怒りの形相で、その者の鼻頭を拳で殴りつけた。


「ぐっ……」


 その者の華奢な身体は軽く吹き飛び、本棚に頭部を強く打ちつけ、ぐたっと床に崩れ落ちた。


「…………×……」


 ハッと我を取り戻した魔女は、今しがた自身のしでかしたことに冷たい汗をかいた。その者の額からは、ねっとりとした赤色が流れている。


「……×! ×っ!」


 おろおろとその者に近づく寸での所で、頭上にあった本棚から一冊の本が落下した。

 その一冊は、ぐったりとして動かなくなったその者の後頭部に直撃する。

 タイトルは『鬼の罪と密な男』だった。


「ひぃっ⁉」


 そぉっと惹きつけられるように、その本に触れようとした。その時、もう一冊の本が落下し、魔女に直撃した。


「ひやっ⁉」


 その本は亡き夫、波木鷹のデビュー作『魔女祓い』だった。恐怖から魔女の全身に粟がたった。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ごめんなさい、あなた……ごめんなさい……」


 おろおろと魔女は、その者に近づき、今度こそ額に流れる血を手で優しく拭った。


「ごめんね……ごめんねぇ――――――――――鳴」


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