第五章「本当の小説」

5―1「小説価値」


「お、お邪魔します」騰波ノは遠慮気味に、空緒の部屋に入る。ただでさえ他人の生活空間に足を踏み入れることに遠慮してしまう騰波ノは、自身が全身ずぶ濡れなので、余計憚られる思いになった。


「どうぞ、散らかってるけど。シャワー先に使って。スウェットなら貴方でも着れるでしょ。貸してあげるからそれに着替えて」

「いいよ、空緒さんから先に入りなよ」

「いいから入れ頑固者!」

「ぶぇ⁉」空緒が放り投げたバスタオルが、騰波ノの顔面に直撃した。


 ☆


 騰波ノがシャワーからあがると、空緒が用意してくれていた紅茶ポットが小机に置かれていた。二つ揃えられた可愛いらしいピンクのティーカップのうち、一つを表に向け、ゆっくりと注いだ。

 湯気がもやもやと立ち昇る。ふぅふぅと何度か温度調節を繰り返したあと、啜る。香りを楽しむようにリラックスしていたら、頬を林檎のように染めた空緒も部屋に入ってきた。

 くまさんのロゴが胸の辺りに入ったクリーム色のパジャマ姿は、いつもの毅然とした態度とは程遠い。濡れた髪から、シャンプーの甘い匂いが騰波ノの鼻腔をくすぐる。


「空緒さんは飲まないの」

「ええ。私はまだいいわ」

「そっか。髪乾いたら帰るね」

「貴方馬鹿なの? いえ、馬鹿だったわね」

「ひどいなぁ」

「この嵐でどうやって帰るつもりなの」

「傘貸してくれない。今度返すから」

「折れるわよ。弁償してくれるのかしら」

「まぁ、その時は弁償するよ」

「私の傘、高いのよ」

「いくら」

「五万」

「高っ」

「いいから嵐が過ぎ去るまで寝てなさい。明日はずっとこうらしいから」

「ちょっとした監禁じゃん」

「原稿の続きでも紙に書いてたら。いい機会じゃない。缶詰よ」

「えっと、一応確認しておくけど君は、小説書けないんだよね?」


 風呂上がりの空緒は、さっそく本を手に取り器用に頁を捲りはじめた。


「へぇ、今度は何読んでるの?」


 騰波ノは興味深そうに空緒の隣に腰かけ尋ねる。空緒は少々頬を染めたりもしたが、文字を追うことをやめずに答える。


「淫乱未亡人の母が、娘に罵倒されるお話よ」

「絶対違うよね……でどんな小説?」

「本当よ。木浪きなみ 芽郁めいの『鬼の罪と密な男』」

「またあの作品?」

「そう……私は、この作品が好きなの。ねぇ、いつまでやるの」空緒はすぐに本を閉じて、騰波ノの方を向いた。

「え、ど、どういう意味?」その言葉の意味が理解出来ずに戸惑う騰波ノ。

「出会った時から、ずっと黙ってたけれど、貴方は――」


 空緒は改めて、真剣な眼差しで騰波ノを見つめ、こういった。


「――いったい誰なの?」

「えっ……」


 外で強烈な雷が落ちた。夜の窓ガラスが白く光る。同じように騰波ノの脳内でも霹靂が走る。一瞬、騰波ノは、外か自分の脳内で鳴ったのか判別がつかなかった。


「鳴なんでしょ?」

「は、はあ? 俺はたしかに鳴だけど、き、急にどうしたの」

「とぼけないでっ鳴! 何があったの? 俺俺って、なんのつもり? どうしてあの日、コンサートに来なかったの?」

「……あっ、れ……」


 再度、雷が落ちる。


「私を、忘れてしまったの? ねぇ、貴方、鳴なんでしょ!? 私、あの日、ラフマニノフのコンサート、ずっと貴方が来るまで待ってた、待ってたのよ!」

「忘れ、た……ラ、ラフマに、のふ?」

「私は、貴方のお友達だった空緒飛華よ! ねぇ、本当に……覚えてないの?」

「と、ともだ、ち?」

「そうよ! 思い出して! 貴方のペンネームは木浪芽郁だけど、本名は波木鳴。違うの? どうして名字が変わってるの?」


 空緒は騰波ノの肩を強く掴み、ぐらぐらと揺らす。空緒の瞳から、涙が溢れ落ちる。


「ちょ、ちょっと……まって。オレ、が、き、なみ、って、あ、れっ……」


 つい数時間前に襲った衝撃がぶり返す。脳内回線が焼けてしまったかのように、ショートを何度も引き起こす。


「また、ま、ただ……」


 ガタンと床に膝をつく騰波ノ。喉が締まっていく感覚。呼吸が苦しい。酸素が足りない。


「はぁはぁ……はぁ」


 流石に異変を感じた空緒は、騰波ノの異常事態に目を見張った。


「ど、どうしたの⁉ 大丈夫、鳴!」


 空緒は珍しく狼狽えていた。


「はぁ……はぁ……」騰波ノの意識は、闇に落ちた。


 ☆


 その者は黒い服を着て、知らない大人達に紛れながら泣いていた。


「大丈夫、大丈夫よ。あなたは私が守るから、ね」


 泣きじゃくるその者を必死に諭す母親の目にも、涙が溢れていた。


「どうしてお父さんが死ななくちゃいけないの」

「そうね、本当にそうだわ。×のお父さんは、確かに立派な小説家だったわ」

「ねぇどうして、どうしてお父さんが……」


 泣きじゃくるその者を必死に抱き寄せる母親。周囲はいささか同情を引いた。しかし実情を知る者の中には、少なからず憐れみを持つ者もいた。

 事実その者の父親は、デビュー前からの固い信念を曲げないが故に編集者の妻と出会い、その者を設け、そして落第していったのだ。

 皮肉にも最後まで信念を貫いた恩恵は、幸せやお金などではなく、離婚寸前だった鬱病患者が、自殺するだけだった。


「大好きなお父さん死なないで! 大好きなお父さん死なないで! お願いします、ご本のかみさま」その者は必死に死体に寄り添った。


「やめて×。やめて、もうお父さんは……」

「お母さんは、お父さんが嫌いなの!?」その者がギラギラとした血走った眼差しで振り返る。母親はギョと心臓が飛び跳ねそうになった。


「……何を言うの×。あなたと同じように愛しているに決まっているでしょ。私たちのお父さんは、あの人以外いないわ」


 その者は泣いた。母親の胸の中で泣きじゃくり、疲れ果てたように気を失った。


 その者は数年後に死んだ父の小説に憧れ、本の世界に没頭した。父の書棚の影響か、世界の文豪から数多の小説を愛するようになっていった。

 後に自分でも書いてみたいと思い、小説を書きはじめる。小学三年生の頃だった。

 数年後、副編集長にまで昇進した母親からアドバイスをもらいながらも小説を書き続けていく。

 母親はある日、その者の才能に目をつけ、エンタメ小説を書かせた。ものの見事、たったの二作品で新人賞を二つ獲得し、その者は天才中学生作家となった。

 だけどその幸運が同時に不運の風も運んでくることになるとは、誰も思いもしなかった。誰もが浴びる風を早すぎた小説家は、誰よりも色濃く受けることになる。


 ――それでも小説家になりたいか? そう後に、その者は何度も自分に唱えることになる。

 母親は口うるさく言った。

「作家は読者を楽しませる為にあるの。作家が楽しむ為に、小説があるわけじゃない。それに×、あなたの戦う世界に芸術的な要素よりも大事なのは流行よ。常に読者に受けるように考えて。そこにあなたの気持ちは不純物でしかないわ。あとちゃんと長篇を書けるようになりなさい。なに、続編を構成してない。ふざけないで。人気作家になりたかったら、シリーズを書くのは必須条件よ。なに、ベストセラー作家にはいる? ふざけないで。×にベストセラー作家が積み上げてきた貯金を奪えると思っているの? もう今の時代は小説が氾濫しすぎて収拾がつかないのよ。なに、書きたい作品がある? そんなものは売れっ子作家になってから書きなさい。今はとにかく大事な時なの。ほら、早くSNSの更新も忘れてはいけないわよ。最近の更新は弱気でダメね。もっと恥ずかしいくらい自分の作品を打ち出しなさい。そうね、必ずトレンドのキーワードはいれて、世間に配慮しながらね。え、恥ずかしい? ふざけないで。売れる気あるの? 今時作家でSNSやらないと売れないのは常識中の常識だってこの前いったばかりでしょ。編集部がいくら宣伝したって無駄。特に今の新人はね。会社がやるとビジネスが背景に見えるから、作家が直接宣伝した方が読者は安心するの。どうして? 責任取らせたいのよ、どいつもこいつも。それが見えないと都合が悪いの。なに? それより面白い作品を追及したい? ふざけないで。今の時代の作家に必要なのは、物語のトレンドとジャンル。あとはキャラクターを抑えること。そして一番大事なのは、コミュニケーション力と営業力だけなんだから。とにかく宣伝よ。バズる法則性は、徹底的に研究を重ねなさい。それが出来ればバズってうはうは! お金はほくほくよ! なに、そんなの作家がやる事じゃない、って。はぁ、呆れた子ね。一昔前の作家みたいな事いわないで頂戴。誰もあなたの小説にそこまで期待してないのよ。読者が求めるのは、代わりのきく暇つぶしなの。本当に面白い物語を求める客なんて、もうとっくに死んだのよ。時代の求めるニーズは常に進化している。現代社会に必要なのは、爽快感と癒しよ。うちの本棚でよく見るああいった作品は、全く駄目ね。まず文体が駄目。今どきの読者は堅苦しすぎて読んでいられない、寝てしまうわ。展開もわかりずらいことが多いし、人間をよく書きすぎる。ニーズとはかけ離れていて、読者が他の娯楽に走ってしまうでしょ。人間の闇を描くなんてのは、他の媒体に任せとけばいいの。現代人にゆっくりと腰を据えて、活字を読む時間なんてないの。ええ、何、それが好きな読者だっているって。それはいるでしょうね。でもそんな一部の読者ほっときなさい。勝手に死んでいくから。これからは如何にして、メディアミックスに媚びを売れるかが鍵よ。これは全出版社の課題ね。逆にいうとメディアミックスで食いつてくれる客は太いわよ。アハハ、これが本当によく釣れるの。むしろメディアミックスが出来ない作品は、はっきりいって売れないし、書く価値もない作品になり果てる。今どき映像化しない作品に何の価値があるのかしら? 編集部も読者もSNSで宣伝しにくいじゃない。ねぇ×、それに合わせられない作家は淘汰されていくだけよ。え、なに、作家やめたい。はぁ、あきれたお猿さんね、気でも違ったのかしら? よく冷静になって考えなさいな。簡単なことじゃない。書き手が変わればいいだけ、それだけで売れるの。いい、もう面白い作品を追及して苦しまなくていいの。妥協も読者の為よ。なに、読者が見る目を変えなくちゃいけない。無理よ。読者はもうすっかり疲れ果てているんだもの。もう小説に求められるのは、エンタメだけよ。文体の面白さ、行間を楽しむ余裕なんてないの。それにバッドエンドとか、ストレスな展開は絶対に駄目よ。気持ちよくさせてあげなくちゃ、SNSで叩きの的よ。そう、例えるなら物書き娼婦みたいなものね。我ながらあっぱれな表現ね、うふふ……ええ、もういいわかった? そう、いい子ね。これからも読者にしっかり楽しんでもらいましょうね。読者を楽しませるノウハウは、私が全力でフォローしてあげる。なに、不安なの。大丈夫、安心しなさい。マニュアルを外さなければ、必ず読者は同じ喜んだ反応を見せてくれるわ。飽きられるんじゃないかって。そういう時は、ほんの少しだけ変化を与えてあげるだけで、喜んでくれるわ。大事なのはほんの少しの変化よ。現代人に完全オリジナリティは駄目よ。見たことのない展開、世界観を見せると驚きのあまり混乱して、気絶してしまうから。あれ、この話どこかで見たことあるような、って感覚がベストな安心感を与えられるの。そうね、真似8:オリジナル2の法則ね。昔は7:3くらいだったけど、もうダメ。何だったらもうすぐ9:1の時代がくる。え、なんでかって? そんなの簡単じゃない。読者は出来るだけ考えたくないないのよ。たかが一作品の為に、頭なんて働かせたくないの。他の媒体なら多少冒険してもいいけど、小説はダメよ。たださえ活字で読者を疲弊させるんだから。そうよ。そう、いい感じね。あら、やれば出来るじゃない。他の作品と他の作品を掛け算するくらいよ。え、盗作じゃないかって。何をいってるのかしら、このおたんこなすちゃんわ。売れている作品もそうだし、×の好きな作家も何かに影響を受けているでしょ? そうよ。あの八十年前の作品と昨年流行ったあの作品の要素を使いましょう。ええ、いいわよ。後はね、登場人物よ。推しが出来そうな、キャラクターを作るの。読者は自分だけの推しキャラを常に探しているの。つまり属性よ。様々な属性を各キャラに付与し、性癖を制するの。え、機械的? 本当にくるくるパーな子ね。先もいったけど読者はそれくらい気にしないわよ。きっとキャラ立てとか何とか言って自己解釈してくれる賢い人達だわ。ええ、そうよぉ。いい感じよぉ、愛しい娘。あなたはきっと天才。メガヒット間違いなしよ‼」

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