5―3「本当の小説」
騰波ノは走る。走る。嵐は止まない。
全部、わかった。
何故、自分がここにいるのか。どうしてこの学院に入れたのか。
――私の記憶がないことをいいように利用して。
騰波ノの記憶は、頭を打ち付けた日から、ごっそりと消えていた。最初は母親を見ても本当に母親なのかわからなかった。けれど写真を見せられて、いまいちピンとこないが、この人は自分の母親なんだと信じるしかなかった。
死んだ父さんの顔は、何一つ思い出せなかった。
だけど騰波ノは今、全てを思い出した。
まるで亡霊か何かにとり憑かれた――本来の『私』は一度――死んだ。そうして己を殺し、生まれ変わった。
寮について階段を二段飛ばしで駆け上り、廊下を走り抜けて自室へ入る。
部屋の電気をつけ、洗面所に駆け込んだ。空緒に借りて、汚してしまったびしょ濡れのスエットを脱ぐ。下着も脱ぎ捨てる。下と、上も。
鏡に映った自身の裸体を見つめる。いつの日からか違和感を抱くようになった白く細い四肢。
女のような膨らんだ胸と股。女のような肉つきの腰まわり。かつては背中まで伸びていたが、今は短い髪。その全てをバスタオルで拭いた。
適当に脱ぎ捨ててあった下着とパジャマを着る。
急いで部屋に向かって椅子に腰掛けた。
デスクトップPCの電源を押す。くぐもった駆動音が唸りだす。
イラつくようにまだか、と膝を揺する。
咄嗟に思い出しかのように、脱ぎ捨てたスエットの中から携帯を取り出してきた。びしょ濡れだったが、何とか電源は生きていた。
ずっと不思議だった。
このような曲がどうして携帯の音楽プレイリストに入っているのか。今の騰波ノにならその意味も安易に理解出来た。
「私が好きだったんだ」
そこで数ある曲の中から自然と一つの曲に目を付けた。のと同時に空緒飛華の顔が脳裏に過ぎった。
【ラフマニノフ ピアノ協奏曲第二番ハ短調作品18】
マウスを操作する。真っ白なテキストファイルが現れた。
音楽を再生する。ピアノの一音が鐘のよう打ち鳴りはじめた。
目を瞑り呼吸を整える。
和音がゆるやかに一音……そしてまた一音と湖面を波紋させるように響く。
いまの自分に出来ることはなんだ、と騰波ノは考える。
濡れた髪から一滴の雫が滴る。
身を心に委ね、心に耳を傾ける。そして物語が心にある限り……。
「人の心に、届ける」
『音楽は心で生まれ、心に届かなければ意味がない』
かつての騰波ノは、この言葉に感銘を受け、自身の小説感に当てはめようとした。それが彼女を酷く苦しめた。遥か昔の文豪と呼ばれる者、そうでない者たちが持つ世界共通の苦しみ。
確かに世界中の文豪たちは、大半が目も当てられないろくでなしばかりだ。今の時代なら作品云々の前に消える類の人間。
だが小説だけには確かな『心』があった。光であれ、闇であれ。
だから今の今まで批判され続けてなお、それでも光り続ける原石のように――誰か一人の心を照らし受け継がれていく。それが――小説であり、文豪たちが全てを代償にしてまで足を踏み入れた文壇である。
――でも駄目だ……駄目なんだ。今まで通りにやってちゃ駄目なんだ。
ここで読者諸君に問いかける!
現代作家たちが生み出す小説に『心』はあるのか?
ええ、ええ、そうですか、そうですか。突然の質問ごめんあそばせ。では失礼。
(厳密に言えば)真心のこもった小説はたんとあるだろう。問題はそれだけの実力と真心が兼ね備えられた小説がどれだけ正当な評価をされているのか。言い換えれば心のある小説がそうじゃない小説たちにどれ程かき消されてしまったのか。
そうして栄光ある数多の文豪たちの陰には、歴史に名を刻むことは愚か、生きた証すら刻めなかった恭敬の意を表したい物書きたちがどれだけいることか――。
いっそ宮沢賢治よろしく死んでから活躍でもしてみるか。まだ氏は運がいいほうだろう。いや良いのか。実際氏の心構えからくる創作は、本来の形なのかもしれない。それを真の文豪とでもいうのか。天に昇ってから文豪だの名作だの、それでいいのか。そんな読書でいいのか。
それは読者のせいか。それとも作家のせいか。はたまた編集者のせいか。
――違う……違うんだ。全部皆のせいだ。小説を娯楽だけの簡易なものに収めようとした読者も悪いし、小説という壮大で果てしない無限の力を見誤った作家のせいでもあり、邪推な欲に目をくらませた編集者のせいでもあるんだ。
ただ運がなかった。売れない作品、読まれない作品には理由がある。時としてそれは残酷な真実であるだろう。
だが本当にそうか? 自身の評価に偽りなしか? そんな陳腐な言葉で片付けてなるものか。
時と真心。血と涙。命の代償。して金に勝るものなし。アワレ。
今この部屋で静かに流れているラフマニノフはいつだって独創的、民族的やロマンティックにとかそのような意識的な努力をしなかった。
彼はただ、聞こえてくる音楽に耳を傾け、創作を続けたように……彼も、否。――彼女もかつてそうでありたいと願い、死した少女は、今絶望の淵から、冥府の果てしない底から這い上がろうとしているのかもしれない。
――確かに小説は面倒だ。己の感情を代弁してくる者もいれば、思っていることの真逆を書く者もいる。ときに読者もそれを求めるし作家もそれで満足する時もあるかもしれない。何が真実で何が嘘なのか分からない。
そんな
誰だってボランティアでは続けられない。
「いい。でも……それでもいいから……」
まるで本来の自分を取り戻すように、虚ろな瞳でぶつぶつと念じる騰波ノ。
「諦めないで……」
――物書きにはどんなに馬鹿みたいで情けなくなるような小説であろうとも、どんなに格式ある高尚で近寄りがたい小説であろうとも、最後の最後まで心を込め続けて書いて欲しい。お金の為だから、生活の為だから、読者の為だから、娯楽なのだからと割り切らないで欲しい……。
『いい、騰波ノ鳴、よく聞きなさい。私は絶対にこの作品を書ききってみせる。私は曲げない。私はどんなことがあっても決して小説に噓はつかない。私は、私は絶対に最後まで諦めないから……』
「ありがとう。飛華、その通りだね」
『分かってる……分かってるわよ……甘いって言いたいんでしょ! けれど私にとって小説は命よりも大切なものなの。その気持ちだけは偉大な文豪たちにだって負けない! だってそれを教えてくれたのが――――
――貴方なんじゃないの?』
「命より大切なもの、か」
綺麗ごと抜きに物書きという生き物は家族、友人、恋人、同僚、仕事、私生活の全てを代償に投げ打ってでも小説を人生の第一優先にしてしまう愚か者たちであり、絶望者たちである。
どうか、どうかその心をしっかりと拾い、救いあげて欲しい。
本来在るべき形へ。
必然を自然に――そうやって命を残せたらどれだけ小説の神様は喜ぶか。
誰だって小説が好きになる瞬間があってそこには強弱も年齢も性別も人種も時代も関係ない。そしてどうかその尊くて最も美しい気持ちを未来永劫大切にして欲しい。
これは彼女の押しつけがましい傲慢な思いなのかもしれない。さらに情けないことにも彼女は一度、小説から逃げてしまった愚か者だ。
「……小説なんて、消えてなくなれ」と願ってしまった罪深き者。
だが騰波ノ鳴は今、この物語を書くためだけに筆を握る。
これは決して償いではない。では押し付けか、蔑みか、或いは願いか、それとも祈りか?
「違う」
遥か昔から小説はいつだって誰のものでもなく、いつだって誰かのものだった。
そして、本当の小説は誰かの心の中で生まれ、誰かの心の中で生き続けてきた。
騰波ノは静かに息を吸った。
そう、それはいつかの杉田が言っていたように。
「――ただ、はじめからそこにあったんだ」
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