3―2「小説ってなんなんですかね」


 すぐさま服を着替えた騰波ノは、店長の三島行男に挨拶を交わし、店を出た。

 裏口を抜けて、急ぎ足で通りを歩いていた。生徒らしき者たちも、ちらほらと伺える。

 西側の空には、薄煙のような雲が何条にも波をうねらせ、重なりあっていた。暮れていく夕陽は、鮮やかな茜色に染まっている。

 反対に、東側の空では、次の出番を待つように群青色の空が控えており、宵の明星がうっすらと輝いていた。


「ちょっと待って!」女の声が、急ぎ足の騰波ノを止める。振り返った先にいるのは空緒飛華だ。驚いた騰波ノの元に、慌てた様子で駆けてくる。腕には先程買い物した時に貰ったレジ袋をぶら下げ、文庫本をもう片方の手に持っていた。


「空緒さん!? まだいたの?」

「貴方のことを、待っていたの。少しだけ、大丈夫?」その場で小さく肩を揺らし、息を整える空緒。


「あるにはあるけど。ずっと待ってたの?」

「ええ、それより近くの公園でもいいかしら」

「いいけど、俺の寮もその公園の近くだし」

「案外アルバイト先と近いのね。貴方はあそこでずっとアルバイトしているの?」

「そうそう。難波さんの紹介で入れてもらったんだ」

「難波さんとは随分と仲がいいのね。クラスでもよく喋っていたわね、貴方たち」

「へぇ、意外と見てるんだ。空緒さんって」

「は、はっ、違う、違うわ。……勘違いしないで頂戴。たまたま、そう、偶然見かけただけよ。そこから貴方の発言を逆算し、緻密な計算からある一つの推理を導き出した結果よ」

「待ってる間に推理小説読んでたでしょ」

「読んでないわよ、馬鹿」空緒は真っ赤な顔をしてそっぽを向いていた。髪を何度も撫でている。

 騰波ノが空緒とこういった日常的会話をするのは、初めてのような気がした。

 公園入口にあるポールを抜けて、木製のベンチに腰掛ける。


「空緒さん、それなに読んでるの?」


 ハッと何かを思い出した様子の空緒は、文庫本をレジ袋に隠した。


「何でっ⁉」

「別に、貴方には関係のないことよ」空緒はパタパタと手うちわで火照った頬を冷ますように仰いでいる。


「空緒さんがどんな本読むのか気になったんだけどなぁ。あ、そうだ。空緒さんって確か文学賞に入選したって言ってたよね? 文学ってあんまり良く分からないんだけどあの太宰……治? 太宰って確か国語の教科書とかに載ってる走れ……チュロス、だっけ? 実はあんまりよく覚えていないんだ。何か空緒さんのおすすめとかあったら教えて欲しいな」


 すると、空緒は信じられないモノでも見た時のような顔で、騰波ノを凝視している。


「貴方、本気で言ってるの……?」

「う、うん。本気っていうか本当だけど?」


 今度は騰波ノから目を逸らした空緒は、顎に手を置き、ぶつぶつと呟きだした。先から何やら忙しい人だ、と騰波ノは思った。


「えっ、と空緒さん? やっぱり物書きとして太宰くらいは読んでおくべきだよね。ごめん、また今度学校の図書館で借りて読んでみるよ。ね、だからおすすめとか……」


 空緒は突然、レジ袋から先ほど隠した一冊の文庫本を取り出し、「この本を読んだことある?」といった。

 空緒が見せてきた文庫本には、『鬼の罪と密な男』というタイトルが表紙に描かれている。騰波ノはじっと見てから首を傾げた。


「いや……読んだことないけど。これ空緒さんの好きな本なの?」


 文庫本から目を離し、空緒を見た騰波ノは驚いた。


 ――泣いていたのだ。


「空緒さん!? えっ、大丈夫、体調でも悪いの?」

「違う……違うっ。よく、この表紙を見て……」


 腕で目を擦りながら空緒は言った。騰波ノは文庫本を手にとって見る。


「うん……?」


 表紙の右端辺りに『木浪きなみ 芽郁めい』と書かれているのだ。


「きなみ、めい、って読むのかな?」


 空緒は首を縦に振る。


「下の名前が俺と一緒の名前だね。確かに男でも女でもどっちでもいける名前だもんなぁ」


 なおこの時の空緒は、騰波ノの反応に納得がいかない、といった風に頭を何度も振っている。だから騰波ノは考えた。もしかしたら彼女は、自分をこの作品の作者だと勘違いしているのかもしれないと。


「あの空緒さん、わかってると思うけど、俺はこの作品の作者とは全くの別人だからね?」

「違う。全然、違うのよ」

「違うって何が?」


 それからも空緒はずっと黙り込んだままだった。

 いつのまにか空が完全な夜空に切り替わっていた。公園の街灯には、虫が集まっている。このままでは埒が明かないと思った騰波ノが解散を促したので、二人は帰宅することにした。

 その日の騰波ノは、何度も空緒の泣き顔を思い出してしまい、あまり寝つけなかった。微かな頭痛のせいもあった。


 ☆


 月曜日。毎週恒例一限のHR。一年一組の生徒たちは、誰一人休むことなく出席をするも、衣嶋の話は日を重ねるごとに短くなっていた。

「ねっむい」騰波ノは窓際の後列から二番目の席で、呑気にあくびをしている。眠そうに目をとろんとさせ、両手に顎を置いてクラス内を見渡していた。

 気のせいか、今日はいつもよりも視線が気になったが、いつものクラス風景ともいえた。仲の良いメンバーたちで雑談に耽る者たち。ノートPCを持ち出して原稿に集中している者や空緒のように読書に耽る者。純粋に寝ている者もいれば、騰波ノのようにぼんやりとクラス内の風景を眺める者もいる。

 いったいこの毎週月曜のHRに何の意味があるのか。騰波ノは考えていた。ただの雑談をするだけの会にもなっているが、それで罰金を逃れるならと皆が思っている。

 今回の前期必修試験は、クラス内でペアを組み、自作品の合計PV数を競い合うのが前提としてある。だがこの学院では、クラスメンバーが一堂に会するのはこの月曜一限HRのときだけだ。

 わざわざ罰金刑という制度まで設け、無理やりにでも顔合わせをさせる。かといって普段会うのは、せいぜいペアになった者か、仲良くなった者同士だけだ。

 実際のところ、騰波ノは殆どクラスメイトのことを知らない。そしてなぜか誰もが退学処分という話題に触れない。

 それはこのクラスだけなのか。はたまた他のクラスでは違うのか。


「……ッス……グッ……ズッ……」何やら騰波ノの後ろの席から、鼻水を啜るような音が聞こえたので振り返ってみる。


「難波さん、どうしたの?」


 うつ伏せになった難波は、顔をあげることもなく嗚咽を漏らしている。

 騰波ノは肩を優しくさすってみた。ほんのりと温かい体温を感じる。難波さんも生きてるんだなあ、なんて呑気に人間の生命を感じたりもしたが、反応がないので心配になる。


「大丈夫? 体調悪そうなら保健室にいく?」


 難波は拗ねた子供のように、首を横に振る。以後、何も言わず、顔もあげない。

 どうしたものかと思い、前の方の席で座っている杉田を見てみた。姿勢正しくカタカタとキーボードを叩いている。邪魔するのも気が引けたが、それよりも難波の様子が心配なので、杉田に声を掛けてみる。


「あぁ、難波さんね……」杉田はノートPCを閉じて、騰波ノに向き合った。


「騰波ノくんは、彼女の作品を読んでるかい?」

「四月辺りの時は、全部読みました。けど変にクラスメイトの作品に影響を受けるのも嫌で、残りは完結してから読むつもりで最近は読んでないですね」

「そうか。特に悪い気は持たないで聞いて欲しいんだけど、僕たちのランキングが上昇したのは知ってるだろ?」

「はい、お気遣いなく。この前、難波さんからバイト先で聞きました。専用サイトでも確認して驚きました。19位から8位になってて……アハハ、凄いですよね。おめでとうございます」

「別に無理しなくてもいいんだよ、騰波ノくん。理由は知ってるかい?」

「SNSで難波さんの実家のネコちゃんの動画が凄い可愛くて評判になって、それでついでに読んでくれる人も増えたって」

「そうなんだよ。実はそれがね……」


 杉田は気が重そうに携帯画面を見せてきた。そこには、『千集院ノベル』の難波が書いた小説の感想欄だった。

「えっ……」


 絶句した。作品の感想というよりも、作者の人格を否定するような攻撃的内容ばかりで、罵詈雑言の嵐だった。


「酷いもんだろ……」

「けど難波さん、この前会った時は、面白いって言ってくれる人が大勢いるって凄い喜んでたのに」

「最初はね……。きっと純粋に作品を楽しんでくれた人たちだったんだと思う。でも彼女の小説が日間ランキングの一位になってから状況が一変しだしたんだ……。ま、妬み嫉みの類だろうね。よくあることと言えばそれまでなんだけどね、問題はそれを引き起こす火付け役は……」


 そこで杉田は一度喋るのを止め、騰波ノに手招く仕草をする。次に耳元で囁かれた「大抵が同業者か元同業者だからね」というものに騰波ノは言葉を失った。


「ネットショップのレビューとかでもやたらと詳しく褒めてるのは身内のサクラで、その逆がライバル企業って言うのがわかり易い例かな。でこの場合、僕の推測だけど火付け役は多分……クラスメイトの誰かだとみている」

「なんで、そんなこと……」と言いながらも、騰波ノは何となくその理由を察していた。それもバイト先で難波から経緯を聞いたあの時から。

 自分にもその誰かと同じような僻みの部分を持っていたのかもしれない。だからといって、騰波ノは絶対にそのような愚かな行為には至っていない。


「どの世界でも大抵変わらないよ。だいたい否定的な事を言うのは、いつだって同士だ。悲しいけどね。名声やお金が絡むと人は変わってしまうものだから。で、それが一般の人たちも巻き込んでしまって、今回の炎上に繋がる。特に難波さんのようなやり方で、PV数を稼ぐとそうなる確率は高まる。皮肉にもそのお陰でアクセス数だけはうなぎのぼりで、今のランキングは7位だよ」


 騰波ノはぐるっとクラスメイトを見渡した。先ほど見ていた光景と同じはずなのに、今は全く違った景色になって見えた。

 何事もなく平穏なはずの教室。でも確かによく観察すれば、チラチラと感じる視線は騰波ノを見ていたのではなく、後ろでうつ伏せになっている難波を見ていたのだ。


「騰波ノくん、彼女の為にも今は大人しくしているんだよ」


 杉田にいわれ、騰波ノは無意識に作っていた拳を緩める。なんて都合がいいんだ、と余計に自身が憎らしく感じた。


「でも、こんなの難波さんが」

「可哀想だとでも言うのかい。まあ、不憫だろうね。彼女は狙って動画を投稿するような子ではないだろうけど、それを知っているのは内側にいる僕たちだけだ。それに、今回の試験はアクセス数が多いペアが勝つ勝負だ。グレーかもしれないが、規約違反ではないし、立派な戦略とみられてもおかしくない。そうやって外側からみれば、幾らでも違う解釈が生まれるものさ。それが結果として、見てもらう人が増えることを嬉しいことだとしか考えられない純粋な子だからね。それに、まだ若いから仕方ないのかもしれないけど、物書きにとって一部分側の事柄にしか思慮が回らないようでは、これから先ダメだというのも真実だ」


 杉田がいったことは手厳しいものだが、間違ってはいなかった。この世界は、読んでもらわないとまず話にならず、その数は多ければ多いほど良い。でもそうなればそうなるほど、同時に悪い評価も増える。それが時に作り手を潰してしまうこともあり、本末転倒にみえるが、お金は回る。才能を一つ失うことになるかもしれないが、まだまだ変わりがタケノコのように生えてくる。だから許されないが許される、残酷な無法地帯なのだ。

 何より騰波ノは、彼女の身を案じている場合ではない。どんな結果であれ、彼女はPV数を稼ぎ、ランキングが上昇している。それに対し、自分たちはこのままいけば、どちらかが退学処分になるのだ。

 相変わらず己の信念を貫き、更新しかしない空緒飛華。ありふれた作品しか書けず、宣伝もやるにはやったが消極的で、全てが中途半端な騰波ノ鳴。

 退学処分になるのに相応しいのは、一体どちらなのか。


「小説ってなんなんですかね」ふと、騰波ノの口からそんな言葉が漏れた。自然と肩の力が抜けていくようだった。


「なんだろうね。僕にも、わからないよ」杉田は悲しみを帯びた目をつむり、そういった。

 騰波ノは席に戻る。大きなため息を漏らす。やがて一限のHRは終了し、難波を尻目に、騰波ノは講義へと向かった。

 難波はその日の夜、ひっそりと消えるように、サイトから小説を削除した。

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