第三章「混乱と不正」
3―1「マイケルジャコソン君33歳」
『生命の命は儚い。私たちの命も、永遠ではないように、山田と名乗るこのイルカの命もまた、同様なのだ。これ儚いと思うのも人間側である私のエゴか。私はそれでもどこか、心の奥底で山田の命は美しい、と思うのだ……さようなら山田……また、いつか会う日まで……さようなら山田』
ふぅと息を吐いた騰波ノはベッドに身を投げた。今読み終えたのは、中島敦也が文豪戦で書いていた作品である。
文豪戦から二週間ほど経った六月初めにして、ようやく中島の小説を積読から解放出来たのだった。
「いい作品だった……」
薄っすら目尻に浮き出る涙を袖で拭う。読了後の余韻に浸るように、自室の天井を見上げていた。
幾ばくかの時が経った頃、バイトまでまだ時間の余裕があるのを確認し、手軽なインスタントコーヒーをマグカップに注ぐ。アルバイト先で買った安物だが、中々香りは良かった。
気分を入れ替える為に、携帯電話でラジオを流しながら原稿の軽い手直し作業などを行っていた。
『ガハハハッ! えぇ~続いての困ったさんはぁ、火星の端っこにお住まいの……へへっ、中々ユニークな場所に住んでるねぇ。ラジオネーム・マイケルジャコソン君、33歳からのお便り、でっす。はいっ、え~となになに……ぼくは、ねんに、さん回は小説をかいていろいろな新人賞におくっているのですが、どれも一次予選すら通過したことがありません。そこでぼくはかんがえました。どこの新人賞も、やらせやデキレースなんじゃないでしょうか。まいにち、ふあんで睡眠薬がかかせません。発作がはじまると発狂してしまうときもあります。そこで先生におねがいです。何かアドバイスか励ましの言葉をくれるとうれしいです……と。ふむふむ、なるほど……ジャコソンくんも苦労しているんだねぇ。そうだねぇ、僕の経験談からお話させてもらうとねぇ……新人賞ほど裏道がない世界もないんだよねぇ。またそれが余計にジャコソン君たちのような可愛い可愛い仔犬のようなアマチュアくんたちの気持ちを苦しめちゃうんだよねぇ。
何も新人賞ってのは面白い作品だけがのし上がっていくわけじゃないからねぇ。そりゃ面白いに越したことはないけどねぇ。作家の伸びしろを見抜くことが新人賞だからねぇ。まだ読んだことのない感覚、感情……そういったぶっとんだ未知の小説が書けるかが肝だからねぇ。とはいっても即戦力が求められるのも事実で、安定した面白さもいるし、いやどっちなんだよ、はっきりしろや、クソっ! ってねぇ……わかんないよねぇほんと。ムカつくよねえ、でもわかるよ~ジャコソン君。何せ、僕も新人賞は百五十回落選してるからねぇ……えっ、なにスタッフ君、そんな引いた顔してぇ……ガハハハッ……いいんだよぉそれでぇ~ジャコソン君……君は間違ってないよぉ。常に、上を向いて歩くんだよ。足元なんて気にせず何度も掬われちゃったらいいんだよぉ。その度に笑いながら立ち上がっちゃいなよぉ~明日に向かって、レッツラ、ズッコケ~なんちゃってぇ~イェーイ~はいっ、では次のお便り、でっす……』
「ジャコソン君も苦労してるんだなぁ……」
ジャコソン君とパーソナリティに多大な勇気を貰った騰波ノ。より集中しようと音楽に切り替えようと携帯をいじくっていた。
「これ毎回思うけど何で入ってるんだろう……母さんがいれた曲なのかな……」
曲のプレイリストにはどうしてか、騰波ノが普段では絶対に聞かないクラッシック音楽などがずらりと入っていた。
「ま、適当になんか聞いてみよ……」そう思って『ショパン ピアノ協奏曲第一番ホ短調作品11』の曲を再生させてみる。
騰波ノには曲の良さがよくわからなかったが、その後は何となく捗った。
☆
「ありがとうございました~」
騰波ノはお釣りをレジにしまい、レジ袋の補充をする。この頃はアルバイトにも随分と慣れてきた。再び、台置きに買い物カゴが置かれる音がする。
反射的に袋補充の手を止めて「らっしゃいませ~」と声を掛けたあと、意外すぎるその客の姿にフリーズした。
「こ、こんにちは……」といったのは、気まずそうに頬を染めた空緒飛華だった。
「あ、どうも……」騰波ノも気を紛らわそうと、すぐに商品のバーコードをスキャンしていく。
ピッ、ピッ、ピッ……と電子音だけが二人の気まずい空間を支配した。二人は例の一件以来、結局一度たりとも会話せず、そのまま一月の月日が流れていたのだ。
互いに相手を見ずじまいだ。たまらなく生きた心地がしなかった。
「お会計1259円です」
「はい……これで」
「1309円お預かりします……50円のお返しです。ありがとうございました」
あくまでも機械的に、騰波ノはやり過ごした。彼女とはどうやってもわかりあえない。それは小説を通して身に染みていた。
彼女はあれからも決してやり方を変えなかった。もちろんPVはてんで駄目だった。かといって騰波ノも、空緒に馬鹿にされた作品を書き直すことはしなかった。むしろSNSを使い、宣伝活動を始めてみたりと、作品外にも時間を費やすようになっていた。
何を言っても無駄だと悟った騰波ノは、自分だけでも頑張るようにと、PVも着々と伸ばしていき、今や1000の大台を超えている。
まだクラスでは最下位のままで、焦りや不満はあった。だが自分がやれることは限られているので、地道に頑張り続ける、それだけを心に過ごしていたのだ。
「…………」お釣りを貰った空緒は、その場で立ち止まったままだ。
「あの……」
「……さい……」頬を赤らめた空緒は、口元でぼそぼそと呟きながら財布のファスナーを開けたり閉めたりしてもぞもぞとしていた。
「あの、空緒、さん?」
「……だから……こないだはごめんなさいって言ってるでしょ!」
そう強く言った空緒は、また小さな声で「ごめんなさい……」と呟いた。
「こないだって……」
例の物議を醸し出すかもしれない『背負い投げ事件』から一月以上は経過している。流石の騰波ノも、当時よりは怒りも薄れはじめているのも事実だった。
「別に……気にしないで。俺も言い過ぎたしさ……こっちこそごめんなさい」
「……そう……」とだけ言葉を残して空緒は店を出て行った。
少しだけ心の中にあった靄が薄れた気がした。
「お疲れ様です! 騰波ノくん」
声を掛けてきたのは難波だった。眩しい笑顔だと騰波ノは思った。
「あ、お疲れ、難波さん。今日は入れ替わりだね」
「そうですね! けど来週は一緒のシフトだから楽しみですっ!」
「どうしたの難波さん、今日は普段よりご機嫌だね?」
「はいっ! わかります? 実はクラス内ランキングが凄く上昇したんです私たちっ!」
「えっ、へぇ……凄いね、おめでとう! そんなに上がったの?」
「はいっ! 普段から私の小説ってじわじわとしかPVは伸びなかったんですけど、二日前朝起きたらびっくりするほど伸びてて。前日にSNSに投稿した実家のネコちゃんの動画が可愛いかったらしく、沢山の人に見てもらって……そういうの確かバズったって言うんですか? それで私のアカウントにリンクを張っていた作品がとても伸びたらしいんです。感想でもすごい面白かったって大勢の人が言ってくれて……もう感激ですっ!」
難波はとても嬉しそうだった。様子を見るからに喜びが伝わってくる。いつもなら一緒に喜ぶべきで、むしろそうしたかった騰波ノの心中は、複雑な気持ちを渦巻かせていた。
「いいなぁ。羨ましい。俺も頑張らなくちゃね……じゃ、またね。お疲れさま」
「はい、また。お疲れ様です! ……いらっしゃいませ!」難波の声は、いつもより明るく、店内によく響いていた。
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